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10/27/2004

司法試験を純粋な資格試験にした場合に

昨日のエントリーに対して「ぐっちっち」というハンドルを名乗る方からコメントをいただきました。

大体司法試験は資格試験です。 一定程度の学力があれば、全員合格させるべきなんです。なんで定員を設けるのかわかりません。

とのことですが、これは簡単です。司法修習制度があり、司法研修所の定員は、実務修習まで考慮すれば法曹三者の受け入れ態勢を無視しては決定できませんので、自ずと司法試験合格者の数の上限は定まります。弁護士の数が全体で3万人もいないのに、年間3000人を実務修習で受け入れるということ自体、異常事態です。まして、裁判官も検察官も、弁護士より遙かに人数が少ないのです(裁判官がだいたい全国で3000名程度です。)。法科大学院関係者は、新司法試験を通してしまえば後は野となれ山となれでしょうが、彼らを受け入れなければならない法曹三者は大変です。

 ですから、司法試験を定員無視の純粋な資格試験とするためには、司法研修所を中心とし、法曹三者の実務を一通り体験させるという方式で行われる司法修習システム自体の継続を断念しなければなりません。そしてそれは、「法曹三者は、修習時に法曹三者の実務を一応一通り学んでいるので、相互交換性を与えても問題はない」という前提に支えられている「法曹一元」制度自体の見直しをも迫られるものです。これらの点は、公開の場で議論され、コンセンサスを得られたものではありません。法科大学院が乱立してしまい、このままでは法科大学関係者が責任を追及されてしまうという現実は、これらの法曹養成制度の根幹に関する事項をなし崩しに決定してしまうことを肯定するに値するものではありません。
 
 なお、司法研修所を中心とする司法修習制度を廃止し、司法試験を定員無視の純粋な資格試験とするためには、新司法試験を、「それに合格した者は直ちに法曹としての資格を与えて実務を行わせても問題がない程度の法律知識と実務能力を兼ね備えている」かどうかを図るものでなければならないですね。「法科大学院でまじめに課題をこなしていれば7~8割が合格する」なんていうレベル設定は意味がありません。
 そうだとすると、その場合に行われるべき「司法試験」というのは、むしろ司法研修所で行われてきた「二回試験」のようなものである必要があると思います。
 法科大学院における、法律既習者で2年、未習者で3年の「プロセス」教育で、「二回試験」と同様の試験問題に対してそれなりのレベルの起案が作成できる程度に法教育がなされうるというのならば、法科大学院は司法研修所に代替する教育機関であるといえそうですが、おそらく法曹三者の中では、法科大学院にそのような教育能力がないと考えている人の方が多数でしょう。
 
 いや、「ぐっちっち」さんが「一定程度の学力があれば、全員合格させるべきなんです」といった場合の「一定程度の学力」って、どの程度のものを想定されているのかわからないのですが、「一定程度の学力があれば、全員合格させる」こととした場合の「一定程度」とは相当高いものが要求されるというべきでしょう。他人の法的権利を左右する職業に就くのですから。
 
 なお、

法曹三者が既得権益を確保しようと、司法試験合格者を著しく制限しててきたのは周知の通りでしょう?

とのことですが、それは正確ではありません。そもそも市場競争原理にさらされるわけではない最高裁や検察庁には、司法試験合格者数を著しく制限することによって確保される「既得権益」はありません。また、弁護士か所属の弁護士の多くは、司法試験が易しくなってその結果合格者数が大幅に増加したとしても、「既得権益」は害されません。むしろ、「平成○○年度からは法曹資格は金さえ出せば誰でも得られるようになった」ということになれば、それ以前からの法曹資格とそれ以降の法曹資格は、市場において、別のものとして評価されることになるから、「既得権益」という点からは、かえって好都合です。しかも、新規法曹資格取得者の給与水準は大幅に下がりますから、パートナー弁護士が手に入れる所得はかえって増加します。さらに、地方会などについていえば、「薄利多売」を目指す新規法曹資格取得者に、国選やら当番弁護士等のまさに「薄利」というか「割に合わない」仕事を引き受けてもらえるならば、負担が軽くなります。このように自分たちの権益を第一に考えるのならば、司法試験の合格者数が大幅に増えたとしても、法曹三者としては痛くも痒くもありません。

Posted by 小倉秀夫 at 01:28 AM dans D'autre problème de droite |

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Voici les sites qui parlent de: 司法試験を純粋な資格試験にした場合に:

» 職業免許 de 池田信夫 blog
職業免許のほとんどが資格認定で代替可能だという議論は、40年前にミルトン・フリードマンが『資本主義と自由』で主張し、経済学者には広く認められている。 フリー... Lire la suite

Notifié: 31 oct. 2004, 00:18:56

Commentaires

通りすがりの者です。法曹ではありません。

ぐっちっち氏。
あなたにだけは法曹になってほしくない。
というか、私個人の意見ではあなたのような者を断じて法曹にしてはならないと思う。

なぜならば、あなたは物事を論じるとき事実に基づくことなく、それどころか、事実を調べようともせず、あなたの現在の理解が正しいとの前提で物事を決め付けてくるからだ。

またあなたは、一部の事象を取り上げて、それを検証することもなく、さも全体がその一部と同様であるとの前提で物事を論じている。

かかる態度は、人権保障と真実発見を目的として現在の形態に辿り着いた刑事訴訟を中世の暗黒裁判に引き戻すような態度であり法曹としての資質に極めて欠けると思う。紛争解決が目的であり真実発見が刑事訴訟ほど重視されない民事訴訟においても当事者が裁判所の判断に納得する前提として真実が追及されなければならないから、事実の認定はきわめて重要である。とすると、あなたは民事においても法曹としての資質に極めて欠ける人物であるといえる。

あなたには、なぜ裁判が、民事刑事を問わず、二当事者対立構造になっているのか、なぜ当事者主義が採用されているのか、なぜ刑事訴訟においては証拠能力が極めて厳格に定められているのかなど永遠に理解できないであろう。

法曹三者の法曹人口拡大に対する懸念はあなたのような低質な者が法曹として参入することによる、国民の不利益を懸念してのことである。法曹養成は国民の利益を第一に考えるべきであって、断じて法科大学院やロースクール生の利益擁護のために行われる者ではないと思う。

学者が中心であったロースクール推進者もぐっちっち氏と同様に社会科学的調査をまったく欠いたまま、非現実的な自己の理想のみを描いて、現行試験悪玉論、大学無謬論、裏返しとしての予備校悪玉論を煽り立てた。彼らは法曹ではないが、真理の発見という学者の基本的役割を全く放棄してロースクールを推進したのであり、著名な学者であっても、結局はエセ学者であったということであろう。


Rédigé par: いちロー生 | 31 oct. 2004, 13:46:44

どうも、反論ありがとうございました。
またまた、こちらから反論させていただきたいのですが、
>新司法試験を、「それに合格した者は直ちに法曹としての資格を与えて実務を行わせても問題がない程度の法律知識と実務能力を兼ね備えている」かどうかを図るものでなければならないですね。「法科大学院でまじめに課題をこなしていれば7~8割が合格する」なんていうレベル設定は意味がありません。

なぜ、資格試験に合格したとたんに、すぐに、既存の実務家と同様のレベルの職務執行能力まで達しなければならないのでしょうか?大体他の資格では、資格をとってそれから実務を覚えていくものです。いくら、司法修習を廃止したからといって、そこまでの能力を新人に問うのはどうでしょうか?まあ、小倉さんはあまり、法曹人口拡大に賛成でないみたいなので当然の意見でしょうが。

次に、>弁護士か所属の弁護士の多くは、司法試験が易しくなってその結果合格者数が大幅に増加したとしても、「既得権益」は害されません。
→そうですか?私の友人の弁護士は相当危機感を感じてますよ。人数が増えればパイは有限なわけですから、奪い合いになりますよね?そしたら、既得権益を害するのは当然の帰結では?
それに、数年前に日弁連がロー設立して法曹人口拡大の議案を可決しようとしたとき、弁護士さんが恥ずかしげもなく壇上に上がって罵声をあげてましたよね?
もし、既得権益が害されないのであればあそこまで恥知らずな行動はできないんじゃないですか?あれをみて、私は「そこまでして既得権益を守りたいのか・・」と愕然としました。
これが、エリートの弁護士のすることか・・・と。
どう思われますか?

Rédigé par: ぐっちっち | 28 oct. 2004, 18:31:22

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