01/04/2019

平成最後のパブコメ

A:リーチサイト等を通じた侵害コンテンツへの誘導行為への対応

権利侵害情報を含むWebページへのリンクの提供行為自体を違法な行為と規定するか否か、規定する場合どのような条件を課すか、リンク先のWebページに権利侵害情報が含まれている場合にリンクの削除義務を課す規定を置くか否か、置くとした場合どのような条件を課すか、その場合、検索エンジンについて特別の規定をおくか否かという問題については、そのWebページにおいて侵害されている権利が著作権や著作隣接権であるか否かによって対応を変える必要があるとは思えない。したがって、この問題は、著作権法の改正により著作権等が侵害された場合に限定した問題として立法的な解決を図るべき問題ではなく、プロバイダ責任制限法の改正等により、汎用的に立法的な解決が図られるべきものである。

なお、検索エンジンの大半は外国企業によって運営されているから、日本にいる被害者が外国企業たる検索エンジン提供事業者に対し安価かつ迅速に侵害情報へのリンク等の削除を求める仮処分等を申し立てることができる仕組みを構築しなければ、著作権法改正により上記削除義務を法定しても実効性を持たないことが予想される(例えば、Google Incは、日本在住者をもターゲットとして検索エンジンサービス等の提供を業として行なっているにも関わらず、外国法人としての登記を日本において行なっておらず、日本における代表者も定めていない。このため、Google Incに対し、違法サイトへのリンクの削除を求めて仮処分を申し立てまたは訴訟を提起しようとしても、Goole Incの代表者を証した公文書を取り寄せることが求められるとともに、主著書面および書証を英訳することが求められ、さらに仮処分であれば決定書が領事送達の方法によりGoole Incに送達されなければ効力が生じず、訴訟であれば訴状等が領事送達の方法で送達されなければ第一回口頭弁論期日さえ行えない。Google合同会社に対して仮処分を申し立てたり訴訟を提起したりしたところで、自分たちには権限がないと主張されて終わるだけである。)。したがって、外国の事業者に対する訴訟ないし民事保全に関する法整備を行うことなくただ漫然と検索エンジンサービス提供事業者に違法サイトへのリンクの削除義務を負わせる立法をしたところで、日本国発の新たな検索エンジンサービス事業の創設を阻害する以上の機能を持たないことは容易に予想される。

B:ダウンロード違法化の対象範囲の見直し

 違法にアップロードされたコンテンツの私的使用目的のダウンロード行為を不法行為としまたは犯罪行為とした場合、特定の人物(以下、「被疑者等」という。)がそのようなダウンロードをしたことを権利者がその権利者が民事訴訟または保全手続において立証し、もしくは検察が刑事裁判の中で立証するためには、被疑者等が使用している端末を物理的に押さえ、専門家による調査を行わせることが必要である。そのためには、訴えや保全申立て前の証拠保全や、捜査段階での捜索差押が用いられることにならざるを得ない。このようにして被疑者が使用するコンピュータ等の端末が押さえられ調査された場合、証拠保全を申し立てた「権利者」や捜索差押を実施した捜査機関は、その「被疑者」がいつどこにアクセスしてどのようなコンテンツをダウンロードしたのかを包括的に知ることになる。それはプライバシー権や思想・良心の自由を大いに侵害することになる。
 インターネットに接続しコンテンツをダウンロードする機能を有する端末機器を保有しているほとんどの市民には違法にアップロードされたコンテンツを私的にダウンロードしている可能性がある反面、そのようなダンロードにはそれ以上に特別な機器等を必要としない。このため、裁判所としては、被疑者等がそのような端末を保有している蓋然性が高いことだけチェックして令状の発布等を行うか、その他に違法ダウンロードをしている蓋然性が高いことを示す資料の提出を求めて事実上令状等の発布等を行わないこととするかの二者択一を迫られることとなる。前者の場合、別件の捜査のために、私的ダウンロード罪を被疑事実としてパソコン等の捜索差押がなされたり、マスメディア等が著名人に関する醜聞を追いかけるためにその著名人等のパソコン等について証拠保全の申立てをしたりする危険性がある。後者の場合、改正法はほぼ実効性を有しないこととなる。
 
 また、違法アップロードコンテンツのダウンロードの違法化・犯罪化は、その捜査等の過程で広く市民のプライバシー権や思想・良心の自由を制約することとなるので、これによりコンテンツの売上が飛躍的に向上する見込みが立たないのであれば実施すべきではない。それゆえ、上記立法が先行的になされた音楽・映像コンテンツについて、法改正の結果正規の音楽コンテンツおよび映像コンテンツの売上額の向上に繋がったのかをまず検証すべきである。
 なお、音楽コンテンツについては、違法にアップロードされたコンテンツの私的使用目的でのダウンロードを違法化しても音楽CDの売り上げの減少傾向に歯止めはかかっておらず、ダウンロード配信の伸びも、人気アーティストのデジタル配信への参加が広まっていったにも関わらず、ダウンロード行為を犯罪化した2012年以降、有料配信回数は着実に減少している(日本レコード協会が公開しているデータをもとにシングルトラックとアルバムの音楽配信売上額の推移を見てみると、ピークである2009年を1とした場合に、2010年が0.97、2011年が0.83、2012年が0.66、2013年が0.50、2014年が0.49、2015年が0.48。2016年が0.46である。)。反対に、違法にアップロードしたものであってもその視聴等が違法化されていないストリーム配信の売上額は2009年度のそれと比べて2016年度のそれは約20倍となっている。これをみる限り、ダウンロードの違法化、犯罪化は、コンテンツのうる上げを増大させるという目的との関係では、むしろ逆効果となっている可能性が高い。

 著作権等の制限に関する規定やこれに関する判例は国ごとに大きく異なっており、有償で正規にコンテンツ配信を行う事業者において自国法に基づいて必要な権利処理を行ったとしても、日本法を前提とした場合には権利処理が不十分とされる場合がありうる(例えば、著名な有償著作物に関するパロディ作品など。)。この場合、日本在住者または日本国外にいる日本国民は、その事業者の本国において適切に権利処理されている作品をダウンロード購入したのになお、日本で処罰される危険を負うことになる(理論的には、ダウンロード購入をする前に、日本法を前提とした場合には配信者がしなければならない権利処理を購入者側で行うことでこのリスクを回避することが可能であるが、現実的ではない。)。
 これは、日本在住者等のみが、特定の情報を知ること自体許されなくなるという事態を招来させるものであり、国民の知る権利をないがしろにするものである。したがって、配信事業者の本国法において必要な権利処理がなされたコンテンツについては、日本法のもとで必要とされる権利処理に不備があったとしても、そこからのダウンロードを不法行為ないし犯罪行為とするべきではない。

Posted by 小倉秀夫 at 12:55 PM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (0)

06/12/2017

芸能人の不祥事と損害賠償

 俳優等の不祥事が発覚したときに、その俳優等が出演していたコンテンツのテレビでの放送や映画館での上映等が中止されることがあります。この場合、これにより当該コンテンツにかかる権利者(テレビ局や映画製作会社等)は当該俳優やその所属事務所に対し、その中止により生じた損害の賠償を求めることができるのでしょうか。

 まず、出演契約に「不祥事特約」がない場合について考えてみましょう。

 この場合、


  1. コンテンツホルダーとの間の出演契約に付随する義務として一定期間不祥事を発覚させない義務を負うのか、

  2. 1.の義務違反とコンテンツの放送・上映の中止との間に相当因果関係が認められるか、
の2点が問題となります。

 まず、売買契約等の一回的な契約はもちろん、建物賃貸借契約のような継続的な契約であっても、不祥事を犯さない、あるいは発覚させない義務を契約の相手方に対して当然には負わないというのが、我々の社会の原則です。雇用契約のように相手方に対する一定の人格的信頼を前提とする継続的契約の場合、その前提となる信頼を損なうような不祥事が発覚したことを理由とする契約解除等が可能となることは有り得ます。しかし、それは、当該相手方が給付すべき役務の内容等との関係で、当該不祥事を犯した者からの当該役務の提供を希望しないことがやむを得ない等の事情がある場合に限られるでしょう(なので、建物建築請負契約において、建設会社の社長が不倫をしても、債務不履行解除はできません。)。

 もちろん、俳優等には当該コンテンツの製作期間中は、予め決められたスケジュールどおりに所定の現場に赴き、監督等の指示に応じて所定の演技等を行う契約上の義務があります。従って、逮捕・勾留され、あるいは任意捜査の対象として連日呼び出しを受けることとなれば、このような俳優等としての本来的義務が果たせなくなる危険が十分に生じます。したがって、当該コンテンツの製作期間中、身柄拘束等を伴うような捜査を受ける犯罪を犯すべきではないという限度で、不祥事を犯さない義務を認めることはできるでしょう。

 では、予定されたスケジュールをこなし、自分が求められた演技等の収録が終わったあとまで、身柄拘束等を伴うような捜査を受ける犯罪を犯すべきではないという意味での「不祥事を犯さない義務」を当然に負うと言えるでしょうか。

 この場合、もはや当該俳優等の身柄がどうなろうとも、当該コンテンツの成否自体には影響がありません。そして、犯罪を犯した(またはそのような嫌疑がかけられている)俳優等が出演したコンテンツをテレビで放送し又は劇場で上映してはならないという法令上の制限は日本にはありませんので、完成したコンテンツを放送または上映することに法的な支障はありません。ぼかしを入れる必要すらありません。その意味では、自己のスケジュール終了後いかなる不祥事を犯そうとも、コンテンツホルダーには客観的には迷惑をかける心配がないのだから、コンテンツホルダーに対して、そのような不祥事を犯さないという信義則上の義務を負うべき合理的な理由はないともいえそうです。

 しかし、実際には、そのコンテンツに出演している俳優等の不祥事が発覚した場合、当該俳優等の登場部分をカットすることが困難であるときには、当該コンテンツの放送・上映自体が中止になることが多いことも事実です。当該コンテンツの放送・上映を中止することは、法的な義務ではなく、倫理的な批判を逃れるためのコンテンツホルダーの自己保身に基づく決定であるとは言え、そのような結果に至ることは十分に予想される以上、そのような結果の招来を避けるために、自己のスケジュール終了後においても、一定の限度を超える不祥事を犯してはならないとする信義則上の付随義務が出演契約に付随するものとして当然に発生するという考え方にも一理はあります。

 仮にそのような付随義務を認めるとしても、それは、コンテンツホルダが当該コンテンツの放送・上映等を自主的に中止するに至るのもやむを得ないという状況を作り出すべきではないということに由来するわけですから、① 当該コンテンツにおける当該俳優等の役柄の重要度と、② 当該コンテンツの公開時期等との関係で、どの程度の不祥事を回避するべき義務を負うかが決まっていくこととなるように思います。

 出演契約の付随義務としての「不祥事を犯さない義務」に頼ろうとすると、その範囲は不明確です。したがって、出演契約において明示的に不祥事を犯さない義務を定めることは有益です。ただし、その場合、犯してはならない不祥事の内容、程度やその期間等を具体的に定めなければ、裁判官の事後的な判断に委ねられることになるので、予見可能性を欠くことになります。

 では、契約書上明文で定めておけばどんな「不祥事」についても回避義務の対象とすることができるのでしょうか。

 犯罪に該当するものはともかくとして、芸能人の「不祥事」と言われるものの多くは、私生活の領域の属するものであり、契約等によって第三者がこれを抑制することが公序良俗に反する恐れのあるものです。したがって、例えば、例えば「本件映画封切り後1年が経過するまでは、異性と不純な交友をしてはならない」「離婚してはならない」という条項が直ちに有効となるかと言えば、多分に疑問です。もっとも、役柄を離れた、俳優等の私生活上の地位等がもたらす幻想が当該コンテンツに高い商業的価値をもたらすことが予定されている場合に、一定期間、当該幻想を破壊するような私生活上の諸活動を発覚させないように求めることまでは、直ちに公序良俗に反するとまでは言えないようにも思います(それは出演料や役柄設定等に反映している以上、もはや純粋に私的領域に関する事柄とも言えなくなっているからです。)。

Posted by 小倉秀夫 at 01:38 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (0)

芸能人の不祥事と損害賠償

 俳優等の不祥事が発覚したときに、その俳優等が出演していたコンテンツのテレビでの放送や映画館での上映等が中止されることがあります。この場合、これにより当該コンテンツにかかる権利者(テレビ局や映画製作会社等)は当該俳優やその所属事務所に対し、その中止により生じた損害の賠償を求めることができるのでしょうか。

 まず、出演契約に「不祥事特約」がない場合について考えてみましょう。

 この場合、


  1. コンテンツホルダーとの間の出演契約に付随する義務として一定期間不祥事を発覚させない義務を負うのか、

  2. 1.の義務違反とコンテンツの放送・上映の中止との間に相当因果関係が認められるか、
の2点が問題となります。

 まず、売買契約等の一回的な契約はもちろん、建物賃貸借契約のような継続的な契約であっても、不祥事を犯さない、あるいは発覚させない義務を契約の相手方に対して当然には負わないというのが、我々の社会の原則です。雇用契約のように相手方に対する一定の人格的信頼を前提とする継続的契約の場合、その前提となる信頼を損なうような不祥事が発覚したことを理由とする契約解除等が可能となることは有り得ます。しかし、それは、当該相手方が給付すべき役務の内容等との関係で、当該不祥事を犯した者からの当該役務の提供を希望しないことがやむを得ない等の事情がある場合に限られるでしょう(なので、建物建築請負契約において、建設会社の社長が不倫をしても、債務不履行解除はできません。)。

 もちろん、俳優等には当該コンテンツの製作期間中は、予め決められたスケジュールどおりに所定の現場に赴き、監督等の指示に応じて所定の演技等を行う契約上の義務があります。従って、逮捕・勾留され、あるいは任意捜査の対象として連日呼び出しを受けることとなれば、このような俳優等としての本来的義務が果たせなくなる危険が十分に生じます。したがって、当該コンテンツの製作期間中、身柄拘束等を伴うような捜査を受ける犯罪を犯すべきではないという限度で、不祥事を犯さない義務を認めることはできるでしょう。

 では、予定されたスケジュールをこなし、自分が求められた演技等の収録が終わったあとまで、身柄拘束等を伴うような捜査を受ける犯罪を犯すべきではないという意味での「不祥事を犯さない義務」を当然に負うと言えるでしょうか。

 この場合、もはや当該俳優等の身柄がどうなろうとも、当該コンテンツの成否自体には影響がありません。そして、犯罪を犯した(またはそのような嫌疑がかけられている)俳優等が出演したコンテンツをテレビで放送し又は劇場で上映してはならないという法令上の制限は日本にはありませんので、完成したコンテンツを放送または上映することに法的な支障はありません。ぼかしを入れる必要すらありません。その意味では、自己のスケジュール終了後いかなる不祥事を犯そうとも、コンテンツホルダーには客観的には迷惑をかける心配がないのだから、コンテンツホルダーに対して、そのような不祥事を犯さないという信義則上の義務を負うべき合理的な理由はないともいえそうです。

 しかし、実際には、そのコンテンツに出演している俳優等の不祥事が発覚した場合、当該俳優等の登場部分をカットすることが困難であるときには、当該コンテンツの放送・上映自体が中止になることが多いことも事実です。当該コンテンツの放送・上映を中止することは、法的な義務ではなく、倫理的な批判を逃れるためのコンテンツホルダーの自己保身に基づく決定であるとは言え、そのような結果に至ることは十分に予想される以上、そのような結果の招来を避けるために、自己のスケジュール終了後においても、一定の限度を超える不祥事を犯してはならないとする信義則上の付随義務が出演契約に付随するものとして当然に発生するという考え方にも一理はあります。

 仮にそのような付随義務を認めるとしても、それは、コンテンツホルダが当該コンテンツの放送・上映等を自主的に中止するに至るのもやむを得ないという状況を作り出すべきではないということに由来するわけですから、① 当該コンテンツにおける当該俳優等の役柄の重要度と、② 当該コンテンツの公開時期等との関係で、どの程度の不祥事を回避するべき義務を負うかが決まっていくこととなるように思います。

 出演契約の付随義務としての「不祥事を犯さない義務」に頼ろうとすると、その範囲は不明確です。したがって、出演契約において明示的に不祥事を犯さない義務を定めることは有益です。ただし、その場合、犯してはならない不祥事の内容、程度やその期間等を具体的に定めなければ、裁判官の事後的な判断に委ねられることになるので、予見可能性を欠くことになります。

 では、契約書上明文で定めておけばどんな「不祥事」についても回避義務の対象とすることができるのでしょうか。

 犯罪に該当するものはともかくとして、芸能人の「不祥事」と言われるものの多くは、私生活の領域の属するものであり、契約等によって第三者がこれを抑制することが公序良俗に反する恐れのあるものです。したがって、例えば、例えば「本件映画封切り後1年が経過するまでは、異性と不純な交友をしてはならない」「離婚してはならない」という条項が直ちに有効となるかと言えば、多分に疑問です。もっとも、役柄を離れた、俳優等の私生活上の地位等がもたらす幻想が当該コンテンツに高い商業的価値をもたらすことが予定されている場合に、一定期間、当該幻想を破壊するような私生活上の諸活動を発覚させないように求めることまでは、直ちに公序良俗に反するとまでは言えないようにも思います(それは出演料や役柄設定等に反映している以上、もはや純粋に私的領域に関する事柄とも言えなくなっているからです。)。

Posted by 小倉秀夫 at 01:35 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (0)

09/29/2008

平成20年度後期第1回目のゼミの課題

 そろそろ中大法学部の2年生の学生さんが3年時以降のゼミの希望を出す時期になりましたので,私のゼミでどのような課題が出されているのかをご提示しておきたいと思います。例えば,前回のゼミの課題は概ね下記のようなものです。



 Aは,著名な戦場カメラマンである。Aは,朝鮮戦争を取材中,中国人民志願軍の反抗に巻き込まれ,行方不明となった。

 Bは,朝鮮戦争について,Aと特派員契約を結んでいた新聞社である。Bは,Aが制作した朝鮮戦争に関する写真および記事の交付をAより受け,その一部をBが発行するB新聞に掲載していた。

 Aが行方不明となった当時,Aの推定相続人はCとDのみであった。

 E市は,その開設する美術館Fにおいて,報道写真で戦後を振り返ることを主たるテーマとした展覧会Gを企画した。E市としては,展覧会Gにおいては,Aが朝鮮戦争を取材中に撮影したAの代表作Hおよびこれに付された記事を展示することは欠かせないと考えていた(なお,写真Hは,国連軍がソウルを奪還した頃の写真であるが,この写真の初出は,中国人民志願軍が北朝鮮内から完全撤退をしたことを受けてその1週間後にB新聞に掲載された,朝鮮戦争を振り返る特集記事であった。)。また,Hについては,パンフレットや展示作品を収蔵した写真集やDVD等を,出入り業者Iに委託して作成させ,FのミュージアムショップJで販売することを企画した。

問1

 BまたはE市は,Aについて失踪宣告の申立を行うことが出来るか。また,Aについて失踪宣告が認められた場合,Aの作品についての著作権の保護期間はいつ終了するか。


 Bから要請を受けたCの申立てによりAについて失踪宣告がなされ,その後の遺産分割協議において,Hのネガフィルムおよびこれに付された記事の草稿等はCが相続することとなった(遺産分割協議においては,ネガフィルムや草稿などの遺稿については,C,D間でそれぞれ半数ずつ分け,その他の遺産については,それぞれ2分の1ずつの割合で共有することとした。ただし,CおよびDは,これらについての著作権は既に保護期間が経過していると考え,ことさら遺産分割協議書には著作権について言及しなかった。)。しかし,展覧会Gの開催日の半年前に,K新聞のスクープにより,Aは朝鮮戦争では死亡せず,「L」と名前を変えて,闇の武器商人として暗躍していたことがわかった(ただし,Aは,ベトナム戦争取材中,テト攻勢に巻き込まれて死亡していた。)。

 Bから自分だけお金をもらって失踪宣告の申立てを行ったC,および自分を無視したBに遺恨を抱いたDは,Hについて,展覧会Gに出品し,その際に,出入り業者Iが作成し,ミュージアムショップJで販売される写真集やDVD等にHを掲載することに反対した。


問2

 B又はE市としては,合法的に,Hについて,展覧会Gに出品し,その際に,出入り業者Iが作成し,ミュージアムショップJで販売される写真集やDVD等にHを掲載するにはどうしたらよいか。


問3

 Cは,あのDの頑なな態度の元では,Cが単独相続したAのネガフィルム等をプリントしてAの作品を世に広めることができなくなると心配になった。そこで,Cは,Cがネガフィルム等を単独相続した作品については,ライセンス料収入の半分をDに支払うことを条件に,Cの指定する出版社等に,写真集,DVD等への掲載を許諾することに合意することを求める訴訟を提起することを考えた。このような請求は認められるか。


問4

 Cは,Hを含むAの作品に係る著作権について,共有物分割の申立て(又はこれに準ずる手続)を行い,これにより,ネガフィルム等について単独相続を行った相続人がその著作権を単独で所有することとするようにしてもらうことは出来るか。


問5

 Cは,妻子ある男性Mと駆け落ちし,その後Mと重婚的内縁状態にあったが,子供をもうけなかった。Cは,自分の遺産は全てMに相続させる旨の公正証書遺言を作成していた。Cの死亡後,DはMに対し,「Aの作品の著作権についてのCの持分がMに渡ることには同意できない。それらは全て,Cの死により,私が相続したのだ」と主張し,その後,Dは,Dがネガフィルム等を相続したAの写真について,Mに相談なしに,出版社Nと出版契約を結んだ。

 MはNに対して,Aの写真を掲載した写真集の出版の差し止めを求めることは出来るか。



 相続等により著作物が共有状態になっているときに著作物を利用するためにはどのような法的な措置が必要となるのか,また,現行著作権法の施行前に作成された著作物についてその保護期間をどのように算定するのか,を理解していただくのが主眼です。まあ,後期の第1回目ということもあって,若干民法の復習もしていただきましたが。

Posted by 小倉秀夫 at 11:25 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (1)

12/17/2007

角川歴彦さんの誤解

 角川歴彦さんの最大の誤解は、エンドユーザーによる著作物の享受を「著作物の利用」に含めている点にあります。しかし、歴史的にも、比較法的にも、あるいは国際条約との関係でも、著作物を享受すること自体は著作物の「利用」に含まれていません。'エンドユーザーが著作物を享受をしたことについて著作権者等に利益還元を行わない'という状況は、著作権システムとしてはそもそも正常なのです。例えば、書籍を借りて読んだ場合に、少なくとも借主は、営利目的であったか否かを問わず、その書籍を読んだことによる利益の一部を著作権者に還元などしてこなかったわけです。


 近年、エンドユーザーが著作物を享受する際に、著作物を自己使用目的で複製することが広く行われるようになりましたが、これとて、社会経済的に見ると、エンドユーザーによる著作物の享受の一態様でしかないので、そのことについて著作権者等に利益還元を行わないということは、著作権システムとしては正常の範囲にあると見ることが可能です。形式的に「複製」が行われているにせよ、その「複製」は頒布行為の予備的行為としての複製とは性質が異なるのです。その意味において、インターネットによる配信を「三次利用」と位置づけ、映像を閲覧したユーザーから、視聴料金とは別に料金を徴収する権利として「閲覧権」を創設せよとする 角川さんのご提唱こそ、従来的な著作権の概念を覆すものであるといえます。


 最もいけないことは、著作者がコンテンツの創作意欲をなくすことであるとしても、そのために、著作権システムとしてはいびつな料金徴収を行うことが果たして適切なのか、ということは大いに問題です。むしろ、「著作者がコンテンツの創作意欲をなく」さないようにするためには、出版社等の中間業者が、印税率等を引き上げたり、契約で必要以上に著作者の権利を吸い上げることをやめたりすることの方が先決なのではないかと思います。折角書籍について貸与権を創設しても、貸与権を有しない出版社がライセンス料の大半をせしめてしまうようでは、エンドユーザー側の譲歩は「著作者がコンテンツの創作意欲をなく」さないようにすることに貢献しないのです。

Posted by 小倉秀夫 at 02:36 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (0)

01/31/2005

むしろ、報道大学院を!

 毎日新聞の社説が今頃話題になっています。

 「超難関のため多くの受験生は大学より司法試験予備校に通い、マニュアル化した受験教育を受けているのが実情」ということと、「合格するために有名大学に、有名大学に入るには有名高校に……といった受験偏重主義も幅を利かせている」ということとが併存していると素直に考えられる論説委員を抱えている毎日新聞社は、論理的思考力や社会常識という点に問題があるかもしれません。また、「実情」をきちんと取材していれば、司法試験が極端に易化したごく最近を除けば、「大学より司法試験予備校に通い、マニュアル化した受験教育を受け」た受験生が大量に合格する事態には至っていなかったことがわかったであろう(司法試験が超難関である場合、「マニュアル思考」しかできない人はあまり受からないのです。)し、旧司法試験においては有名大学、有名高校に入るということが、全く意味を持っていなかったこと及び法科大学院においては就職するためには有名法科大学院に入り、有名法科大学院にはいるためには有名大学に、有名大学に入るには有名高校に……といった受験偏重主義も幅を利かせてくるだろうということがわかったであろうに、思いこみで社説が書ける毎日新聞はお気楽な職場であるようです。
 
 法科大学院の前に、報道大学院を作るべきだったかもしれません。
 
 さらに付言すると、法科大学院でどういう教育をしたら「豊かな社会常識、幅広い人間性などを身につけ」させることができるようになるのか、少し考えたらわかることなのですが、毎日新聞社の論説委員は、大学院教育で「豊かな社会常識、幅広い人間性などを身につ」くという幻想を抱くほど思考力がないということがいえそうです。

Posted by 小倉秀夫 at 11:41 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (1) | TrackBack (0)

01/22/2005

国民会議とサイバーカスケード

 今更ながら、キャス・サンスティーンの「インターネットは民主主義の敵か」(原題:「Republic.com」)を読みました。
 
 ここで繰り返し論じられている「エンクレーブの弊害」、すなわち、「同じ考えの人たち同士の議論は、過剰な自信、過激主義、他者の蔑視、そしてときには暴力さえ引き起こすリスクがある」(33頁)という議論を読んで、私が真っ先に思い浮かべたのは、なんとか国民会議と名乗る集団のことです。
 
 「国民会議」といいながら、そのほとんどは国民各層から意見を吸い上げて討議するものではなく、トップダウンで選ばれた人たちが集まって、偉そうな提言をするというのが基本的な特徴です。その多くは、「エンクレーブのリスク」すなわち過剰な自信、過激主義、他者への蔑視を見て取ることができます。
 ろくに事実調査をせずとも自分たちの見解が正しいと確信を抱き、反対論者については守旧派・業界エゴなどのレッテルを貼ってその意見を一顧だにせず、その結果、現状とはかけ離れた、実現可能性の低い提言を、どうどうと行っています。この種の集団に属する方々の中には、自分と反対の立場に立つ人々の見解を引用すらしないという、社会科学系の論文の作法としては考えられないような論文を書く方も混じっているようです。
 
 しかも、このエンクレーブは悪いことに、権力機構との距離が近く、そこで醸成された過激な結論が公共政策として反映される危険が高いという特徴があります。そういう意味では、「サイバーカスケード」よりたちが悪いともいえそうです。

Posted by 小倉秀夫 at 02:29 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (2) | TrackBack (0)

12/30/2004

精密ではあるが正確ではない刑事司法

 我が国の刑事司法は「精密司法」といわれることがあります。広辞苑によれば「精密」とは「くわしくこまかいこと」だそうですが、そういう意味であれば「精密」といえるかもしれません。検察は、被告人の生い立ちから趣味嗜好まで、どうでも良さそうなことまで立証しようとします。
 
 しかし、我が国の刑事司法は、「精密」ではあっても「正確」なものではありません。残念ながら、裁判所も検察も、「実体的真実」の追究にあまり熱心ではないからです。いわゆるWinny正犯事件において、裁判所が弁護人の弁護活動について判決文の中で難癖をつけた件は、図らずも我が国の刑事司法のこの病理を明らかにしたものということができます。

 警察官も、検察官も、犯罪捜査のプロではありますが、神様ではありませんので、時に間違えることがあります。そして、間違いに自分で気が付くというのは得てして難しいものです。したがって、警察官や検察官の捜査活動を批判的に検証する弁護人の活動というのは、警察官や検察官の思い違いを排除し、裁判所が真実に近づくのにとても有益です。
 そして、「警察官や検察官の捜査活動を批判的に検証する」という活動を弁護人が効果的かつ効率的に行うためには、警察官や検察官が捜査活動を行うにあたって収集した資料を全て(すなわち検察官等に取捨選択させることなく)弁護人に開示し、検証させるのが合理的です。警察官や検察官が捜査活動を行うにあたって収集した資料のうち、被告人が有罪であるとの印象を裁判官や陪審員に与えるであろうと検察官が考えたもののみを弁護人に開示し、そうでないものは弁護人の目の届かないところに隠匿する権限を検察官に認めた場合、検察官が隠匿した資料や、その資料の存在又は内容を知っていたとしたら弁護人が収集できたであろう資料が証拠として法廷に提出されていたとしたら無罪となっていたはずの被告人に刑罰を科してしまうことになるからです。
 
 検察官と被告人(弁護人)を対立当事者として訴訟活動を闘わせることにより実体的真実を追究していこうという当事者主義的な訴訟構造を採用している諸外国においても、訴訟テクニックを駆使して無実の者を刑務所に送り込むゲームをプレイする権限を検察官に与えているところは、少なくとも日本以外にはありませんので、警察官や検察官が捜査活動を行うにあたって収集した資料を隠匿する権限を検察官に与えません。例えば、カナダでは、いわゆるスティンチコム事件における最高裁判決において、「検察の手中にある捜査の成果は、有罪を確保するための検察の財産ではなく、正義がなされることを確保するために用いられる公共の財産である」として検察官は被告人に対して全面的に証拠を開示する義務があるということを判示しました。
 
 ところが、日本では、証拠を隠匿し、これにより被告人を有罪に陥れる権限が事実上検察官に求められており、検察官は頻繁にこの権限を行使します。裁判所は、「弁護人に証拠を開示してあげなさい」と検察官に命ずる権限はあるのですが、この権限を行使したがりません。これは、検察官も裁判官も、実体的真実の追究なんてものにはさしたる関心がないからに他なりません。
 
 Winny正犯事件において裁判所は、

弁護人は,裁判所に対し,証拠の取調を請求するに当たり,虚偽の事実を告げたものといわざるを得ない。このように裁判所に対して虚偽の事実を告げて証拠請求をするなどという弁護活動は,裁判所と弁護人との間の信頼関係を著しく損ない,事件の審理ひいては実体的真実発見にも多大な悪影響を与えかねないものであって,弁護士倫理の観点からも到底許されるものではない
と判示しています。しかし、弁護人が、検察側の立証の問題点を明らかにするために、検察側が保有していて出したがらない資料を証拠として取り調べてもらう必要はあると判断したのであれば、その資料について取調べを請求するのは当然のことであって、虚偽の事実を告げなければこの要求に応じないという裁判所の姿勢こそが問題であると言えます。この程度の証拠取調べ請求を行うのに虚偽の事実を告げなければならないとすれば、既に弁護人の裁判所に対する信頼はとっくに損なわれているということができるわけですし、捜査機関が作成・収集した証拠を、弁護人が取捨選択して証拠として取り調べてもらうということは実体的真実の発見に資することはあっても、多大な悪影響を及ぼす危険などないとすら言えます。
 
 なお、日本の刑事司法が実体的真実の発見に無関心と思われる事情としては、他に、弁護側の証拠取調べ請求を取り上げることに対する裁判所の消極性や、弁護人による反対尋問の成果を判決に反映させることに対する消極性(刑事訴訟法321条1項2号が簡単に適用され、密室で作成された検面調書の記載が公開の法廷での証言よりも優越的に採用されます。)等をあげることができます。
 
 で、さらに議論を広げるとすると、「100年に一度の司法改革」等といいながら、諸外国並みの、全面的証拠開示義務を検察側に負わせなかった今回の司法改革は、少なくとも刑事司法に関していえば、無実の者を刑務所に送り込むゲームをプレイする権限を検察官に与え続ける、救いようのない改革であるということができそうです。

Posted by 小倉秀夫 at 02:22 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (2)

12/29/2004

亜細亜大学野球部と客観報道

亜細亜大学野球部員の痴漢被疑事件について、少なくとも「現行犯」逮捕され、マスコミからおもしろおかしく報道されていた件については、嫌疑不十分で不起訴となった模様です。

「被害者」の女の子が早く合図を出し過ぎただけなのかもしれないし、そもそも考え過ぎだったのかもしれません。

それはともかく、報道機関は、この現行犯逮捕直後に、なぜ間違った内容の報道を繰り広げてしまったのか、視聴者に分かるように検証する責任があるのではないかと思います。警察等の役人からのリーク情報をそのまま報道することを「客観報道」と称して開き直っていては、いつまで経っても、マスメディアの「質の向上」に繋がらないのではないかと思うのです。

Posted by 小倉秀夫 at 11:41 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (0)

12/26/2004

毎日新聞のレベル

 毎日新聞社も、司法改革に関して社説 を掲載したようです。
 
 この社説も、「ろくに事実関係を調査せずに記事を作成する」日本のマスメディアの体質がにじみ出ています。
 「同大学院修了を受験資格とする新しい司法試験では、修了者の7割から8割が合格する見通しとされていた。」なんて言ってしまっていますが、それは少なくとも法科大学院の総入学者数にあわせて新司法試験合格者数を設定せよという意味では、法曹養成システムとして法科大学院制度を選択することとした際には、全然言われていなかったのであって、「修了者の7割から8割」というのはむしろ各法科大学院に対して法科大学院修了のレベルをそこまで引き上げろという意味で用いられていたことは、過去の議事録等を調べれば分かることです。法科大学院による教育の結果、法科大学院修了者の上位7~8割がどの程度のレベルにまで到達したかを問わず、彼らを全て新司法試験に合格できるようにしようということについては、当時コンセンサスとして成立していなかったわけです。
 
 毎日新聞は「新制度への期待感の表れか、予想を上回る68校の同大学院が開設され、定員も6000人規模に膨らんだことの影響も無視はできない。しかし、新試験の合格率を抑えれば、同大学院の予備校化を招き、改革を逆行させかねない。」というのですが、「法科大学院の理念に従った学習をしない」学生を各法科大学院が卒業させなければそういう事態は発生しないわけですし、そもそも「プロセスとしての法曹養成制度」としての法科大学院制度において、その「プロセス」を担う法科大学院は、質的に問題がある者が法曹とならないように「プロセス」の中でこれを除去する役割を担っているはずなのであって、その役割を果たす気のない法科大学院が「法科大学院の理念に従った学習をしない」学生までも法科大学院を卒業させることを当然の前提としていることこそが「改革を逆行させかねない」のです。
 
 それに「法務省などには合格者の質の低下への懸念があるというが、そもそも資格試験に合格枠を設定するのも奇妙な話だ」というけれども、「法科大学院→新司法試験→司法研修所→二回試験」というプロセスを採用した時点で「合格枠」≒「司法研修所の入所定員」が設定されるのは当然のことです。
 
 もっと根源的なことをいえば、毎日新聞の社説は「超難関のため多くの受験生は大学より司法試験予備校に通い、マニュアル化した受験教育を受けているのが実情だからだ。合格するために有名大学に、有名大学に入るには有名高校にといった受験偏重主義も幅を利かせている。」というのですが、「超難関のため多くの受験生は大学より司法試験予備校に通い、マニュアル化した受験教育を受けているのが実情」ということと「合格するために有名大学に、有名大学に入るには有名高校に……といった受験偏重主義も幅を利かせている」ということは一見して矛盾しているように思われます(大学に通わなくとも司法試験予備校に通えば合格できる程度のもので現行司法試験があるならば、「合格するために有名大学に、有名大学に入るには有名高校に」なんていう受験偏重主義は意味がないし、むしろそれは「法学部出身者に限らず、幅広い分野から人材を受け入れ」るのに役に立っているではないかとも言えそうです。)。
 
 また、「その結果、20年近くも受験勉強を続けた者が裁判を担うようになり、人情の機微に通じていない法律家が生まれたり、いびつな司法判断が目立つ、といった指摘を受けるようになっていた。」と毎日新聞がいう場合の「受験勉強」の始期をどこに捉えているか今ひとつ分からないのですが、現行司法試験において、現役又は1浪程度で大学に入学し、そのまま受験勉強を続けて、30台を超えてようやく司法試験に合格するという「苦節十数年」型の合格者というのは非常に例外的な存在であることはきちんと取材すれば容易に分かる話ですね。それなのに、現行司法試験が超難関であるがために、「20年近くも受験勉強を続けた者」がやっと合格するのが一般的であるとの誤解を招きかねない表現をするのはいかがなものかと思います(しかも、そういう例外的な方はほとんど裁判官になっていないのだから、それが「いびつな司法判断が目立つ」原因には全然なっていないことは明かですし。)。
 
 それに、法科大学院制度って、「人情の機微に通じた法律家」を生み出すのに役立つ制度でないことは明らかです。法科大学院制度を採用し、かつ、法科大学院入学者は、高額の学費を納め続け、かつ、3年間法科大学院の教員たちに表立って楯突かずにやり過ごせばその7~8割が新司法試験に合格できるようにすれば「人情の機微に通じた法律家」が生まれるだろうだなんて、馬鹿げた話です(だいたい、大手マスメディアの多くは、超難関の大手マスメディアに苦労せずに入社した「コネ入社組」を少なからず抱えているのだから、彼らが「正規入社組」と比べて「人情の機微に通じ」ているかどうかなんてことはよく知っているはずだと思うのですが。)。
 
 毎日新聞社は、この程度のことも分からない人が社説を書くポジションにいるということでしょうか。あるいは、その程度のことは実は分かっているけれども、広告料収入のことを考えると、たくさんの法科大学院が乱立する状態が望ましいと考えてあえて国民を騙そうとしているのでしょうか。

Posted by 小倉秀夫 at 11:21 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (2) | TrackBack (0)

12/21/2004

東京新聞からの返信

昨日の22時ころ、「東京新聞論説室(15日付の社説筆者)」から、A4・1枚の回答書が私の事務所宛にFAXで送付されました。
(FAXのヘッダには、
「'04 12月20日 22:00     イイムロ」
とあったので、おそらく飯室勝彦さんだったのでしょうね。)

いろいろ書いてはありましたが、「研修所で裁判官や検事と『同じ釜の飯を食った』経験への弁護士の郷愁」が司法研修所による実務教育を受けさせるという制度が採用された代表的な理由の一つであるとする具体的な根拠は、結局のところ書いてありませんでした。

私は、ある裁判官やある検察官が研修所の同期であることを誇らしげな顔で語る弁護士に会ったことはないし、裁判官や検事との間にパイプがあること自慢げに語る弁護士にもお会いしたことはない(検事との間にパイプがあることを売りにする弁護士はヤメ検さんにはいそうな気がしなくはないですが、裁判官との間にパイプがあるなんて話をする弁護士って、私は噂にも聞いたことはないです。)のですが、そういう私は同僚や会内の雰囲気に通じていない弁護士と認識されてしまったようです。

Posted by 小倉秀夫 at 10:56 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (4) | TrackBack (2)

12/16/2004

報道機関は特別!!

 ドン・キホーテ放火事件絡みで、ドン・キホーテの従業員が、消防署の記者会見に潜り込んで聞いていたことが問題とされていたそうです。

 しかし、警察や消防署が未確定の情報等を報道陣にだけブリーフィングするということ自体がおかしいんですよね。

 警察等は、一般に知られてはいけない秘密は報道機関にだって話すべきではないし、知られてもまずくはないことは報道機関以外にも知る機会を与えてしかるべきです。報道機関は、国民に情報を伝えることが本来的な仕事なのですから、(取材した情報を取捨選択して報道する権限はあるにせよ)、制度的に報道機関だけが特権的に教えてもらって、国民に黙っているというのはおかしいんですよね(誘拐事件のように報道協定を結ぶ現実的な必要性がある場合は除きますけど。)。

 昨日の東京新聞の社説が、「エリートではなく、国民に身近な職業人としての法律家を大量に育てるために法科大学院が生まれた。」という書き出しだったのは、「報道機関以外にエリートは不要だ」という意識の表れかもしれませんね。司法研修所存置論者は、そんなことを問題にしているわけではないのに(廃止論者も、「エリート」云々を問題視していないしねえ。)。

Posted by 小倉秀夫 at 08:48 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (0)

東京新聞への質問

12月15日付の社説の件について、下記のとおり、東京新聞にメールで質問状を出しました。さて、回答はくるでしょうか。


前略 記事の平成16年12月15日付の社説「新司法試験 改革の理念に合わせて」をオンラインで拝見させて頂きました。

 その中に、「数の問題は合格者に最高裁主導で実務教育をする司法研修所の収容能力にも関係している。教育権を完全には失いたくない最高裁の思惑、研修所で裁判官や検事と『同じ釜の飯を食った』経験への弁護士の郷愁などから生き残った形の研修所だが、法科大学院の実務教育を充実すれば不要だ。」との記載があるのを発見致しました。

 私自身弁護士の一員であり、司法改革、とりわけ法曹養成制度の行く末には関心を持って見ているのですが、法科大学院卒業、新司法試験合格後直ちに法曹資格を与えることにせず、司法研修所による実務教育を受けさせるという制度が採用された代表的な理由の一つとして、「研修所で裁判官や検事と『同じ釜の飯を食った』経験への弁護士の郷愁」があるという話は初めて聞きました。
 東京新聞、中日新聞といえば、主要全国紙に匹敵する発行部数を誇るメジャーな新聞ですので、十分な取材による裏付けのない事実を社説として掲載することはないと思われますので、司法研修所が「研修所で裁判官や検事と『同じ釜の飯を食った』経験への弁護士の郷愁などから生き残った」とする論拠がおありだと存じます。つきましては、誠にご多忙の折とは存じますが、その論拠についてご教示頂ければ幸いです。
                                  草々

Posted by 小倉秀夫 at 12:42 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (0)

12/15/2004

東京新聞の実力

東京新聞がその社説で法科大学院問題を取り上げています。

 数の問題は合格者に最高裁主導で実務教育をする司法研修所の収容能力にも関係している。教育権を完全には失いたくない最高裁の思惑、研修所で裁判官や検事と「同じ釜の飯を食った」経験への弁護士の郷愁などから生き残った形の研修所だが、法科大学院の実務教育を充実すれば不要だ。廃止を目指すべきである。

 さすがは東京新聞です。法科大学院制度のもとでも司法研修所を残すこととした経緯(弁護士会急進派は司法研修所の廃止を主張していたのに、従前通りの「理論教育」中心でやりたい大学関係者側の方が2階建て方式を提案してきたというのが実情なのに。)や、現在の法科大学院制度のもとで司法研修所の代替となるような実務教育が法科大学院にできるのか等の基本的な事実はあっさり無視ですね。
 
 東京新聞を初めとする司法研修所の廃止を主張する人たちは、
 
 裁判官は、弁護士が依頼者から事情を聞き、証拠資料等を収集し、これを取捨選択する過程や、検察官が被疑者や関係者を取り調べて調書を作成する過程などの実態を知る必要はなく、
 弁護士は、裁判官がどのようにして意思決定を行うのかなどの実態を知る必要はない
 
ということを同時に言っているのだということを十分認識すべきだと思います。

 さらにいうと、建前はともかくとして、法科大学院制度を採用したところで、「豊かな社会常識を有するバランスのとれた人格」をもっていないと言うことで法科大学院を卒業させないとか、新司法試験に合格させないなどという運用を行うことは現実的に不可能なのですから、結局、「豊かな社会常識を有するバランスのとれた人格であることは大前提だ。」なんてことを偉そうにいってみても、法曹養成制度を考える上では無意味だと思うのですけどね。

Posted by 小倉秀夫 at 11:25 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (2)

12/12/2004

Windowsでしか使えないシステムは不適

「IEでしか読めないページ,Windowsでしか使えないシステムは不適」,経産省が調達ガイドライン作成へという記事がITProに掲載されています。

「全くその通りだ!」というより他にありません。

まずは、電子内容証明をどうにかして欲しいです。

また、訴状や準備書面等をオンライン上で提出できるシステムを作成するときは、OS依存性ができるだけないシステムにしてもらいたいものです。

Posted by 小倉秀夫 at 04:18 PM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (6) | TrackBack (1)

脱落者を出さないロースクール

 落合弁護士のBLOGによると、大宮法科大学院の宮澤節生教授が昨日の日経新聞で「新司法試験の単年度合格率 理念維持へ最低5割」などといったテーマで寄稿されたそうです。
 
 「法科大学院の理念」を大切にするならば、「法科大学院の理念」に沿った法科大学院による教育を軽視して、在学中から予備校教育に頼る学生については、「進級・卒業させない」という選択を各法科大学院が行えば済むだけの話ですね。実際、卒業生の司法試験合格率が5割を超えているという米国のロースクールは、当該ロースクールで行われている教育に対して手抜きをしているような学生は脱落して行かざるを得ない(といいますか、手抜きをしていなくとも、能力の劣る学生も脱落していってしまう)システムを採用しており、ロースクールの卒業資格を得るということ自体が大きな試練になっているわけです。さらにいうならば、米国のロースクールにおいては、ロースクールにおける成績が良くないとまともな就職先が見つかりにくかったりするわけで、そういう意味でも、ロースクール自体が厳しい「淘汰の場」となっているわけです。
 
 実際、1年間で入学者の15%が脱落していくと仮定すると、未習者コースで入学者の55%、既習者コースで入学者の70%しか法科大学院を終了できず、したがって、新司法試験を受験できないわけですから、第1回目の新司法試験の合格者数を800人とし、徐々に1500人まで引き上げるという施策をとると(500名程度は旧司法試験ないし予備試験枠)、だいたい新司法試験の単年度合格率は4~50%に近づいていくのではないかと思います。
 
 ところが宮澤教授等法科大学院関係者の話を聞いていると、従来の法学部の感覚が抜けていないのでしょうか、どうも、法科大学院の入学者のほとんど全員が法科大学院を卒業できるということが暗黙の前提となっているようです。つまり、日本の法科大学院は、米国のロースクールとは異なり、それ自体が「淘汰の場」となることを基本的に予定していないようです。これで、「新司法試験の単年度合格率を50%にせよ」といわれても、困ってしまいます。比較的弁護士資格を得やすいといわれる米国の法曹養成制度だって、そんなに甘くはありません。
 
 宮澤教授は、法曹の質は市場原理に委ねればいいといっているそうですが、それならばそもそも法科大学院制度自体不要だというべきでしょう。

Posted by 小倉秀夫 at 03:44 PM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (6) | TrackBack (1)

12/08/2004

「隣組」の精神と自己責任の原則

国士舘大学サッカー部に続き、亜細亜大学野球部の部員も、現在、犯罪を犯した容疑がかけられている。
こういう事件が起こると、当該運動部全体が、公式戦自体だとか活動停止だとかに追い込まれてしまいがちな日本なのですが、何も悪いことをしていない他の部員の人生を棒に振らせかねない「連帯責任」というのは、もういい加減にやめにしてもらいたいものです。
当該運動部の他の部員はもちろん、その監督、コーチ等だって、部員のプライベートを逐次監視するわけにはいかないんだし、部員全体を「犯罪を犯さないような精神の持ち主」に洗脳することなんてできないわけですから、当該部活動と直接関係のないところで行われた部員の不祥事について、部全体でそんな重い責任を負わされる合理的な理由はありません。

(だいたい、彼らを非難するマスコミだって、ときおり社員等が性犯罪を犯しているわけですが、解散は勿論、活動停止だってしていないではないですか。)

Posted by 小倉秀夫 at 08:45 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (2) | TrackBack (0)

12/05/2004

降りるに降りられず

大学院中退者は、もっと大変みたいです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~teorema/after.html

法務大学院中退者はもちろん、三振法務博士も同じようになるのでしょうか。

Posted by 小倉秀夫 at 12:48 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (3) | TrackBack (0)

12/02/2004

Meurtre ou L'aide de Suicide'

法科大学院も人ごとではなさそうですね。

http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20041129

Posted by 小倉秀夫 at 01:42 PM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (1) | TrackBack (1)

12/01/2004

現行試験恒久存続論

 新司法試験の合格者数の問題は、主要マスコミに取り上げられるまでになりましたね。
 ただ、マスコミや学者が何を言おうと、法律実務家の間には法科大学院不信論が根強くありますし、新規法曹がある種富裕階層からしか輩出されなくなることに対する危惧感を持つ人も少なくありません。それゆえ、法律事務塚の間では、現行試験枠を当面残しておいて欲しいとの要望が実は強かったりします(日弁連は、執行部と一般会員との間で結構意見の相違がある組織です。)。
 
 実際、年間500人前後は従来型の司法試験(論文試験の試験時間を倍増させるなどの改革はしても良いと思いますが)にて採用し、この枠で採用された者については従前通り2年程度司法修習を有給で行うこととし、それとは別に、法科大学院卒業生を対象とする新司法試験を実施し、その合格者には司法修習を経ずに法曹資格を与えるということでも良いような気もします。多少は、多様な学力を持った人材を法曹の一員とすべきという要請にも応じないといけないのでしょうから。その代わり、どちらの過程を経て法曹資格を取得したかを依頼者に明示することを義務づけることとしておけば、あとは、依頼者が選択すれば良いだけの話ですから。
 
 これなら、優秀な学生は在学中に従来型司法試験に合格して司法修習を経て法曹資格を取ることができるので、みすみす有能な人材を官界等に採られずに済みますし、実社会で様々な経験を積んできた人も法曹の一員になることができます。

Posted by 小倉秀夫 at 01:21 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (3) | TrackBack (0)

11/09/2004

プロセス重視

法科大学院は、プロセスを重視するらしいと聞いています。

そうであるならば、新司法試験の合格率がいかなる数値であれ、講義を軽視し、判例等を読み込むことを怠り、暗記に走る学生を、「プロセス」の中で排除すればよいだけのことです。日本の法科大学院制度がモデルとした米国のロースクールは、ポイントポイントで基準を満たせない学生はその先に進ませないという意味での「プロセス重視」の思想が基本的に実践されています。日本の法科大学院の関係者が重視する「プロセス」っていったい何なのか、訳がわからないです。

なお、6000人を超える学生を入学させ、しかもそのほとんどをそのまま卒業させたあげく、その卒業生の7〜8割が新司法試験に合格できるように新司法試験の合格者数を拡大せよといわれたって、その要求を実現するためには司法修習制度を廃止するしかないわけで、では、司法修習制度を廃止した場合に、わずか3年で、法律実務家として活動する上で最低限必要な法律知識ならびに法律の解釈方法等を習得した上に、裁判所で行われている事実認定の方法等を習得することを可能とするようなカリキュラムが本当に組めるのかという疑問が生じます。

法科大学院の先生方は、新司法試験さえ通してしまえば後は野となれ山となれだからいいですけど、法曹界としては新規参入者のレベルが著しく落ちることは非常に困りものです。

日本の司法改革は、ごく一握りの権力を持った年寄りの妄想に従って、科学的検証の精神を忘れ、過去と現在を否定することにばかり終始する極めて歪んだものになったということがいえそうです。

もはや、「司法改革」ではなく、「司法文化大革命」と呼ぶべきなのかもしれません。

Posted by 小倉秀夫 at 09:03 PM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (3) | TrackBack (1)

法科大学院の学長さんたちの要求

ある大学で、推薦入学制度を始めることとした。予備校教育の弊害を除去するため、学生の選抜は、IQテストと面接だけで行うこととした。
そして、その大学の学長は、推薦入学で入ってきた生徒に対し「君たちは、優を7〜8割とれるように頑張って勉強して欲しい」と演説した。

しかし、各講義においては、優を与えられる割合というのはあらかじめ決まっているため、学生全員が7〜8割優をとるという事態がありえないことは制度的に明らかであった。

この場合に、推薦入学で入ってきた学生が結集して、「我々学生が7〜8割優をとれるように大学が保障したのに、優の割当数が2〜3割に限定されているのはおかしい。優の割当数を大幅に増加すべきだ」とか「推薦入学の学生が全員7〜8割優をとれるようにするために、一般入試で入ってきた学生が取得可能な優の数をできるだけ少なくすべきだ」
と大学に要求してきたら、ほとんどの人は、その学生たちのことを馬鹿だと思うでしょうね。

Posted by 小倉秀夫 at 09:11 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (14) | TrackBack (1)

10/30/2004

「新旧司法試験合格者数に関する声明」に関する逐語的検討

私大の法科大学院の院長さんたちが「新旧司法試験合格者数に関する声明」を発表されたようなので、これに関する逐語的検討を行ってみたいと思います。

 最近の新聞報道によると、10月7日の司法試験委員会において、新旧司法試験合格者数に関する法務省素案が示された。同素案は、2006年度の新旧司法試験の合格者数を各800名、計1600名にとどめ、2007年度については新1600名、旧400名とすることなどを内容とするという。しかし、同素案の内容は、新旧の割合においても合格者総数においても、法科大学院を中心とした法曹養成システムに切り替えるという制度改革の理念を十分に反映しておらず、法科大学院制度の健全な発展を損なう危険性の高いものであり、到底賛同できない。

 2006年度及び2007年度は、制度改革に伴う移行措置期間ですから、新制度の理念が100%反映しないのは当然ですね。
 それはともかく、少なくとも合意された新たな法曹養成システムは、「法科大学院を中心とした」ものではあるにせよ「専ら法科大学院によるもの」ではなく、経済的な事情等で法科大学院に通うことができない人々のために「予備試験」というルートをも一定程度用意するものですので、2007年度の「新1600名、旧400名」という内容が「制度改革の理念を十分に反映して」いないとはいえませんね。将来的に、予備試験枠が全体の2割程度確保されたら「健全な発展」ができなくなるほど法科大学院制度というのは柔なものなのでしょうか。

 法科大学院制度の創設を提言した司法制度改革審議会意見書は、法科大学院の教育について、「その課程を修了した者のうち相当程度(例えば約7~8割)の者が新司法試験に合格できるよう、充実した教育を行うべきである。」とした。

 つまり、新司法試験に合格できるための「水準」がまずあって、法科大学院卒業者の相当程度をその水準以上に引き上げるべく教育を行う責務が法科大学院にはあるということですね。

同提言に応えるべく、全国の法科大学院は、「法曹養成に特化したプロフェッショナル・スクール」(改革審意見書)に相応しい教育の実践に向けて懸命の努力を払っている。また、学生達もこれに応え、毎日大量の予習課題をこなし、文字通り寝食を惜しんで学修に取り組んでいる。法科大学院制度は、その理念に向かって予定通りに船出したのである。

 「法科大学院制度の理念」は、法科大学院の教員に「懸命の努力」を払わせることでも、学生たちに「毎日大量の予習課題をこなし、文字通り寝食を惜しんで学修に取り組」ませることでもありません。法科大学院での教育活動によって、司法研修所での1年間の司法修習により法曹として必要な能力を身につけることができるようになるであろうレベルまで学生たちを引き上げることです。
 それに、「懸命の努力」なんて、的がはずれていれば意味がないことはいうまでもないことです。日本のような成文法主義を採用している国において、未習コースの学生に、最初から大量の判決文を読ませて満足している教員がいるとの話を側聞しますが、このようなものは単に学生に意味のない(そこまでは言いすぎだとすれば意味の乏しい)苦役を学生に課して満足しているだけに見えます。スポーツの世界ではとっくに科学的トレーニングが普及しているのに、法曹養成の世界では、いまだに根性論的アプローチが幅をきかせているとすれば、驚き、そしてあきれる他ありません。

 そのような中で最も懸念されているのが、新司法試験の在り方、とりわけ合格率である。  前記素案をもとにシミュレーションすると、2006年度における新司法試験の合格率は約34%、2007年度以降は約20%になるという。しかし、これでは、上記の厳しい学修に才能ある人材を引き付けるには余りにもリスクが大きく、新たな法曹養成制度の中核と位置付けられた法科大学院制度を崩壊させかねない。
   2004年にスタートした法科大学院制度は、少なくともその後に司法研修所を中心とした法曹教育を受けることを前提に制度が組み立てられており、そして、司法研修所を中心とした法曹教育を受けることができる人数については3000人を目標に漸増させていくということが合意されていました。したがって、法科大学院の入学者全体に対しする新司法試験合格率が20%程度に留まると「法科大学院制度を崩壊させかねない」というのであれば、法科大学院の入学者の数をこんなに増やすべきではありませんでした。  
 このことは、法曹志願者の年齢や出身学部にかかわりなく指摘しうる問題であるが、とりわけ、社会人や他学部出身者が法曹を目指して積極的にチャレンジしようとする気運を大きく損ね、法科大学院志願者の大半は従前通り法学部出身者ともなりかねない。そうなれば、「多様なバックグラウンドを有する人材を多数法曹に受け入れるため、法科大学院には学部段階での専門分野を問わず広く受け入れ、また、社会人等にも広く門戸を開放する必要がある。」(改革審意見書)とした多様性の理念は、たちまち暗礁に乗り上げることになる。

 法科大学院の入学者全体に対しする新司法試験合格率が20%程度に留まると、何故に、「とりわけ、社会人や他学部出身者が法曹を目指して積極的にチャレンジしようとする気運を大きく損ね、法科大学院志願者の大半は従前通り法学部出身者ともなりかねない。」ということになるのか、意味が不明です。法学未習者については3年コースとし、法学既習者については2年コースとしたのは、法学未習者であっても、1年間で法学既習者と肩を並べる程度の法律知識や法的思考法が身に付くということを前提としていたからであって、その前提が間違っていないのであれば、社会人や他学部出身者が「とりわけ」積極的にチャレンジしようとする気運を損なうという事態には陥らないはずです。まさか、社会人や他学部出身者は、法学既習者よりも法的知識や法的思考法が劣る状態のままで、法曹資格を付与されるべきだというわけではないでしょう。
 

 のみならず、学生の意識・関心は、法科大学院における地道な学修よりも、新司法試験における競争のための受験勉強に傾き、法科大学院教育そのものを変質させて、「点による選抜」から「プロセスとしての法曹養成」への転換(改革審意見書)を企図した法科大学院制度による教育の理念を根底から揺るがすことになろう。

 これはおかしいですね。
 司法制度改革審議会は、各法科大学院に対し、「その課程を修了した者のうち相当程度(例えば約7~8割)の者が新司法試験に合格できるよう」な充実した教育を行うように要求したのであり、新司法試験に合格できるような水準へと学生を引き上げることはそもそも法科大学院教育に課せられた使命なのです。
 新司法試験の合格者数を増加させることによって、各法科大学院が好き勝手なことをやっていても、全体としてみれば自ずと「その課程を修了した者のうち相当程度(例えば約7~8割)の者を新司法試験に合格させざるを得ないようにする」というのは、法科大学院制度による教育の理念とは全く関係がないことです。 
 

 そして、将来の日本社会が必要とする専門的能力を備えた法曹を養成するために多くの法科大学院が用意した多様な先端科目・実務科目や留学制度等は、まったく省みられない結果となるであろう。

 法科大学院にて先端科目や実務科目を履修することや、法科大学院在学中に留学することが、法曹になったときに、市場において高く評価されないということであれば、省みられない結果となるのは当然ですね。普通に考えれば、日本の法曹資格を取った後に留学して米国の法曹資格をとる方が、法科大学院在学中に留学するよりよほど合理的であることがわかります。
 

 新司法試験の合格率を引き上げるべきであるという主張は、ともすると法科大学院独自の利益主張のように受け取られるおそれがないではない。しかし、これと同様の意見は、司法制度改革推進本部の法曹養成検討会、司法改革国民会議、弁護士会その他さまざまなフォーラムにおいてもすでに表明されているところであり、広く支持を得つつある。

 弁護士会としてはそのようなことは表明していなかったはずですが。日弁連会長がなにか意見表明をしていたようですが、法科大学院の総入学者数が6000人を超えたことがわかってから、それにあわせて新司法試験の合格率を引き上げる=新司法試験の合格者数を引き上げることに関して、弁護士会の会内で意見調整がなされたという話を私は聞いたことがありません。また、法科大学院の卒業生の大半が法曹資格を得られないことになりそうだということは一部マスコミに報道されるようになりましたが、だからといって新司法試験の合格者数を大幅に増やせという声は、法科大学院関係者及び法科大学院の学生以外からはほとんど聞かれないのが現状です。
 

 そもそも法科大学院は、その設立母体となった各大学の独占物にとどまるものではなく、司法制度改革の一環としての公益的な目的を有するものである。各大学は、新たな時代に望まれる理想の法曹像を目指してカリキュラム等を工夫し、最大限の努力をもって法科大学院を設立した。これに呼応して、最高裁判所や法務省、弁護士会はいうに及ばず、さらには有志法曹や企業もが、教員の派遣や研修、学生研修などの面で、法科大学院の設立および運営のために多大なる協力と貢献をしている。それは、とりもなおさず、政府・国会によって法科大学院が新たな法曹養成システムの中核に据えられたことを踏まえ、これへの協力が法曹人口の量的および質的な抜本拡充という公益すなわち国民の利益のために不可欠であるとの認識に立脚してのことであるはずである。

 仮に、法科大学院の入学者に対する新司法試験合格者の割合が低いことにより法曹の「質的な抜本拡充」という公益が果たせなくなるというのであれば、法科大学院の入学者数の大幅な削減等の措置を講ずるのが、法科大学院という「公益的な目的を有する」システムを預かる人々の責務ではないかと思います。「法科大学院を有しない法学部は、二流、三流のものとして見られてしまう」等という狭い心根から、自校での法科大学院の運営にこだわり、法曹の「質的な抜本拡充」という公益を危険にさらすのは、「公益的な目的」を第一に掲げる方々が行うべきことではありません。

 我々は、司法試験委員会がこのたびの法曹養成制度改革の理念を十分に見据え、法科大学院を法曹養成制度の中核に位置付けてその健全な発展を図る観点から、前記の素案に追従することなく、法科大学院の課程を修了した者の大半が新司法試験に合格することをより早期に可能ならしめる方向で合格者数問題を抜本的に検討されるよう、強く要望するものである。

「法科大学院を法曹養成制度の中核に位置付けてその健全な発展を図る観点」からするならば、法科大学院の課程を修了した者の大半が、新司法試験の合格レベル、すなわち、司法研修所での1年程度の司法修習を受けることにより、旧来の司法試験の合格者が1年半程度の司法修習を受けることによって身につけてきた程度と同程度ないしそれ以上の法的知識と法的思考法、そして法曹として要求される技術を習得できるであろう法的知識や法的思考法等を習得するという「結果」がまず重視されます。しかし、現時点では、法科大学院は1人の卒業生も出していないのですから、当然、何の結果も出していません。この段階で、法科大学院の課程を修了した者の大半がどの程度のレベルに到達したかを問わず新司法試験に合格できるように新司法試験の合格者を大幅に増員せよというのは、全く筋が通っていないというよりほかにありません。

 なお、法科大学院制度の根本的な問題は、まさに法科「大学院」と位置づけられてしまい、大学を卒業した後でなければ入学できないことにあります。それゆえ、法科大学院に一旦入学してしまうと、法曹となれなかった場合に、修正が利きにくいところにあります。そこが一番の問題なのです。「入学者の大半が資格を取れないプロフェッション・スクール」なら、そのような世の中にいくらでもあります(もっとも厳しいのは、プロの将棋棋士になるための奨励会でしょうか。)。

Posted by 小倉秀夫 at 02:40 PM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (1) | TrackBack (0)

10/29/2004

資格試験としての司法試験に要求されるレベル

10月27日のエントリーに対して、ふたたび「ぐっちっち」氏からコメントをいただきました。

なぜ、資格試験に合格したとたんに、すぐに、既存の実務家と同様のレベルの職務執行能力まで達しなければならないのでしょうか?大体他の資格では、資格をとってそれから実務を覚えていくものです。いくら、司法修習を廃止したからといって、そこまでの能力を新人に問うのはどうでしょうか?

 現在の司法研修所で行われている2回試験に合格するレベルというのは、「既存の実務家と同様のレベルの職務執行能力」まで達しているかどうかを図るものというよりも、実務家として出発点に立てるだけの職務執行能力に達しているかどうかを図るものです。そして、そこからさらに実務経験を得ていくことによって、さらなる実務能力を磨いていきます。すなわち、2回試験に合格するレベルというのは、まさに、これまで新人にこそ問われてきた能力なのです。
 「ぐっちっち」氏が想定されている「資格試験としての司法試験に要求されるべきレベル」というのがどういうものなのかわからないのですが、
 
 1 現在の裁判実務で行われている事実認定手法に沿った事実認定を行う能力があること
 2 実体法及び手続法についての、基本的な法令や判例等の知識を有しており、標準的な実務運用を行う能力があること
 3 社会に存在する様々な紛争を法的に構成する能力があること
 4 短時間に、一定の書式に則った、そしてそれなりに読みやすく論理的な文章を作成する能力があること
 
くらいしか2回試験では問うていませんし、そういう能力が大きく欠けている人に法曹資格を与えてしまうのは正直どうかと思うのです。「ぐっちっち」氏はそういう能力を未だ身につけない状態でもかまわないから自分に法曹資格を付与せよと言いたいということなのでしょうか。

 司法研修所では、上記2及び3を一から養成するほどの時間的な余裕はないし、まして4のうち短時間に読みやすく論理的な文章を作成する能力というのは一朝一夕に身に付くものではないので、司法試験を通じて、上記2ないし4について一定の水準にある者を選抜した上で、その者に対してのみ上記1ないし4の能力を付与すべく教育を施しているにすぎません。
 
 司法修習制度を前提とした法科大学院は、司法試験合格者数を大幅に増やしたとしても、新司法試験合格者の底辺層において従前の司法試験合格者と同レベルまたはそれ以上の能力を有するという状態を確保することを目標にしていればよいのですが、司法修習制度を前提としない場合は、新司法試験合格者の底辺層において従前の司法修習修了者と同レベルまたはそれ以上の能力を有するという状態を確保することを目標にしなければなりません。法科大学院での教育の結果、従前の司法修習修了者と同レベルまたはそれ以上の能力を有する者が多数養成されないのだとしたら、法科大学院は司法修習制度を前提としたものに留まるをえず、従って新司法試験合格者の数は司法修習システムの収容能力を上限とせざるを得ないことは明らかです。
 
 法科大学院制度が、制度維持のために法曹の質の低下を甘受するように求めるようになったら、まさに本末転倒と言うより他にありません。

Posted by 小倉秀夫 at 01:51 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (0)

10/28/2004

既得権益・業界エゴ

 法科大学院問題に関するコメントに関して、町村先生が批判されているようです。
 
 しかし、新司法試験の合格率に関して言えば、文部科学省がほとんどの法科大学院の設立申請に対し認可を行った時点で「7~8割の合格率」はあり得ないと言うことは誰でもわかったことですし、そのことの当否はいろいろなところで論じられていたわけですから、それにもかかわらず法科大学院入試の段階で「7~8割の合格率」を信じて疑わなかった学生には問題があるし、法曹としての適性があるかすら疑わしいといえるでしょう。
 
 まあ、彼らに同情すべき点があるとすれば、法科大学院問題に限らず、昨今の「司法改革」に関しては、ごく一握りの「推進派」に都合の悪い意見は、十分に採り上げられないか、または既得権益擁護に凝り固まった守旧派の戯れ言として問答無用に切り捨てられる傾向があり、「懐疑派」の問題提起は国民一般に伝わりにくかったという点でしょう。
 
 実際には「推進派」=善、「懐疑派」=悪という単純な構造ではないことはいうまでもありません。むしろ、推進派の方々は、それぞれ出身母体のエゴを「司法改革」のなかに必死に盛り込もうとするので、司法改革は、その究極の目的を離れて、どんどんと歪んだものとなっていったというのが実態です。法科大学院制度というのは、その一つの表れにすぎません。
 
 思えば、「司法改革」において、最初のころは、「法律事務所の広告解禁」が話題となっていました。国民の司法へのアクセスをスムーズにするという観点からは、広告を解禁するより(まあ、解禁したってかまいませんが)、業として弁護士を斡旋することを一定の条件の下で解禁する方がよほど役に立つ(広告なんてあくまで自己申告情報しか掲載されません。)わけですが、広告を解禁することがとにかくよいことであるかのように喧伝されていました。それは、よくよく考えてみれば、広告代理店と新聞社の利益になることなのですね。そこからたどっていくと、「司法改革国民会議」の代表に電通の顧問が座り、国民会議の運営委員や常勤監査役にマスコミのお偉いさんがずらりとそろっていることは、まあうなずけます。法曹養成システムについても、新校舎の建設により土建業者が利益を得たとともに、法科大学院が各種マスメディアに広告を出したことにより広告代理店とマスメディアは大きな利益を得ました。で、広告を見てやってくる依頼者がいるかというと、普通のところはそういうことはないわけで、結局、広告を活用しているのは、非弁提携しているところを含めて、個人破産を大量に処理する事務所にほぼ限られてしまっているというのが実情ですね(広告代理店は広告主がどのような活動を実際に行っているのかをチェックしませんから、非弁提携事務所かまともな事務所かなんて広告を見たってわからないですね。)

Posted by 小倉秀夫 at 09:04 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (2)

10/27/2004

司法試験を純粋な資格試験にした場合に

昨日のエントリーに対して「ぐっちっち」というハンドルを名乗る方からコメントをいただきました。

大体司法試験は資格試験です。 一定程度の学力があれば、全員合格させるべきなんです。なんで定員を設けるのかわかりません。

とのことですが、これは簡単です。司法修習制度があり、司法研修所の定員は、実務修習まで考慮すれば法曹三者の受け入れ態勢を無視しては決定できませんので、自ずと司法試験合格者の数の上限は定まります。弁護士の数が全体で3万人もいないのに、年間3000人を実務修習で受け入れるということ自体、異常事態です。まして、裁判官も検察官も、弁護士より遙かに人数が少ないのです(裁判官がだいたい全国で3000名程度です。)。法科大学院関係者は、新司法試験を通してしまえば後は野となれ山となれでしょうが、彼らを受け入れなければならない法曹三者は大変です。

 ですから、司法試験を定員無視の純粋な資格試験とするためには、司法研修所を中心とし、法曹三者の実務を一通り体験させるという方式で行われる司法修習システム自体の継続を断念しなければなりません。そしてそれは、「法曹三者は、修習時に法曹三者の実務を一応一通り学んでいるので、相互交換性を与えても問題はない」という前提に支えられている「法曹一元」制度自体の見直しをも迫られるものです。これらの点は、公開の場で議論され、コンセンサスを得られたものではありません。法科大学院が乱立してしまい、このままでは法科大学関係者が責任を追及されてしまうという現実は、これらの法曹養成制度の根幹に関する事項をなし崩しに決定してしまうことを肯定するに値するものではありません。
 
 なお、司法研修所を中心とする司法修習制度を廃止し、司法試験を定員無視の純粋な資格試験とするためには、新司法試験を、「それに合格した者は直ちに法曹としての資格を与えて実務を行わせても問題がない程度の法律知識と実務能力を兼ね備えている」かどうかを図るものでなければならないですね。「法科大学院でまじめに課題をこなしていれば7~8割が合格する」なんていうレベル設定は意味がありません。
 そうだとすると、その場合に行われるべき「司法試験」というのは、むしろ司法研修所で行われてきた「二回試験」のようなものである必要があると思います。
 法科大学院における、法律既習者で2年、未習者で3年の「プロセス」教育で、「二回試験」と同様の試験問題に対してそれなりのレベルの起案が作成できる程度に法教育がなされうるというのならば、法科大学院は司法研修所に代替する教育機関であるといえそうですが、おそらく法曹三者の中では、法科大学院にそのような教育能力がないと考えている人の方が多数でしょう。
 
 いや、「ぐっちっち」さんが「一定程度の学力があれば、全員合格させるべきなんです」といった場合の「一定程度の学力」って、どの程度のものを想定されているのかわからないのですが、「一定程度の学力があれば、全員合格させる」こととした場合の「一定程度」とは相当高いものが要求されるというべきでしょう。他人の法的権利を左右する職業に就くのですから。
 
 なお、

法曹三者が既得権益を確保しようと、司法試験合格者を著しく制限しててきたのは周知の通りでしょう?

とのことですが、それは正確ではありません。そもそも市場競争原理にさらされるわけではない最高裁や検察庁には、司法試験合格者数を著しく制限することによって確保される「既得権益」はありません。また、弁護士か所属の弁護士の多くは、司法試験が易しくなってその結果合格者数が大幅に増加したとしても、「既得権益」は害されません。むしろ、「平成○○年度からは法曹資格は金さえ出せば誰でも得られるようになった」ということになれば、それ以前からの法曹資格とそれ以降の法曹資格は、市場において、別のものとして評価されることになるから、「既得権益」という点からは、かえって好都合です。しかも、新規法曹資格取得者の給与水準は大幅に下がりますから、パートナー弁護士が手に入れる所得はかえって増加します。さらに、地方会などについていえば、「薄利多売」を目指す新規法曹資格取得者に、国選やら当番弁護士等のまさに「薄利」というか「割に合わない」仕事を引き受けてもらえるならば、負担が軽くなります。このように自分たちの権益を第一に考えるのならば、司法試験の合格者数が大幅に増えたとしても、法曹三者としては痛くも痒くもありません。

Posted by 小倉秀夫 at 01:28 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (2) | TrackBack (1)

10/26/2004

「責任転嫁の見本」としての緊急声明

「司法改革国民会議」なる組織が緊急声明を行っています。

結論としては、

現下の新司法試験をめぐる司法試験委員会の検討の現状に強い危機感を表明するとともに、政府が、法科大学院構想の原点に立ち返り、意見書の求める通り、法科大学院修了者の7~8割が合格できる方向に検討案を改めることを、強く求めるものである。

とのことです。

 しかし、2006年度については、現行司法試験から新司法試験への移行期として当初から位置づけられており、新司法試験の合格者数を3000人にすることはそもそも不可能であったことは明らかです。また、司法研修所を東西2つに分けるにしても2006年度の新司法試験受験者が修習を開始する2007年度までに関西方面に敷地を確保して建物を建築することは極めて困難であり、それ以上に、2007年度までに、3000人もの修習生の実務修習先を確保することがほとんど不可能に近いことは、現在の法曹三者の実態を調査すれば容易に知り得たはずです。とすれば、「法科大学院修了者の7~8割が合格できる」ようにするためには、法科大学院の総定員をどの程度にすればよいかということは、一次方程式が解ける程度の知能があれば、容易にわかったはずです。
 それにもかかわらず、大学の経営者たちは、我も我もと法科大学院の設立に殺到し、初年度から「3年未修者コース3417名、2年既修者コース2350名」もの学生を受け入れてしまいました。このようなことをすれば、厳格な成績評価・修了認定が行われない限り、「法科大学院ではその課程を修了した者のうち相当程度(例えば約7~8割)の者が新司法試験に合格できる」等ということが無理であることは中学生にだってわかります。
 
 「新司法試験の合格者が、法科大学院修了者の3割あるいは2割しか合格できないということになれば、法科大学院はプロフェッショナル・スクールとして成り立ち得なくな」るとすれば、司法修習を受け入れる側の法曹三者の意見も聞かずに、我も我もと法科大学院の設立に殺到した大学関係者とそれを容認した文部科学省に専ら責任があるのであって、あたかも法曹三者の側に問題があって「法科大学院修了者の3割あるいは2割しか合格できない」ということになったかのごとき緊急声明は、法曹三者の一員として、非常に不愉快です。
 
 また、この緊急声明では、

 もし、「司法研修所の収容能力」を理由に新司法試験の合格者数を検討しているとすれば、すでにスタートしている新しい法曹養成制度の理念と精神を理解しないものであり、本末転倒と言わざるをえない。司法研修所の収容能力に限界があるというのなら、合格者増に対応できない現在の司法修習のあり方こそ見直されるべきである。法科大学院教育は、理論と実務の双方を対象とするものであり、実務教育の充実によって、司法修習を代替することは十分に可能である。

とも述べられていますが、いまだに最初の卒業生もでていない段階で「法科大学院教育は……司法修習を代替することが十分に可能である」かどうかなんてことはわからないわけで、そんなわからないものに期待して現在そこそこうまくいっている法曹養成システムを捨てよというのは、学者特有の無責任の極みとしかいいようがありません。法科大学院教育では司法修習を代替することができず、裁判実務に耐えうる法曹を生み出すことができなかった場合に、「司法改革国民会議」の面々は一体どういう責任をとるというのでしょうか。
 さらにいうならば、法科大学院制度を創設するにあたって、司法研修所による司法修習制度は存続させることが同時に決まっているわけですが、現在の法科大学院の総定員のもとで「法科大学院修了者の7~8割が合格できる」ほどに新司法試験の合格者を増員させた場合に、それに対応できる司法修習制度とはいかなるものなのか、法学研究者ならば具体的な青写真を見せてから、「司法研修所の収容能力に限界があるというのなら、合格者増に対応できない現在の司法修習のあり方こそ見直されるべきである」云々ということは述べるべきではないでしょうか。
 
また、
そもそも、このような国家の基本政策の方向を左右しかねない決定が、非公開の「密室の場」で議論されていること自体、問題がある。司法試験委員会の所掌事務はあくまで司法試験を「実施」することにある。実施すべき司法試験制度がいかにあるべきかは、国民に開かれた場で、教育を担う法科大学院関係者をはじめとする国民の声を十分に吸収、反映しつつ行なうべきである。

とも述べられていますが、問題のそもそもの原因である「法科大学院の総定員数」は、法科大学院関係者と文部科学省との「密室の場」で、議論して決められているのです。これに対し、法科大学院制度導入後も司法研修所による司法修習を存続させるということは公開の場で議論されているのです。

最後に、

法曹の数は、意見書が述べているように市場原理の中で決まるべきものであり、その教育の質の担保は、意見書が述べるように、「厳格な成績評価及び修了認定」で行い、それらの実効性の担保は「第三者評価という新しい仕組み」によるべきである。

と述べられています。しかし、法曹の養成には、時間と費用がかかります。そして、国家なり社会なりが法曹の養成に向けられる資源にも、個々人が法曹となるために向けられる資源にも限りがあります。したがって、需要を大きく超えて法曹を新たに輩出しても、それは社会にとっても個人にとっても大いなる無駄となります。
 「失われた10年」の間、特に文系大学院の修士・博士の需要など社会にはほとんどないのに大量に修士・博士を作り上げ、有為の若者の人生を棒に振らせました。文部科学省と大学関係者は、また同じ悲劇を生み出そうとしています。そりゃ、法科大学関係者としては、卒業生の7~8割が新司法試験に合格してくれれば「後は野となれ山となれ」ということで、卒業生が法曹資格取得後路頭に迷おうとも、そんなことはどうでもよいことでしょうけど、でも、それはあまりに無責任すぎないでしょうか。
 

Posted by 小倉秀夫 at 01:50 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (1) | TrackBack (0)

10/24/2004

急いては事をし損じる

 昨日のエントリーに対し、落合先生からトラックバックをいただきました。
 落合先生は、
 

 そういった中で、現実的に可能ではないかと思うのは、3000名という総合格者の中の、新司法試験と現行司法試験の割り振りを、2009年まで、新司法試験に多めに傾斜して配分するということです。

とおっしゃるのですが、私は、賛成ではないです。私は、法科大学院制度を継続させるということを前提とした場合、新司法試験枠を800人、現行司法試験枠を800人として5年ほど様子を見るということを提唱します。その上で、最高裁、法務省、各法律事務所での採用状況等を見て、それ以降の法科大学院コースと「バイパス」コースとの枠の割り振りを決めたらいいと思います。とにかく、現段階では、法科大学院が司法研修所の代わりを務められるほどの教育機能を有するものとなるのか、司法試験予備校未満の教育機能しか有しないものとなるのか全くわからない状態ですから、法曹養成を法科大学院に一本化するのはあまりに危険すぎるというべきでしょう。
 そうすると、大量の三振法務博士が輩出されてしまうという問題点はあるわけですが、それは、法科大学院の定員等が大幅に削減されない限りどうにもならない話であって(司法研修所を廃止して、新司法試験の合格者数を大幅に増員してしまえば、三振法務博士は少なくなりますが、その分、失業弁護士が増えるだけの話で、単なる問題の先送りでしかありませんし、むしろ、社会に迷惑を与える危険が高い分、失業弁護士が大量にはき出される方が問題といえるでしょう。)、三振法務博士の受け皿を増やす方向で改革を進めていくより他にないでしょう(例えば、裁判所書記官登用試験や、検察事務官登用試験においては、法務博士に限り、年齢制限を設けないというのもありでしょうし、法務博士には政策秘書の資格位は与えたっていいでしょう。また、マスコミに対し、法務博士を司法記者として雇い入れるように働きかけるのもよいでしょう。レコード輸入権問題の際に痛感しましたが、法律案を読んでどういう点が問題になるのか理解する能力に乏しい記者が、役人のコメントを垂れ流しして世間をミスリードすることが多いのではないかと思いますし。)。

Posted by 小倉秀夫 at 03:08 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (6) | TrackBack (0)

10/23/2004

どの段階で、どのような基準で引導を渡すのがもっとも人道的なのか

 新司法試験の合格者数を巡る問題は、未だ混迷を極めています。
 おそらく、文部科学省及び法科大学院の教員たちは、新司法試験の合格率が著しく低下すると自分たちの責任問題になりかねないので、新司法試験の合格者数を大幅に増員せよと要求してくることが予想されます。おそらく、馬鹿の一つ覚えで「もっと増員せよ」としかいえない財界人とその腰巾着的な知識人やマスコミ人がこれに同調すると予想します。
 しかし、おそらく、司法修習生が2000から2500人を超えると、司法研修所での修習は、関西圏に司法研修所分室を作ることにより何とか対応できるにせよ、実務修習がパンクします。「増員せよ」と口先で叫ぶだけなら馬鹿でもできますが、急激すぎる変化を押しつけられると、それに対応しなければならない現場がついて行かれなくなることは、何処にでも見られる光景です。
 そこで、司法研修所廃止論が台頭してくることが予想されます。
 その場合、弁護士会は、弁護士補制度を採用し、弁護士のもとで一定期間実務経験を経た者しか弁護士登録させないこととすることが予想されます。とはいえ、現状では、2000人も弁護士補を受け入れる能力は弁護士業界にはありませんから、新司法試験合格者の多くは弁護士補となって弁護士のもとで実務経験を積むことができず、ついに弁護士になることができずに終わることが予想されます。

 従前は、一定の法律知識と、短時間に問題を把握し文章化する能力が乏しい人が、司法試験不合格を何回か繰り返すことによって、自分に適性のないことを悟り去っていきました。まあ多くは、大学在学中(せいぜい1〜2留中)にそのことに気が付いて方向転換していきました。そして、4年次までに方向転換した人は勿論、在6くらいまでに方向転換できれば、公務員になることもできるし、それなりの民間企業に就職することもできました(司法試験受験生はある程度ブランド力の高い大学出身者が多いですので。)
 もちろん、ねばり強い人や見極めの悪い人は何処にでもいるわけですが、しかし、長期間にわたり就職もせずに勉強だけして司法試験に落ち続ける方々というのは、司法試験受験者数からするとほんの一部なのではないかと思います。

 法科大学院制度においては、既習コースを選択した場合でも、学部を卒業してから2年間は法科大学院に通わなければならず、2年後に法科大学院を卒業した後に、新司法試験を受験することになります(その日程はいまだ発表されていません。)。法科大学院制度のもとでは、卒業までの段階でかなり金銭的、時間的に浪費してしまっていますから、1回落ちたからといって方向転換するのは難しいでしょう。新司法試験ではどのような出題がなされるのかはわかりませんが、新司法試験で要求される才能・資質に欠ける人は、「5年以内に3回」という受験回数の枠を上限まで使い切ってから、方向転換を図ることでしょう。しかし、何処に方向転換することができるのか、法科大学院制度推進論者の根拠なく勇ましい発言は聞こえるものの、全く予断を許さない事態です。
 法科大学院制度において、司法研修所を廃止して弁護士補制度を採用した場合、法科大学院卒業時に弁護士補に採用されなければ、実際には法曹資格を得られないことになります。すると、法科大学院制度+司法修習制度よりは、引導を渡される年齢は低くなります。ただし、引導を渡される基準は公正なものでなくなる可能性は高くなるといえます。おそらく、出身法科大学院のブランド力とコネの強弱が大きな要素となることでしょう。
 もちろん、法科大学院制度において司法研修所を廃止し、かつ弁護士補制度を採用しないということもあり得なくはないでしょう。その場合は、法科大学院卒業後に法律事務所に就職できるかどうかが重要であり、法律事務所への就職に失敗した人(日本の弁護士業界全体で新規に勤務弁護士を2000人も雇う力はないのではないかと思います。2000人といえば、弁護士15人で1人の新規勤務弁護士を雇う計算になりますから。)、論理的にはいきなり開業して潜在的な需要を開拓する可能性はあるわけですが、実際にはそのほとんどが方向転換を迫られることでしょう。この場合も、出身法科大学院のブランド力とコネの強弱が大きな要素となることが予想されます。

 こうやって考えてみると、25歳を過ぎてもサラリーマン経験のない若者の受け皿が乏しい我が国では、新司法試験の合格者数をどんなに増員させようとも、法科大学院制度を続ける限り、旧司法試験制度よりも非人道的になることは避けられないのではないかと思います。

PS
 法科大学院の「ブランド力」ですが、これは新司法試験への合格率ではなく、卒業生の1年目の収入の平均額の多寡でランク付けがなされていくのだろうなと予想します。新司法試験に合格できても、まともな就職口が見つからないような法科大学院には、優秀な学生は集まらなくなっていくと思いますから。

Posted by 小倉秀夫 at 01:56 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (4) | TrackBack (3)

10/20/2004

法務博士の受け皿

公証人法を以下のように改正するという案はいかがでしょうか。

現行法


第十二条  左ノ条件ヲ具備スル者ニ非サレハ公証人ニ任セラルルコトヲ得ス
一  日本国民ニシテ成年者タルコト
二  一定ノ試験ニ合格シタル後六月以上公証人見習トシテ実地修習ヲ為シタルコト
○2 試験及実地修習ニ関スル規程ハ法務大臣之ヲ定ム

第十三条  裁判官(簡易裁判所判事ヲ除ク)、検察官(副検事ヲ除ク)又ハ弁護士タルノ資格ヲ有スル者ハ試験及実地修習ヲ経スシテ公証人ニ任セラルルコトヲ得

第十三条ノ二  法務大臣ハ当分ノ間多年法務ニ携ハリ前条ノ者ニ準スル学識経験ヲ有スル者ニシテ政令ヲ以テ定ムル審議会等(国家行政組織法 (昭和二十三年法律第百二十号)第八条 ニ定ムル機関ヲ謂フ)ノ選考ヲ経タル者ヲ試験及実地修習ヲ経スシテ公証人ニ任スルコトヲ得但シ第八条ニ規定スル場合ニ限ル

改正試案

第十二条  左ノ条件ヲ具備スル者ニ非サレハ公証人ニ任セラルルコトヲ得ス
一  日本国民ニシテ成年者タルコト
二  一定ノ試験ニ合格シタル後六月以上公証人見習トシテ実地修習ヲ為シタルコト
○2 試験及実地修習ニ関スル規程ハ法務大臣之ヲ定ム

第十三条  法務博士タルノ学位ヲ有スル者ハ前条第一項第二号の試験ヲ経スト雖モ同号ノ実地修習ヲ経テ公証人ニ任セラルルコトヲ得

第十三条ノ二  削除


 日本の公証人は、著名な元裁判官や元検察官の方にお出ましいただくような難しい仕事はあまり求められていない(元法務省職員でもできるのですから)ので、法務博士の学位を有する方々なら十分にこなせるのではいないかと思います。

Posted by 小倉秀夫 at 02:20 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (2)

10/04/2004

ロースクールの学費

 ロースクールの授業料の件については、異論もあるようです。

 しかし、齋藤隆広弁護士の「 オーストラリア法曹教育調査報告 」によれば、オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ州における唯一の法曹資格認定機関である法曹資格認定委員会(The Legal Practitioners Admission Board)は、ロースクールで勉学できる時間的・経済的余裕がある者のみならず、勤労者、ロースクールの学費を調達できない者、その他の理由でロースクールに入学できない者などにも法曹となれる機会を付与するため、夜間の法曹養成講座を主催し、「設備や教授陣をシドニー大学から流用するとともに、大教室による授業形態を採用し、教員はすべて非常勤、学生との通信にはインターネットを多用する」等のコストダウンの努力をした結果、政府等からの補助金なしで、1科目の受講料を365豪ドル(約23,700円)に留めることができたとのことです。
 
 そして、「教員をすべて非常勤にすればコストダウンとなる」という構造は、夜間ロースクールに限りません。全日制のロースクールだって、教員をすべて非常勤講師ないし非常勤講師と同程度の処遇にしてしまえば、独自の教授、助教授を抱え込んでしまっている現在のロースクールよりもコストダウンとなることは明らかです。これと、ロースクールの位置づけを、大学院から大学に引き戻すことを組み合わせれば、従前司法試験に挑戦することができた階層が再び司法試験に挑戦できるようになります。
 
 とはいえ、ロースクールの教員にだって生活はありますから、どこかで生計を得る手段を確保しなければなりません。生活に必要なお金は、弁護士等に最新の法律情報や特殊分野に関する法律情報を伝授することによって稼いだらよい話です。我々弁護士は、それが役に立つとなれば、数時間の講義・講演に対して数万円の受講料を支払うことだってあるわけで(経費で落ちますし)、法律実務家から一目置かれる研究をしておりかつ講義・講演が上手な研究者であれば、全く不安に思う必要はありません。そして、法学研究者が、法律実務家から一目置かれるような研究を指向するようになることは、悪いことではないでしょう。
 
 あるいは、日本のロースクールの多くは、法学部がある大学が主体となって運営していますから、法学部の教授陣を非常勤講師としてロースクールに流用し、非常勤講師の給与水準で彼らに働いてもらうことによって、人件費を削減することだってできます。法学部の教授、助教授とは別個に、併設ロースクール専属の教授、助教授を置き、高い人件費を支払うなどというのは、コスト的にはばかげた話です。これは、文部科学省が法科大学院の設置基準を改めない限りどうしようもないのかもしれません。無駄を強制する文部科学省は、法曹養成からは一刻も早く手を引くべきだと思います。

Posted by 小倉秀夫 at 12:23 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (0) | TrackBack (0)

10/03/2004

ロースクール制度の改革について

 私は、最初から法科大学院制度には反対だったのですが、国立大学の独立行政法人化にあわせて強引に法科大学院制度が始まってしまいました。しかし、始まってみると案の定制度設計のまずさが露呈してきています。そうはいっても、各法科大学院だって人を集めたり箱物を作ってしまったりしているし、何より、高い入学金を支払い、人生を棒に振るリスクをかけて法科大学院に入学してしまった学生が少なからずいるわけですから、いまさら全く法科大学院制度を白紙に戻すわけにはいかないでしょう。そこで、私なりの改善案を示したいと思います。
 
1 「法科大学院」を「法科大学」あるいは「法学部法曹養成コース」に変更する。

 すなわち、「ロースクール」を専門職大学院扱いではなく、学部扱いとするということです。法律家として活動していて、学位が「学士」止まりで困るということはありませんので、「ロースクール」を大学院として位置づけるメリットはありません。既に「ロースクール」に入学した学生の大部分は、「新司法試験を受験するための切符」としてのロースクール卒業資格がほしいだけで、JDの資格がほしいわけではないでしょうから、そのような改革をしたからといって、特に不利益にはなりません。
 他方、学部扱い(すなわち、高校卒業後入学することを標準とする)にすることにより、ロースクール卒業時に新司法試験を受けて法曹を目指すか、または、公務員や民間企業への就職を目指すかを、最終的に選択することができます。22~3歳程度の新卒ならば、十分やり直しのチャンスがあります。
 
2 「法科大学」の認定権限を、文部科学省から日本型BAへ移行させる。

 米国では、司法試験の受験資格を付与できるロースクールを認定するのはABAです。すなわち、法律家(弁護士、裁判官、検察官)の集まりが、次世代の法曹を輩出する役割を担うに足りる教育機関を認定する方式をとっています。これは、法律家たるに必要な資質とはなんぞやということを理解していない文部科学省の役人に新司法試験の受験資格を付与できるロースクールを認定する権限を与えている日本方式よりも優れています。
 日本でも、法曹資格者(弁護士、裁判官、検察官)からなる組織(日本型 Bar Association)を立ち上げ、そこに新司法試験の受験資格を付与できるロースクールを認定する資格を与えることが望ましいように思います。これにより、教員の少数無力説を押しつける旧態依然としたロースクールを排除することができます。
 
3 「法科大学」の教員の給与を非常勤講師並みに引き下げる等して、学費の低廉化を図る。

 法科大学院制度の最大の問題は、学費が高すぎて、挑戦できる階層が限られてしまう点にあります。その原因の一端は、文部科学省が認定権限を握ってしまったため「箱物」の充実を要求しすぎたために、必然的にコスト高の体質になってしまったということもあるとは思います。他方で、ロースクールバブルに伴う引き抜き合戦のために人件費が上昇してしまったということもまた、学費の高額を招いているといえるでしょう。
 法科大学院構想は、そもそも大学の教員が「研究」にかこつけて教育をないがしろにしている間に学生を司法試験予備校にとられてしまったということに端を発しているわけですし、司法改革に関して積極的に意見を進言した法学者の多くは、これから法律家になる人たちに対しては「安上がりに使われる法曹」になることを期待して実需を無視した大幅な新規資格取得者増を提案したわけですから、彼らはある程度「痛み」を分かち合ってしかるべきです。
 そして、学生から高額の学費を巻き上げないこととする埋め合わせは、たとえばお盆期間中やGW中などに、弁護士等を相手に先端的な法分野に関する集中講座を開くなどして行えばよいわけです(既に弁護士として活躍しているものであれば、少数無力説を押しつけるだけの講義等は相手にされない反面、それが自己の実践的能力を高めるのに役立つとなればそれなりに費用をかけることができるし、なにより先端的な法分野を学ぶのに必要な基礎的な法分野について一定以上の理解を有しているので、法科大学院の学生に先端的な法分野を学ばせるより効率的です。)。

Posted by 小倉秀夫 at 02:15 AM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (3) | TrackBack (1)

08/24/2004

NTTコムと匿名

NTTコムのフリーダイヤルを使って営業している金融機関(利息は10日で25%)に受任通知を送るべく、NTTコムにフリーダイヤルの設置場所を尋ねたのですが、頑として教えないのですね。
匿名性の保障は違法行為の幇助に繋がるという見解の主張者は、フリーダイヤルを違法な営業に利用した場合には被害者に対し設置場所を開示することができるという条項を利用約款に入れようとしないNTTコムをも、出資法違反行為の幇助又は主体であると非難しても良さそうなものですが、東大の助手に過ぎなかった金子さんは批判できても、NTTコムのような大企業は批判できない人が多いのでしょうね。
NTTコムの人たちだって、スポーツ新聞を読んだり、電信柱の張り紙を見たりすれば、フリーダイヤルが違法な行為にも用いられていることくらいは知り得たでしょうに。
(あるいは、著作権侵害だけは、プライバシーに勝るということなのでしょうか?)

Posted by 小倉秀夫 at 05:35 PM dans D'autre problème de droite | | Commentaires (5) | TrackBack (2)