日本版フェアユースに関する議論の出発点
日本版フェアユースに関するシンポジウムが盛んに行われているようです。ただ,tsudaられたものを見ている限り,議論の出発点が違うような気がします。
仮に許されるとして,著作権法の根本目的との関係で合理的なのか。
議論の出発点はそこにあります。著作物の「公正な利用」までも禁止する権限を著作権者に付与することは憲法上許されない又は著作権法の根本目的との関係で合理的ではないということが承認されれば,次は,著作権者に禁止権を付与すべきでない「公正な利用」を全て適法とすべく権利制限規定を適切に立法する能力が立法府にあるのかということが議論の対象となります。すなわち,立法府にそのような能力があるということであれば抽象的・包括的な権利制限規定たる日本版フェアユースは不要だということになりますし,立法府にはそのような能力はないということになれば,日本版フェアユースは必要だということになります。
そういう意味では,日本版フェアユースの要否というのは,制定法を違憲無効とする制度,とりわけ適用違憲とする制度の要否と似ています。常に適切に例外規定を設けて過剰規制を回避する能力が立法府にあるのであれば適用違憲などという「予測可能性が乏しい」制度は不要ですが,実際にはそうではないので,適用違憲という仕組みが認められています。現在のところ,予測可能性が乏しいから,あるいは,弁護士に多額を報酬を支払わないと権利主張を行うことができないから,という理由で適用違憲という仕組みを認めることは許されないと主張している法律専門家はほとんどいないようです。
さらにいえば,その著作物の利用が「公正利用」にあたると裁判で主張するには時間と費用がかかるといってみたところで,その利用を適用対象とする権利制限規定を創設してもらうべくロビー活動を行うのに要する時間と費用と比べたら,よくよく安上がりです(おそらく,桁が一つから二つ違います。)。従って,「裁判闘争には時間と費用がかかる」ということは,日本版フェアユースを創設しない理由とはなりません。それは,「裁判闘争には時間と費用がかかる」ということが,裁判所による違憲立法審査を認めない理由とならないのと同様です。
Posted by 小倉秀夫 at 11:16 AM dans au sujet de la propriété intellectuelle | Permalink
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Commentaires
本当にその通りだと思います。
「形式的には著作権侵害だけど、これから金を取ることを認めるのはあんまりだ」という場合を救済するフェアユースに反対というのは、要するに「どんな形であれ、形式的に著作権を侵害しているものからは金を取りたい(取れないのならば差止したい)」というあさましい拝金主義の裏返しに他なりません。さらにこのような考え方は、そもそも非営利かつ無報酬の上演等を認める現行の著作権法の考え方とも、相容れないように思います。
自分はフェアユースもそうですが、まず著作権というものは著作者の人格的利益、および経済的利益を保護するためのものであり、それ以上のものではないという点から見直すことも必要だと思います。人格的利益でも経済的利益でもない、いわば権利のための権利などは法的な保護に値しないのだという当たり前のことを再確認することからまず始めるべきでしょう。
Rédigé par: gase2 | 24 sept. 2009, 20:36:21