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10/30/2004

「新旧司法試験合格者数に関する声明」に関する逐語的検討

私大の法科大学院の院長さんたちが「新旧司法試験合格者数に関する声明」を発表されたようなので、これに関する逐語的検討を行ってみたいと思います。

 最近の新聞報道によると、10月7日の司法試験委員会において、新旧司法試験合格者数に関する法務省素案が示された。同素案は、2006年度の新旧司法試験の合格者数を各800名、計1600名にとどめ、2007年度については新1600名、旧400名とすることなどを内容とするという。しかし、同素案の内容は、新旧の割合においても合格者総数においても、法科大学院を中心とした法曹養成システムに切り替えるという制度改革の理念を十分に反映しておらず、法科大学院制度の健全な発展を損なう危険性の高いものであり、到底賛同できない。

 2006年度及び2007年度は、制度改革に伴う移行措置期間ですから、新制度の理念が100%反映しないのは当然ですね。
 それはともかく、少なくとも合意された新たな法曹養成システムは、「法科大学院を中心とした」ものではあるにせよ「専ら法科大学院によるもの」ではなく、経済的な事情等で法科大学院に通うことができない人々のために「予備試験」というルートをも一定程度用意するものですので、2007年度の「新1600名、旧400名」という内容が「制度改革の理念を十分に反映して」いないとはいえませんね。将来的に、予備試験枠が全体の2割程度確保されたら「健全な発展」ができなくなるほど法科大学院制度というのは柔なものなのでしょうか。

 法科大学院制度の創設を提言した司法制度改革審議会意見書は、法科大学院の教育について、「その課程を修了した者のうち相当程度(例えば約7~8割)の者が新司法試験に合格できるよう、充実した教育を行うべきである。」とした。

 つまり、新司法試験に合格できるための「水準」がまずあって、法科大学院卒業者の相当程度をその水準以上に引き上げるべく教育を行う責務が法科大学院にはあるということですね。

同提言に応えるべく、全国の法科大学院は、「法曹養成に特化したプロフェッショナル・スクール」(改革審意見書)に相応しい教育の実践に向けて懸命の努力を払っている。また、学生達もこれに応え、毎日大量の予習課題をこなし、文字通り寝食を惜しんで学修に取り組んでいる。法科大学院制度は、その理念に向かって予定通りに船出したのである。

 「法科大学院制度の理念」は、法科大学院の教員に「懸命の努力」を払わせることでも、学生たちに「毎日大量の予習課題をこなし、文字通り寝食を惜しんで学修に取り組」ませることでもありません。法科大学院での教育活動によって、司法研修所での1年間の司法修習により法曹として必要な能力を身につけることができるようになるであろうレベルまで学生たちを引き上げることです。
 それに、「懸命の努力」なんて、的がはずれていれば意味がないことはいうまでもないことです。日本のような成文法主義を採用している国において、未習コースの学生に、最初から大量の判決文を読ませて満足している教員がいるとの話を側聞しますが、このようなものは単に学生に意味のない(そこまでは言いすぎだとすれば意味の乏しい)苦役を学生に課して満足しているだけに見えます。スポーツの世界ではとっくに科学的トレーニングが普及しているのに、法曹養成の世界では、いまだに根性論的アプローチが幅をきかせているとすれば、驚き、そしてあきれる他ありません。

 そのような中で最も懸念されているのが、新司法試験の在り方、とりわけ合格率である。  前記素案をもとにシミュレーションすると、2006年度における新司法試験の合格率は約34%、2007年度以降は約20%になるという。しかし、これでは、上記の厳しい学修に才能ある人材を引き付けるには余りにもリスクが大きく、新たな法曹養成制度の中核と位置付けられた法科大学院制度を崩壊させかねない。
   2004年にスタートした法科大学院制度は、少なくともその後に司法研修所を中心とした法曹教育を受けることを前提に制度が組み立てられており、そして、司法研修所を中心とした法曹教育を受けることができる人数については3000人を目標に漸増させていくということが合意されていました。したがって、法科大学院の入学者全体に対しする新司法試験合格率が20%程度に留まると「法科大学院制度を崩壊させかねない」というのであれば、法科大学院の入学者の数をこんなに増やすべきではありませんでした。  
 このことは、法曹志願者の年齢や出身学部にかかわりなく指摘しうる問題であるが、とりわけ、社会人や他学部出身者が法曹を目指して積極的にチャレンジしようとする気運を大きく損ね、法科大学院志願者の大半は従前通り法学部出身者ともなりかねない。そうなれば、「多様なバックグラウンドを有する人材を多数法曹に受け入れるため、法科大学院には学部段階での専門分野を問わず広く受け入れ、また、社会人等にも広く門戸を開放する必要がある。」(改革審意見書)とした多様性の理念は、たちまち暗礁に乗り上げることになる。

 法科大学院の入学者全体に対しする新司法試験合格率が20%程度に留まると、何故に、「とりわけ、社会人や他学部出身者が法曹を目指して積極的にチャレンジしようとする気運を大きく損ね、法科大学院志願者の大半は従前通り法学部出身者ともなりかねない。」ということになるのか、意味が不明です。法学未習者については3年コースとし、法学既習者については2年コースとしたのは、法学未習者であっても、1年間で法学既習者と肩を並べる程度の法律知識や法的思考法が身に付くということを前提としていたからであって、その前提が間違っていないのであれば、社会人や他学部出身者が「とりわけ」積極的にチャレンジしようとする気運を損なうという事態には陥らないはずです。まさか、社会人や他学部出身者は、法学既習者よりも法的知識や法的思考法が劣る状態のままで、法曹資格を付与されるべきだというわけではないでしょう。
 

 のみならず、学生の意識・関心は、法科大学院における地道な学修よりも、新司法試験における競争のための受験勉強に傾き、法科大学院教育そのものを変質させて、「点による選抜」から「プロセスとしての法曹養成」への転換(改革審意見書)を企図した法科大学院制度による教育の理念を根底から揺るがすことになろう。

 これはおかしいですね。
 司法制度改革審議会は、各法科大学院に対し、「その課程を修了した者のうち相当程度(例えば約7~8割)の者が新司法試験に合格できるよう」な充実した教育を行うように要求したのであり、新司法試験に合格できるような水準へと学生を引き上げることはそもそも法科大学院教育に課せられた使命なのです。
 新司法試験の合格者数を増加させることによって、各法科大学院が好き勝手なことをやっていても、全体としてみれば自ずと「その課程を修了した者のうち相当程度(例えば約7~8割)の者を新司法試験に合格させざるを得ないようにする」というのは、法科大学院制度による教育の理念とは全く関係がないことです。 
 

 そして、将来の日本社会が必要とする専門的能力を備えた法曹を養成するために多くの法科大学院が用意した多様な先端科目・実務科目や留学制度等は、まったく省みられない結果となるであろう。

 法科大学院にて先端科目や実務科目を履修することや、法科大学院在学中に留学することが、法曹になったときに、市場において高く評価されないということであれば、省みられない結果となるのは当然ですね。普通に考えれば、日本の法曹資格を取った後に留学して米国の法曹資格をとる方が、法科大学院在学中に留学するよりよほど合理的であることがわかります。
 

 新司法試験の合格率を引き上げるべきであるという主張は、ともすると法科大学院独自の利益主張のように受け取られるおそれがないではない。しかし、これと同様の意見は、司法制度改革推進本部の法曹養成検討会、司法改革国民会議、弁護士会その他さまざまなフォーラムにおいてもすでに表明されているところであり、広く支持を得つつある。

 弁護士会としてはそのようなことは表明していなかったはずですが。日弁連会長がなにか意見表明をしていたようですが、法科大学院の総入学者数が6000人を超えたことがわかってから、それにあわせて新司法試験の合格率を引き上げる=新司法試験の合格者数を引き上げることに関して、弁護士会の会内で意見調整がなされたという話を私は聞いたことがありません。また、法科大学院の卒業生の大半が法曹資格を得られないことになりそうだということは一部マスコミに報道されるようになりましたが、だからといって新司法試験の合格者数を大幅に増やせという声は、法科大学院関係者及び法科大学院の学生以外からはほとんど聞かれないのが現状です。
 

 そもそも法科大学院は、その設立母体となった各大学の独占物にとどまるものではなく、司法制度改革の一環としての公益的な目的を有するものである。各大学は、新たな時代に望まれる理想の法曹像を目指してカリキュラム等を工夫し、最大限の努力をもって法科大学院を設立した。これに呼応して、最高裁判所や法務省、弁護士会はいうに及ばず、さらには有志法曹や企業もが、教員の派遣や研修、学生研修などの面で、法科大学院の設立および運営のために多大なる協力と貢献をしている。それは、とりもなおさず、政府・国会によって法科大学院が新たな法曹養成システムの中核に据えられたことを踏まえ、これへの協力が法曹人口の量的および質的な抜本拡充という公益すなわち国民の利益のために不可欠であるとの認識に立脚してのことであるはずである。

 仮に、法科大学院の入学者に対する新司法試験合格者の割合が低いことにより法曹の「質的な抜本拡充」という公益が果たせなくなるというのであれば、法科大学院の入学者数の大幅な削減等の措置を講ずるのが、法科大学院という「公益的な目的を有する」システムを預かる人々の責務ではないかと思います。「法科大学院を有しない法学部は、二流、三流のものとして見られてしまう」等という狭い心根から、自校での法科大学院の運営にこだわり、法曹の「質的な抜本拡充」という公益を危険にさらすのは、「公益的な目的」を第一に掲げる方々が行うべきことではありません。

 我々は、司法試験委員会がこのたびの法曹養成制度改革の理念を十分に見据え、法科大学院を法曹養成制度の中核に位置付けてその健全な発展を図る観点から、前記の素案に追従することなく、法科大学院の課程を修了した者の大半が新司法試験に合格することをより早期に可能ならしめる方向で合格者数問題を抜本的に検討されるよう、強く要望するものである。

「法科大学院を法曹養成制度の中核に位置付けてその健全な発展を図る観点」からするならば、法科大学院の課程を修了した者の大半が、新司法試験の合格レベル、すなわち、司法研修所での1年程度の司法修習を受けることにより、旧来の司法試験の合格者が1年半程度の司法修習を受けることによって身につけてきた程度と同程度ないしそれ以上の法的知識と法的思考法、そして法曹として要求される技術を習得できるであろう法的知識や法的思考法等を習得するという「結果」がまず重視されます。しかし、現時点では、法科大学院は1人の卒業生も出していないのですから、当然、何の結果も出していません。この段階で、法科大学院の課程を修了した者の大半がどの程度のレベルに到達したかを問わず新司法試験に合格できるように新司法試験の合格者を大幅に増員せよというのは、全く筋が通っていないというよりほかにありません。

 なお、法科大学院制度の根本的な問題は、まさに法科「大学院」と位置づけられてしまい、大学を卒業した後でなければ入学できないことにあります。それゆえ、法科大学院に一旦入学してしまうと、法曹となれなかった場合に、修正が利きにくいところにあります。そこが一番の問題なのです。「入学者の大半が資格を取れないプロフェッション・スクール」なら、そのような世の中にいくらでもあります(もっとも厳しいのは、プロの将棋棋士になるための奨励会でしょうか。)。

Posted by 小倉秀夫 at 02:40 PM dans D'autre problème de droite |

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Commentaires

>なお、法科大学院制度の根本的な問題は、まさに法科「大学院」と位置づけられてしまい、大学を卒業した後でなければ入学できないことにあります。

 なるほど。それでいくと、2006年度入学者から適用される薬学部6年制はもっとひどい制度です。実質的に薬剤師になる以外に知識を生かせる就職場所を探せない新卒者を、当初は薬剤師需要の2倍、現在申請されている薬学部定員を合計すると3倍も作り出そうというのですから。
 法学部が法律実務を教えずにリベラルアーツ的なことをやって社会に一定の貢献をしていたように、薬学部も薬の知識をあまり教えずに自然科学一般を教えることで研究者(医薬品開発技術者)の養成に貢献してきました。
 ところが、最近はどんどん薬学部卒業者の製薬会社への就職口が狭まりつつあります。一部の研究重視の大学院卒業者以外は薬剤師になるか文系就職をするかという選択肢しかなくなりつつあるのです。
 6年制にして、しかも定員を9000人から15000にまで増やそう(薬学部設置申請が基準を満たしていれば認可せざるをえない)狂気の政策は、この傾向をさらに助長し、10年後には薬科大学の倒産と大量の就職浪人を生むことでしょう。
 薬学部における半年実習義務化が決められたのに、学生をどう実習場所に割り振るかはまったく決まっていません。受け入れ能力が全くないのです。医師の卒後研修のように就職後に実務を教えるなら無駄がないのですが、職に就かない人に実務教育をしようなどというなんてバカみたいな話です。

Rédigé par: 井上 晃宏 | 7 nov. 2004, 16:48:49

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