12/10/2017

零からの憲法草案(3)

 人権については、何回かに分けて考えていきましょう。

 日本国憲法において「国民の権利」として規定されているものの中には、主権者たる国民の一員としての権利と、人間であることにより当然に認められるべき権利とが混在しています。ゼロベースで憲法草案を起草するのであれば、国籍等によらずに全ての人が享有できる権利(基本的人権)と主権者たる国民の一員としての権利(国民の権利)とを分けて規定した方が良いように思います。

 そうすると、何を基本的人権とし、何を国民の権利とするのかの切り分けをする必要があります。人格権を基本的人権とするべきことはほぼ異論はないと思います。公務就任権については色々な考え方があるとは思いますが、公務員は全て主権者たる国民の委託を受けて国民のために権力を行使するに過ぎない存在だと考えれば、公務就任権を主権者たる国民の一員としての権利と位置づける必要はないと言えます。特定の公務を委託するのにもっとも有能な人材がたまたま日本国籍を有していない場合に、これを排除するのは合理的ではないと言えます。もっとも、外国で公務に従事している人が同時に日本で公務に従事するとなると利益相反となる危険がありますので、そのような方については例外的に公務に就任する資格がないことにするのが適切ではないかと思います。

第2編 基本的人権
(基本的人権の享有主体)
第13条 この編に定める権利(以下、「基本的人権」という。)は、国籍の有無にかかわらず、全ての人がこれを享有する。
(基本的人権の限界)
第14条 基本的人権は、この憲法に特に定めがある場合の他、他の人の基本的人権との調整のためやむを得ない場合に限り、一定の制約を受ける。
(個人としての尊重)
第15条 全ての人は、個人として尊重され、その人格を貶められない。
2 全ての自然人は、その自律的な判断に基づき、その幸福を追求する権利を有する。
3 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
(法の下の平等)
第16条 全ての人は、法の下に平等であって、人種、民族、信条、性別、性的指向、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない。
(公務就任権)
第17条 全ての成人は、その能力に応じて公務員に就任し、または選挙により公務員に選任される資格を有する。ただし、外国(国際機関を含まない。)において公務に従事しまたは従事していた者についてはこの限りではない。

04/10/2017

零からの憲法草案(2)

 まずは、国民主権の原則と、主権者たる国民に関するルール、そして主権者たる国民の象徴に関するルールを第1編で規定してみることにしましょう。

 現行憲法の問題点の一つとして、主権者たる国民の範囲を、国会が法律によりコントロールできるということがあります。なので、国民たる資格(国籍)を当然に取得できる要件については、憲法で定めることとした方が良いでしょう。

 主権者たる国民の象徴として一定の儀式を担当する役職を、世襲によるものとするべきか、選挙で選ぶべきかについては、様々な議論があると思いますが、それって憲法で一義的に定める必要があるかと言えば疑問なので、デフォルトでは、昭和天皇の子孫が世襲できることとしつつ、その仕組みを国民投票で変えられるようにしてみました。なお、現行憲法の問題点の一つとして、皇位継承権者が全くいなくなったときにどうしようもなくなると言うことがありますので、その場合には、さっさと大統領を選んでしまえるようにしてみました。

 また、現行憲法では、天皇の国事行為は全て内閣の助言と承認に基づいて行うことになっているのですが、どうせ自由裁量の余地はないのですから、それぞれの機関ないしその長が指名なり指示をすればいいということにしました。

 なお、「国会の指名に基づいて、最高裁判所の裁判官及び最高裁判所の長たる裁判官を任命すること」としてあるのは、最高裁の裁判官については、国会承認人事にすべきではないかと考えているからです。

 また、天皇や皇族にも基本的人権があるという考えに立った場合、これを制約する根拠が憲法上に規定されている必要があります。移動の自由、職業選択の自由、営業の自由、政治活動の自由、政治的表現の自由は、象徴としての職務との関係では、制約をされざるを得ないかなと思いました。

第1編 主権
第1章 国民主権
(国民主権)
第1条 日本国の主権は、国民に帰属する。
(権力の信託)
第2条 主権者たる国民は、公共の福祉を増進させるために、この憲法に定める限度で、各国家機関に権力の行使を委託する。
2 主権者たる国民は、地域の自律的な発展を促すために、この憲法に定める限度において、各地方自治体に、当該地域における権力の行使を委託する。
第2章 国民
(国籍の取得)
第3条 出生時において父母の双方またはいずれか一方が日本国籍を有していた者は、当然に日本国籍を取得する。
2 出生時において父母の双方またはいずれか一方が適法な在留権限をもって日本国内に居住していた者は、その当時父母の双方が日本国籍を有していなかった場合であっても、当然に日本国籍を取得する。
3 出生後に生じた事由により日本国籍を取得するための要件は、法律で定める。
(国籍の喪失)
第4条 何人も、その自由意思に基づき、日本国籍を放棄することができる。
2 国民が国籍を放棄するための要件は、法律で定める。
3 何人も、その意思に反して、日本国籍を剥奪されない。ただし、日本国籍を有する者が、その自由意思に基づいて他国の国籍を取得した場合は、この限りではない。
(多重国籍)
第5条 日本国籍を有する者は、他国の国籍を併有することを理由として、法的に不利に取り扱われない。
(有権者団としての国民の権利)
第6条 満18歳以上の国民は、この憲法または法律にて定める選挙および国民投票において、等しく票を投ずる権利を有する。
第3章 主権者たる国民の象徴
(天皇)
第7条 天皇は、主権者たる国民の象徴として、国民のために、この憲法に定める限度において、儀礼的な行為を行う。
2 天皇の地位は、昭和天皇の子孫により世襲される。その継承順位は、法律で定める。
3 天皇は、その職務の一部を、天皇の地位の継承順位の定まっている者に分担させることができる。
(大統領)
第8条 天皇の地位を継承する者が存しなくなった場合または国民投票により天皇を主権者たる国民の象徴としない旨を決定した場合、選挙にて選ばれた大統領が、主権者たる国民の象徴として、国民のために、この憲法に定める限度において、儀礼的な行為を行う。
2 大統領の任期は、5年とする。
3 大統領を選ぶ選挙は、最高裁判所長官がこれを施行する。
(摂政等)
第9条 最高裁判所長官は、天皇がその職務を怠り、または職務を行えなくなったときは、職務を行える者の中で最も天皇の地位の継承順位の高いものを摂政に選任し、天皇の職務を代行させることができる。摂政がその職務を怠り、または職務を行えなくなったときも同様とする。
2 最高裁判所長官は、大統領がその職務を怠り、または職務を行えなくなったときは、大統領を解任し、新たな大統領を選ぶ選挙を行うことができる。この場合、新たな大統領が選任されるまでの間、大統領の職務は、最高裁判所長官が代行する。
(象徴の職務)
第10条 天皇ないし大統領が、主権者たる国民の象徴として行う職務は下記のとおりである。
一 国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命すること。
二 国会の指名に基づいて、最高裁判所の裁判官及び最高裁判所の長たる裁判官を任命すること。
三 衆参両院議長の指示に基づいて、法律及び条約を公布すること。
四 衆議院議長の指示に基づいて、衆議院を解散すること。
五 選挙を行う議院の議長の指示に基づいて、衆議院または参議院の議員の選挙の施行を公示すること。
六 内閣総理大臣の指示に基づいて、国務大臣を任免すること。
七 内閣総理大臣の指示に基づいて、政令を公布すること。
八 内閣総理大臣の指示に基づいて、法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
九 内閣総理大臣の指示に基づいて、批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
十 内閣総理大臣の指示に基づいて、外国の大使及び公使を接受すること。
十一 内閣総理大臣の指示に基づいて、儀式を行うこと。
(人権等の制限)
第11条 天皇または大統領は、内閣総理大臣の指定する居宅に居住し、宿泊を伴う移動をする場合内閣総理大臣の同意を得なければならない。
2 天皇および天皇であった者、天皇の地位の継承順位の定まっている者、大統領、大統領であった者ならびにそれらの者の配偶者は、その職務を行うのに必要な限度においてこの憲法に定められた諸権利を制約されるとともに、以下の権利を制約される。
一 この憲法に定める選挙および国民投票において投票する権利
二 他の公務員に就任する権利
三 政治的に中立的な学術的または公益的団体として法律に定めるものを除く団体の役員または構成員、従業員となる権利
四 その他政治的中立性を欠くものとして法律で定める行為をする権利
(天皇等の報酬)
第12条 天皇または大統領は、その就任期間中、法律で定める額の報酬を国庫から受ける権利を有する。
2 天皇または大統領であった者、ならびに天皇の地位の継承順位の定まっている者は、その地位に相応しい生活をするに十分な金銭給付として法律で定める額を国庫から受ける権利を有する。

(続く)

零からの憲法草案(1)

 現在の政治情勢を見るに、日本国憲法はもはや風前の灯火のようです。

 早かれ遅かれ、右派の側から、為政者目線での憲法改正案が提示され、発議に回されることでしょう。

 それに反対だけしていると守旧派だ何だと罵られるだけに終わることは目に見えています。失敗が目に見えていた平成の司法改革論議で、司法試験合格者の大幅増員論やロースクール構想に反対したときも同じように罵られましたから。

 なので、逆に、庶民目線での憲法案を一から作ってみることにしましょう。

 まずは、全体の構成から考えていきましょう。

 国家権力の正当化根拠をどこに置くのかということから、いろいろな見解がありうると思います。ここでは、「主権者たる国民が、その権利や利益を守るために、強制力を有する組織体としての国家との間で、憲法という名の社会契約を締結した」ことに国家権力の正当化根拠を置いてみることにしましょう。すると、まず、主権者が国民に帰属することの宣言ならびにここでいう「国民」の範囲に関する規定が冒頭に置かれるのが素直です。

 もっとも、主権者たる国民というのは、可視的な実体が存在しませんので、投票行動を通じて「主権者たる国民」の意思を擬似的に可視化する存在としての「有権者団」と、儀式を通じて「主権者たる国民」の意思を擬似的に可視化する存在としての「象徴」を置くことは合理的です。したがって、有権者団と象徴に関する規定を前の方に置くことは合理的と言えそうです。

 この次に人権に関する規定を置くか、統治機構に関する規定を置くかは、起草者の趣味の問題でしょう。国家に委ねる権力の内容及び範囲を「人権」という形で示すのだと考えれば、統治機構に関する規定の前に人権に関する規定を置くことも十分に合理的です。

 統治機構に関する規定の後には、地方自治に関する規定を置くのが素直かなという感じがします。地方自治に関する規定は統治機構に関する規定に含まれるのではないかという疑問もあるかも知れませんが、「自治」である以上、当該地方の運営に関して一定の決定権限を有する「住民」という概念を規定する必要があるので、統治機構の一翼ということでは収まりきれないと思います。

 最後に、改正に関する規定を置くことになります。

 安全保障に関する規定をどうするかという疑問があるかも知れませんが、専守防衛に徹する限り、「自国の主権の及ぶ範囲内で、自国の法令に従わない人または団体に対し、有形力を行使して、自国の法令に従わせる」と言うだけの話ですので、それはあくまで「行政」の一環ということが言え、統治機構に関する規定に織り込めば済むように思われます。

(続く)

12/09/2017

ネット右翼(ネトウヨ)の定義

 ネット右翼(ネトウヨ)の定義が時折問題になるので、掲げておきます。

【ネトウヨ】「ネット右翼」の略。主として、電子掲示板やブログやミニブログ、他者のブログのコメント欄等を用いて、日本の周辺諸国や国内のマイノリティ、左派的な組織等もしくはそれらに好意的な人々またはそれらに対する不当な攻撃に批判的な人々に嫌がらせをすることで自尊心を保ちまたは同種の人たちとの連帯感にすがる人。多くの場合、「国を愛する」というのは、その悪行を正当化するための建前でしかなく、自ら率先して自国を良くしていこうと行動することは希である。

11/09/2017

外国会社の日本における代表者──あるいはTwitter社に要求すべきもの

 会社法817条1項は、以下のとおり定めています。

外国会社は、日本において取引を継続してしようとするときは、日本における代表者を定めなければならない。この場合において、その日本における代表者のうち一人以上は、日本に住所を有する者でなければならない。

 外国会社が日本における代表者を定めているとどのような良いことがあるのでしょうか。それは、同条2項に定められています。

2  外国会社の日本における代表者は、当該外国会社の日本における業務に関する一切の裁判上又は裁判外の行為をする権限を有する。

 つまり、外国会社の日本における代表者は、当該外国会社の日本における業務に関する一切の裁判上の権限を有していますので、当該外国会社に対し訴訟を提起し、または仮処分の申立てをしようとする場合、訴状ないし申立書の送達先を、日本国内にある、日本における代表者の住所地に指定すれば足りるのです(民事訴訟法37条により準用される102条1項)。

 つまり、当該外国会社が日本に住所を有する者を日本における代表者と定めていれば、当該外国会社の日本における業務に関して当該外国会社に対して権利を取得した者がこれを行使する際に、訴状等を国外に送達する際の種々の負担から解放されるわけです。訴状等を送達先の国の言語に翻訳しなくともよいという経済的な負担や、訴状等を領事送達等しなくてもよいという時間的な負担から解放されるわけです。

 では、どのような取引が「日本における継続的な取引」となるでしょうか。  海外にある本社から直接日本国内にいる顧客に商品を送付する取引がこれに当たることは分かりやすい話です。また、海外にあるサーバから直接日本国内にいる顧客にデジタルデータ(コンテンツ)を送信する取引がこれに当たることも、それほど違和感はないと思います(例えば、江頭憲治郎=中村直人編著「論点体系 会社法6」69頁(金子圭子=石川祐)は「日本に営業所を設けず、専ら電子的な手法を通じた取引のみを行っている場合であっても、日本の顧客を対象に集団的・継続的に行われる場合には、継続取引に該当し得ると解されるべきである」としています。)。

 そうであるならば、海外にあるサーバから日本国内にいる顧客に対してSNSサービスを提供することも、日本における継続的な取引ということができます。無償のSNSであっても、個人情報や著作物の利用権限等と引き替えに投稿資格を付与しているわけですから、金銭授受を介しないというだけで、取引を行っていることに変わりはないからです。実際、Twitter社等外国のSNSサービス業者に対して発信者情報開示仮処分を申し立てるときの国際裁判管轄の根拠条文は、民事訴訟法第3条の3第5号

(日本において事業を行う者(日本において取引を継続してする外国会社(会社法 (平成十七年法律第八十六号)第二条第二号 に規定する外国会社をいう。)を含む。)に対する訴え 当該訴えがその者の日本における業務に関するものであるとき。 )

を援用しています。

 会社法818条1項は、次のように定めます。

外国会社は、外国会社の登記をするまでは、日本において取引を継続してすることができない。

 外国会社が、外国会社の登記をしていれば、日本における代表者の氏名及び住所は必要的登記事項ですので(会社法933条2項2号)、その日本における取引によって当該外国会社に権利を取得した者は、その登記を見ることによって、その日本における代表者の氏名及び住所を知ることができるわけです。

 問題は、日本で大量の顧客を抱えている外国のコンテンツ事業者やSNSサービス提供者の多くが、外国会社の登記をせず、日本における代表者を定めていないことです。その多くが、日本に子会社を設立していますから、日本国内で取引をする気は満々で、実際、国内企業を凌駕するほどの取引を日本国在住者との間にしているのですが、一向に外国会社の登記をしないのです。そして、日本国内の子会社を送達先として訴状等を送達しようとすると、法人格が異なるからという理由で、訴状等の受領を拒むのです。

 このため、外国会社の日本における取引に関して損害を被った日本国在住者が当該外国会社に損害賠償請求を訴訟を行使しようとしたり、外国会社が運営するSNSサービス等に関して発信者情報開示仮処分を申し立てようとすると、本来必要がないはずの時間やコストがかかってしまい、泣き寝入りしやすくなってしまいます。

 こんな不正義が罷り通り、日本在住者が不当に扱われている状態がなぜ放置されているのか、私は不思議でなりません。

26/07/2017

日本国籍を取得していないと親方になれないのか。

 横綱白鵬が、日本国籍を取得するとかしないとかという話が話題になっています。日本国籍を取得するとすれば、それは、引退後、親方となって後進の指導に当たるためと言うことだと思います。ところで、本当に日本国籍を取らなければ親方になれないのでしょうか。

 「親方」というのは俗な名称で、公式には「年寄」という言い方をします。では、日本国籍を有していないと「年寄」になれないのでしょうか。

 公益財団法人日本相撲協会の定款を見てみましょう。「相撲部屋における人材育成業務の委託」に関する規定は第46条に、「年寄」に関する規定は第47条と第48条にあります。引用してみましょう。

 

(相撲部屋における人材育成業務の委託)
第46条この法人は、相撲道を師資相伝するため、相撲部屋を運営する者及び他の者のうち、この法人が認める者に、人材育成業務を委託する。
2 この法人は、委託業務に関して、規程に定める費用を支払う。
3 委託業務に必要な事項は、理事会が別に定める。

(年寄名跡)
第47条 年寄名跡は、この法人が管理するものとする。
2 退任する年寄は、 この法人に名跡を襲者推薦とができる。ただし退任する年寄は、 この法人に名跡を襲者推薦とができ。ただし退任する年寄は、 この法人に名跡を襲者推薦することができる。ただし、退任後5年以内を限度として推薦するものとする。
3 年寄名跡を襲する者は、資格審査委員会で審査した結果に基づき理事会で決定する。
4 何人も、年寄名跡の襲名及び年寄名跡を襲名する者の推薦に関して金銭等の授受をしてはならない。
5 前項の定めに違反した者は厳重な処分をすることとし、これを含めて年寄り名跡に関する規程は理事会が別に定める。

(年 寄)
第48 条 この法人には、協会員として年寄を置く。
2 年寄は、名跡を襲した者とする。
3 年寄は、理事長の指示に従い、協会業実施あたる。

 これを見る限り、人材育成業務の委託先を日本国籍保有者に限定する規定もなければ、「年寄」を日本国籍保有者に限定する規定もありません。したがって、定款上は、外国人力士が、日本に帰化せずに、年寄となり、引き続き日本相撲協会の協会員として後進の指導に当たることは可能です。

 では、退任する年寄が、日本に帰化していない外国人力士を年寄名跡を襲名する者として推薦した場合に、日本相撲協会の理事会が、日本国籍を有していないことを理由として、その力士にその年寄名跡を襲名させないという決定をすることは許されるのでしょうか。

 相撲協会と力士との関係については、雇用契約とする見解と、準委任契約であるとする見解とが対立していたのですが、東京地方裁判所平成25年3月25日(平成23年(ワ)第20049号事件)は、有償双務契約としての性質を有する私法上の無名契約と解した上で、その解除については、民法656条,651条1項による解除ができると解することは相当ではなく、施行細則及び附属規定中の懲罰規定に基づき判断されるべきであって、解雇権濫用法理が直接適用されないにせよ、懲罰規定の解釈,判断における一般的な法理が考慮されるべきことは当然であるとしました。

 力士として引退後、年寄名跡を襲名して、年寄として協会員であり続けることは、相撲協会と力士との間の、有償双務契約としての性質を有する私法上の無名契約の、引退に伴う解約ルールの例外として捉えることができます。そして、それは、公益財団法人日本相撲協会の定款上で定められているルールですから、それを可とするか不可とするかについての理事会の決定は、完全に恣意的に行えるものではないように思われます。

 東京地判平成23年12月19日判タ1380号93頁は、東京工業大学が、原告がイラン国籍を有することを理由とする安全保障上の配慮に基づき,東工大原子炉工学研究所の研究生としての原告の入学出願を不許可とする決定をした件について、日本国憲法14条1項に違反するとともに,教育基本法4条1項(教育の機会均等)にも違反するので、違法であり、無効であるとしています。このように、通常一方当事者の裁量で決定することが可能な事項についても、それが日本国憲法等に違反するようなものであれば、その決定自体が違法であり、無効であるとされるわけです。

 日本相撲協会は、国立大学法人ではありませんが、公益財団法人ですので、日本国憲法第14条1項の平等原則に反しないように人事に関する決定を行う義務を有するものと解されても不思議ではありません。そうだとすると、国籍に関する条件がなければ通常年寄名跡の襲名を可とする決定が下されるであろう力士について、日本国籍を取得していないとの理由だけで、襲名を可としない決定を下したときに、その決定が違法であり、無効であるとされる可能性は十分にあるように思います。年寄が行うべき業務(理事長の指示に従った協会事業の実施)に関して、日本国籍を有しなければ困難とされる合理的な理由がありません。また、日本相撲協会は日本国籍を有しない力士を大量に協会員としており、引退後については日本国籍を有しないと言うだけの理由で差別的に取り扱うことに一種の禁反言的要素があるからです(相撲が神事であるということを理由とするのであれば、むしろ、神事たる相撲を執り行う力士が外国人であることの方が問題となるはずであり、既に力士が外国人であることを容認している以上、年寄について日本国籍を求める理由とはなり得ないと言うことです。)。

 日本国籍さえ取得してしまえば、白鵬ほどの力士であれば、確実に年寄名跡を襲名することを可とする決定が下りるので、後進のために敢えて日本国籍を取得せずに年寄名跡の襲名を推薦してもらい、これを不可とする決定を理事会に出させて、法廷闘争に持ち込めと要求するのは酷だとは思います。ただ、日本相撲協会の理事たちは、外国籍を有する力士たちが故郷と後進たちとの間の板挟みにならずに済むように、一日も早く、日本国籍を取得していなくとも年寄となり得るのだというルールに明示的に変えていただきたいものです。

15/01/2017

2015年の日韓合意の解釈について

 従軍慰安婦問題については、平成27年12月28日付の日韓両国の外務大臣の共同記者発表をもって、政府間での解決が果たされました。その内容は、こちらのWEBページに掲載されています。しかし、この共同記者会見の解釈については、誤解が多いようです。

 1つは、日本側から韓国側への拠出金の意味についてです。これを、駐韓日本大使館前の少女像の撤去の対価とする見解がまことしやかに流れているようです。しかし、岸田外務大臣の声明(2)によれば、韓国政府が元慰安婦の方々の支援を目的として設立した財団に日本政府の予算で資金を一括で拠出するのは、「今般,日本政府の予算により,全ての元慰安婦の方々の心の傷を癒やす措置を講じる」ことの具体的な方策の一旦として位置づけられており、かつ、「全ての元慰安婦の方々の心の傷を癒やす措置を講じる」ことの主体は日本政府とされています。尹外交部長官の共同声明(2)にあるとおり、韓国政府は、上記措置の主体ではなく、あくまで「日本政府の実施する措置に協力する」立場にあることになっています。したがって、上記拠出金を、韓国政府による何らかの行為の対価と捉えること自体が間違っていると言えます。

 さらに、尹外交部長官の共同声明を見てみると、(1)では、上記「措置が着実に実施されるとの前提で」韓国政府は「この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」こととし、(3)では、上記「措置が着実に実施されるとの前提で」韓国政府は「今後,国連等国際社会において,本問題について互いに非難・批判することは控える」としていますが、(2)については上記「措置が着実に実施されるとの前提で」韓国政府が何かをするとは述べられていません。このことから、少女像に関する措置については、拠出金の支払いの実施と対価性を有する韓国政府の行為は何ら想定されていないと見るのが自然です。

 次に、尹外交部長官の共同声明(2)に「(2)韓国政府は,日本政府が在韓国日本大使館前の少女像に対し,公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し」との文言があることから、上記少女像の設置が外交関係に関するウィーン条約に違反するとの日本側の解釈に従って少女像の撤去等を行う義務を韓国政府が負うことになったとする見解も流されているようです。

 しかし、両外相会談の結果上記少女像の設置がウィーン条約に違反するとの日本政府の解釈を韓国政府が受け容れたのであれば、尹外交部長官の共同声明(2)は、「韓国政府は、在韓国日本大使館の少女像が公館の安寧・威厳を害していることを認知し」というような文言となっていたはずです。しかし、そうなっていないのは、「在韓国日本大使館の少女像が公館の安寧・威厳を害している」との点について韓国政府は納得していないからと見るのが自然です。韓国政府による認知の対象は、日本政府が「公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していること」でしかなく、「公館の安寧・威厳を害していると認知していること」ですらないのです。東京大学(といっても先端研)の玉井克哉教授は、この文言を捉えて、「ウィーン条約は一般的な条約なので文言が曖昧だが、日本政府の主張を『理解』した韓国政府が『努力』するというのは、日本政府の主張に沿った条約の運用を約束したものではないのか。それが、合意は拘束する、ということ」「条約に『一意の解釈』などない、しかし日本政府の解釈はその解釈の幅の中に入っている。そして、それを単なる「言いがかり」だとして排斥するのは、日本政府の解釈が可能な解釈だと認め、その尊重と努力を約束した韓国政府の意思に沿わない、無理な解釈である。」などというアクロバティックな解釈をしてみせているようですが、尹外交部長官の声明文を見る限り、これは日本側の懸念の内容についての韓国側の認識を示したに過ぎず、ウィーン条約に関する日本側の解釈について「解釈の幅の中に入っている」との韓国側の認識を示したものではありません(なにしろ、その懸念が適切なものであるかの評価すら表明していません。)。また、相手方の主張が解釈論としてはあり得る幅にあることを認識することまで合意したところで、自分もまたその解釈に拘束されることまで合意したことにはなりません。あり得る解釈が複数ある場合に、最終的にどの解釈を選択するかまでが法解釈論なので、相手方の見解があり得る「解釈の幅の中に入っている」ことまで認めたところで、「その中でその解釈を選択する」ことまで求められないのは当然のことです。玉井教授は、「ウィーン条約というのはさまざまな状況に適用されるのが予定されているので、抽象的で幅の広い文言を用いているのです。そして、日本政府の立場がその幅の中にあることは、件の合意で韓国政府が認めていることです。条約の解釈上ありえない立場を「認識」した上で、尊重し努力するなど、ありえない。」とも述べていますが、「ソウルにある日本大使館前の少女像の設置がウィーン条約に違反するとの解釈には賛同しないが、日本側がその少女像について公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることについては(会談中に何度も聞かされたので)理解した」というのは十分あり得る話です。

 その上で、尹外交部長官の声明文を読むと、尹外交部長官は、上記日本政府の懸念を解消する方向で努力するとは言っていませんし、ましてその日本政府の懸念解消方法を少女像の撤去に限定していません。上記日本政府の懸念に対して、「可能な対応方向について関連団体との協議を行う等を通じて,適切に解決されるよう努力する。」と表明したに留まります。何をもって「適切な解決」とするかの判断は韓国側に委ねられており、「少女像の撤去」のみが努力義務の目標とする立場を取っていません。「適切な解決」を果たすための手段として例示されているのが「可能な対応方向について関連団体との協議を行う」ということですから、それほどの実効性はそもそも想定されていなかったと言うことができます。

 なお、「可能な対応方向について関連団体との協議を行う」というのは日本語訳としてこなれていない感じがします。英文を見ると、「consulting with related organizations about possible ways of addressing this issue」という表現になっており、意味としては「この問題に取り組む方法として可能なものについて関連する団体と協議を行う」程度の話だと思います。いずれにせよ、努力の具体例として挙がっているのが「関連団体との協議」程度である以上、韓国政府として、少女像の撤去のために実力行使をすることまでは想定されていなかったと言えるでしょう。

09/10/2016

荻野浩次郎さんの問いに対する回答

 荻野浩次郎さんという方が、

中東に駐在経験のある知人が面白い問題提起をしていた。いわゆる左巻き…というか、地球市民というかグローバリストに尋ねてみたい、と。
述べています。地球市民でもグローバリストでもありませんが、答えてみましょう。
1.イスラム教徒がイスラム法に従った生活文化を維持するのはいいか?

我々と無関係に暮らしている分には問題がありません。

2.イスラム教徒が日本に移住してくるのはいいか?

出入国管理法に則って移住してくる分には、イスラム教徒であることを理由にこれを拒むのは不合理ですね。

3.イスラム教徒が日本でも彼らの生活文化を守ることはよいか

 日本国の法令に抵触しない限度であれば問題がありません。

4.日本でイスラム教徒が多数派になり、一部地域若しくは全国でイスラム法に基づいた統治を行うことを民主的に決定したら受け容れるか。

 法令の改正のみならず、憲法まで改姓された場合には、受け容れるとか受け容れないとかという状況ではないと思うのですが。選択肢は、一旦これを受け容れて日本に留まるか、日本を離れるかの選択肢しかありませんね(反政府ゲリラとなって戦うのはどうも。)。

5.日本生まれの日本人がイスラム教徒になるのは良いか。

ご自由に。

6.日本人イスラム教徒がイスラム法に基づいた生活文化をもつのは良いか。

 日本の法令に抵触しない限度であればご自由に

7.それが家父長的男尊女卑的でも良いか。

 日本の法令に抵触しない限度であればご自由に

8.非イスラム教徒の日本人が家父長的男尊女卑的生活文化を持つのは良いか

 日本の法令に抵触しない限度であればご自由に

9. 日本のうちの家父長的男尊女卑的生活文化を持つ集団が民主的にそれに基づいた法を施行維持するのは良いか。

 日本国憲法を改正してそのような法令を制定、施行することには賛同しがたいですね。

10.イスラム教徒がオーケーで日本人がだめな場合、その理由は?

 設問4は、イスラム法に基づいた統治を行うという決定の当否ではなく、そのような決定がなされた場合にこれを受け容れるかどうかを尋ねるものであるのに対し、設問9はそのような法改正を行うことの当否を尋ねるものなので、次元の違う設問を並べてそのようなことを言われても困ってしまいますね。

 自民党の参議院公認候補オープンエントリーに参加されるような方が、家父長的男尊女卑的生活文化の再現を求めておられるのですかね。

06/10/2016

カタリ派の陰を追って(1)

今年のバカンスを振り返ってみたいと思います。

準備

 今年のテーマは、「カタリ派の拠点巡り」です。

 なので、アルビジョワ十字軍の総大将であるシモン・ド・モンフォールを打ち倒した街、トゥールーズを拠点とすることをまず決めました。その上で、東京からどうやってトゥールーズまで行こうかを色々検討しました。その結果、どうもトルコ航空を使うと、イスタンブール空港経由で直接トゥールーズ空港まで行かれるようだ(しかも安いし、成田夜発だ)ということがわかり、Expediaを利用してまず航空チケットを押さえました。

 次に、拠点となるトゥールーズのホテルを押さえておく必要があります。今回は、Booking.comを使いました。行くのは8月終わりから9月初め。そして、最近は、欧州も猛暑となることがある。しかも、私は暑さに弱い。ということで、部屋にエアコンがついていることを最優先に考えました。あとは、中央駅のそばにするか、旧市街の中心部に近いところにするかを考えることになります(レンタカーを借りて動くのであれば、郊外の、設備の割にお値打ちのホテルにする手もあるのですが。)。旧市街から中央駅まで地下鉄で数駅で行かれそうだったので、旧市街地にホテルを取ることにしました。最終的に選んだのは、Hotel des Beaux Arts Toulouseです。新橋(Pont Neuf)の袂にあり、交通は至便、設備もなかなか、Booking.comで大幅ダンピングと好条件だったからです。一端は、「オーバーブッキングをしてしまったので、Hotel Garonneに行ってくれないか」とのメールが来たりしたのですが、その後、「やっぱり空室がでたので、こちらに来てはどうか」とのメールが来たので、結局、Hotel des Beaux Arts Toulouseに泊まりました。

 もっとも、土曜日出発だと、現地に着くのは日曜日。フランスだと、どうせ日曜日は美術館とレストランくらいしかやっていないので、初日は、鉄道に乗って奥に行こうと考えました。当初は、アンドラ公国に行こうと宿だけ先に取ったのですが、日曜日は交通機関もまばら運行なので、どうも宿に着くころには23時を過ぎてしまいそうだということがわかりました。次に、カタリ派最後の拠点、Montsegurで一泊するのも悪くないなと考えて、宿を取り替えてみたのですが、ここに行くにはFoix駅からタクシーに30分くらい乗らなければならないことがわかってきました。社会人なのでそのくらいの金銭負担は構わないのですが、「日曜日の夜、Foixというそれほど大きくない街でタクシーを呼んで、来なかったらどうしよう」という不安が頭をよぎりました。結局、カタリ派領主の1人、テルム伯の拠点であったAx les ThermesにあるDomaine de la Vallee d'Axを予約しておくことにしました。

(続く)

05/10/2016

それは、弁護士会の手に余る

 産経新聞が、「法曹養成 活躍の場増やす努力せよ」と題する社説で以下のように主張されています。

 弁護士や裁判官などの地域的偏在は解決されていない。災害被災地など長期的、組織的な法律家の支援を必要としている場がある。高齢者や子供を守る法曹の支援の重要性は増している。企業や官公庁、国際舞台で法律知識と交渉力を持つ人材が望まれている。
 弁護士会はこうした現状をみつめ、もっと活躍の場を広げ、法曹の仕事の意義や魅力アップの方策を考えてはどうか。

 この社説を書いた論説委員はずっと知識を更新しない人なんじゃないかと心配になります。

 弁護士の「ゼロワン」地域は既に解消されています。過払い金請求が一段落した今、弁護士が足りない地域があるという話を聞きません。裁判官が過疎化した支部に常駐しない問題は、弁護士会ではどうしようもありません。

 「災害被災地など長期的、組織的な法律家の支援を必要としている場」には東京などの大規模会から弁護士が派遣されています。現在都会で構えている事務所を捨ててそのような場に常駐するためには、「長期的、組織的な法律家の支援」が必要となくなった後もそこで開業し続けられる見込みが必要です。高齢者や子どもを守る仕事をする弁護士も普通に存在しています。足りないのは、弁護士の助けを必要とする高齢者や子どもが支払える報酬額と、弁護士が事務所を維持しさらに人並みの生活をするのに必要な報酬額とのギャップを埋める組織です。それも、弁護士会がどうこうできる問題ではありません。

 また、「国際舞台で法律知識と交渉力を持つ人材」を育てるためには、さしたる実績のない若い弁護士にそのような交渉に関与させる企業や官公庁が不可欠です。その種の人材は、法科大学院や弁護士会での研修によって生み出せるものではなく、一定の経験が必要だからです。もちろん、その経験を積む間無給では餓死しますので、きちんと報酬を払って若い弁護士をそのような場に就ける企業や官公庁が必要なのです。弁護士会ではどうしようもできません。

 「俺様が倫理の御旗を振れば、お前らは経済的合理性を無視して国家社会のために行動せざるを得ないはずだ」という甘い考えを持っているメディアは、そういう考え方が、平成の司法改革という史上希に見る「ダメ改革」を引き起こしたのだと言うことを、いい加減理解してほしいと思います。

01/10/2016

SLAPP訴訟?

 訴訟の提起自体が不法行為となる場合について、最判昭和63年1月26日民集第42巻第1号1頁は、次のように判示しています。

民事訴訟を提起した者が敗訴の確定判決を受けた場合において、右訴えの提起が相手方に対する違法な行為といえるのは、当該訴訟において提訴者の主張した権利又は法律関係(以下「権利等」という。)が事実的、法律的根拠を欠くものであるうえ、提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起したなど、訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるときに限られるものと解するのが相当である。けだし、訴えを提起する際に、提訴者において、自己の主張しようとする権利等の事実的、法律的根拠につき、高度の調査、検討が要請されるものと解するならば、裁判制度の自由な利用が著しく阻害される結果となり妥当でないからである。

 一部のジャーナリストたちが、自分たちに対する名誉毀損訴訟を「SLAPP訴訟」とレッテル貼りして、これを規制しようと試みているようです。しかし、裁判制度の自由な利用が著しく阻害される結果となることを回避するために訴訟の提起が不法行為となる場合を最高裁が限定した趣旨からすれば、ジャーナリストやメディアに対する名誉毀損訴訟が上記不当訴訟の要件を具備しない場合には、かかる訴訟の提起を「SLAPP訴訟」とレッテル貼りしてこれを抑制することは許されないと言うべきです。なぜなら、市民が報道被害対策として裁判制度を自由に利用することが阻害されることは回避すべきだからです。

 一部のジャーナリストは、表現の自由は重要であるから、これを抑制するために訴訟を提起するのは許されないと考えているようです。しかし、表現の自由と負けず劣らず、個人の人格的利益、とりわけ名誉は重要です。そして、刑法に「名誉毀損罪」を置き、「公共の利害に関する事実について、専ら公益目的をもって行った名誉毀損行為についてのみ、摘示事実が真実であることを立証できた場合に限り、違法性を阻却する」制度を採用している日本法は、むしろ、表現の自由よりも名誉の保護に軸足を置いていると言うことができるでしょう。そうであるならば、現在行われている名誉毀損行為を中止させ、また、さらなる名誉毀損行為を予め抑止するために名誉毀損訴訟を提起することは、何ら非難されるべきことではありません。中には、そのような訴訟において原告の代理人を務めた弁護士を懲戒するように弁護士会に申し入れ、これが拒絶されるや、弁護士自治を剥奪せよと放言するジャーナリストもいるようですが、現在行われている名誉毀損行為をやめさせ、報道される側の利益を守ろうと活動することを懲戒事由としてしまえば、我々弁護士は、報道機関やジャーナリストにより如何に陰湿なデマ攻撃がなされても、自らの法曹資格を捨てる覚悟をせずには、被害者救済のために立ち上がれないことになります。ジャーナリストにとっては夢のような社会ですが、攻撃される側にとっては救いのない社会が実現することとなります。

 一部のジャーナリストやそれに与する法律家の中には、名誉毀損訴訟を起こす側に、その名誉を毀損した摘示事実が虚偽であることの立証責任を負わせよと主張しているようです。しかし、これは二重の意味でバランスを欠きます。

 まず、報道等により突然その名誉を毀損された者に、「なかったことの証明」すなわち悪魔の証明を強いることになるという意味でバランスを欠きます。しかも、ジャーナリストは、自分が気にくわない人や団体を貶めるためであれば、いくらでも荒唐無稽なストーリーを設定してその名誉を毀損することができます。しかし、その摘示事実が現実と乖離していればしているほど、名誉を毀損された側は、そのような事実がなかったことを立証することは困難となります。例えば、マスメディアに3億円事件の真犯人と決めつけられた人物が社会の偏見に苦しみついには自殺してしまったということが過去にありましたが、その人はたまたま3億円事件の犯行時刻にアリバイがあったので真犯人ではないことがわかっていますが、逆に言うと、アリバイ立証ができない場合に、そのころその地域に住んでいて年格好が似ていた人が3億円事件の真犯人でないことを立証することは困難です。

 また、ジャーナリストや報道機関は、当該事実摘示により、経済的な利益を得る機会を与えられており、多くの場合、実際に経済的利益を得ています。これに対し、名誉を毀損される側は、自己に関する事実が報道機関により摘示されることによって何らの利益をも受けないのが通常です。であるのに、摘示事実が真実であるか否かの立証責任を、名誉を毀損される側が負わなければならないというのは不合理です。

 また、ジャーナリストや報道機関は、報道される側に関する特定の事実のみを意図的に切り取ってこれを摘示するわけですから、その立証責任を負わされたとしても、その事実に関連する裏付け資料を収集しておけば足ります。これに対し、報道される側は、報道する側が自己に関するどの事実を取り上げるのかをコントロールすることはできないし、予測することも困難なので、報道する側からいかなる事実摘示を受けてもその事実がなかったことを立証できるようにしようと思ったら、自己の行動・言動の全てを記録に留め、保管しておく必要が生じますが、それは非現実的です。

 また、報道された側に摘示事実が真実でないことの立証責任を負わせた場合、報道された側は、その事実が真実でないことを立証するために、プライバシー情報や営業秘密、あるいは第三者との間で秘密保持義務を負っている情報を開示する必要が生ずる場合があります。秘密情報を開示するか、名誉を毀損されて泣き寝入りするかの選択を報道側に迫る正当性が、ジャーナリストや報道機関にあるとは思えません。

 名誉毀損訴訟においては被告の側に摘示事実の真実性の立証責任を負わせている現行制度においても、ジャーナリスト側がちゃんと裏付け取材をしていれば、報道された側の請求は棄却されているわけで、真実性の立証責任を転換するメリットは、裏付け取材なんて面倒なことをしたくない怠惰なジャーナリストや報道機関を利する意味しかないように思います。

28/09/2016

重国籍者の被選挙権を制限する公職選挙法改正案について

 日本維新の会が公職選挙法の改正案を国会に提出したそうです。

 同党のウェブサイトによると、国会議員の被選挙権に係る国籍要件について、「日本国民」であることの他に、「外国籍を有する日本国民(国籍選択期間内にあるもの及び国籍選択宣言をした者を除く)は被選挙権を有しない」という要素を付け加えるのだそうです。

 現行公職選挙法は、議員の国籍要件については、10条1項柱書において「日本国民は、左の各号の区分に従い、それぞれ当該議員又は長の被選挙権を有する」と規定するにとどまりますので、立法技術的には、「被選挙権を有しない者」についての規定である同法11条の2に第2項を加えるか、11条の3という規定を新設するかするのでしょう。

 しかし、そのような公職選挙法の改正がなされた場合、憲法違反とはならないのでしょうか。

 まず、被選挙権の憲法上の根拠については見解が分かれています。

 最判昭和43年12月4日刑集22巻13号1425頁によれば、

憲法一五条一項は、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と規定し、選挙権が基本的人権の一つであることを明らかにしているが、被選挙権または立候補の自由については、特に明記するところはない。/ところで、選挙は、本来、自由かつ公正に行なわれるべきものであり、このことは、民主主義の基盤をなす選挙制度の目的を達成するための基本的要請である。この見地から、選挙人は、自由に表明する意思によつてその代表者を選ぶことにより、自ら国家(または地方公共団体等)の意思の形成に参与するのであり、誰を選ぶかも、元来、選挙人の自由であるべきであるが、多数の選挙人の存する選挙においては、これを各選挙人の完全な自由に放任したのでは選挙の目的を達成することが困難であるため、公職選挙法は、自ら代表者になろうとする者が自由な意思で立候補し、選挙人は立候補者の中から自己の希望する代表者を選ぶという立候補制度を採用しているわけである。したがつて、もし、被選挙権を有し、選挙に立候補しようとする者がその立候補について不当に制約を受けるようなことがあれば、そのことは、ひいては、選挙人の自由な意思の表明を阻害することとなり、自由かつ公正な選挙の本旨に反することとならざるを得ない。この意味において、立候補の自由は、選挙権の自由な行使と表裏の関係にあり、自由かつ公正な選挙を維持するうえで、きわめて重要である。このような見地からいえば、憲法一五条一項には、被選挙権者、特にその立候補の自由について、直接には規定していないが、これもまた、同条同項の保障する重要な基本的人権の一つと解すべきである

とのことです。

 もちろん、被選挙権とて絶対的な権利ではありませんので、公共の福祉に適合するように、一定の内在的な制約を受けることはあります。とはいえ、被選挙権が他の国民の人権と衝突するという事態は通常ないこと、被選挙権が制約されると言うことはその者の利益が害されるだけではなく、その者への投票を望むその他国民の選挙権を実質的に制約すること、不適格者は国民が選挙権の行使により排除すれば足りること等に鑑みれば、被選挙権の制限は極めて例外的な場合についてのみ認められると言うべきでしょう。

 現行法上、被選挙権が制約されているのは以下の場合に限られています。

  •  一定の年齢に満たない場合(10条1項)
  •  禁錮以上の刑に処せられその執行を終わるまでの者(11条1項2号)
  •  禁錮以上の刑に処せられその執行を受けることがなくなるまでの者(刑の執行猶予中の者を除く。)(11条1項3号)
  •  公職にある間に犯した刑法197条 から第197条の4 までの罪又は公職にある者等のあっせん行為による利得等の処罰に関する法律1条 の罪により刑に処せられ、その執行を終わり若しくはその執行の免除を受けた者でその執行を終わり若しくはその執行の免除を受けた日から五年を経過しないもの又はその刑の執行猶予中の者(11条1項4号)
  •  法律で定めるところにより行われる選挙、投票及び国民審査に関する犯罪により禁錮以上の刑に処せられその刑の執行猶予中の者(11条1項5号)
  •  公職にある間に犯した刑法197条 から第197条の4 までの罪又は公職にある者等のあっせん行為による利得等の処罰に関する法律1条 の罪により刑に処せられ、その執行を終わり又はその執行の免除を受けた者でその執行を終わり又はその執行の免除を受けた日から5年を経過したが10年を経過していない者(11条の2)。

 では、重国籍者が被選挙権を有するということは、これらの者が被選挙権を有することとするのと同様の問題があるのでしょうか。この点に関しては、昭和59年8月2日の参議院法務委員会における飯田忠夫参議院議員(公明党)と枇杷田泰助・法務省民事局長との議論が参考になります。

 飯田議員は、戦前の旧国籍法の第16条が帰化人、その子、日本人の養子、入夫等が国務大臣とか大審院長、会計検査院長、帝国議会の議員となることを制限していたことを指摘した上でその趣旨を尋ねます。これに対し、批把田局長は「これは国の重要な意思決定あるいは国権の重要な作用を担当する者につきましては、かつて外国人であったという方については適当でないということを考えてこういう規定を設けただろうと思います。そのようなかつて外国人であった者については適当でないという考え方は、まだ十分に日本人になり切っていないのではないかという危惧がある、そういう者が国の意思を決める重要な地位に立つというふうなことは若干危険ではないかというような発想からこのような規定が設けられたというふうに古い書物などには書いておるところでございます。」と答えます。これを受けて、飯田議員は、「現在の我が国の国情から言いまして二重国籍者、これは前は外国人、まあ前は外国人じゃないとしても現在同時に外国人である、そういう人ですね。日本人であると同時に外国人であるという場合に、旧国籍法で心配されたようなことがないと言い得るかどうか、大変疑問が存在すると思いますが、この点についてはいかがお考えですか。」とたたみ掛けます。これに対し、批把田局長は、現行国籍法にそのような規定が敢えて置かれていない理由について「旧国籍法のようなそういう危惧の念というものをこれは持つ必要はないだろう、殊に非常に民主主義というものが強く打ち出されました新憲法下におきましては、そのようなもし他国籍もあわせ持つ者とか、あるいはかつて外国人であった方であっても、これは要するに国民の意思、そういうようなものによって重要な国権の作用を果たす者が選ばれていくということでありますから、そういうところで実質的にチェックできるであろうというふうなことも考慮されているところだと思いますが、現在ではそういうような危惧を法律上とる必要はないという立場にあるものと考えております。」と答えます。

 飯田議員はなおも「二重国籍ということは、御承知のように現在日本人であると同時に外国人だと、こういうことですね。日本人と外国人とが同居しているわけなんですが、人間の心というものはなかなか外からわからないんです。日本人と外国人が同居している場合に、その人の心は日本人なのか外国の方を向いているのかはっきりしないでしょう。そういうはっきりしない人が我が国の総理大臣になる、国会議員になるということでいいのかどうか、日本の政治を左右することになることが、それで日本の国家主権は守られるかという問題に関連するんですが、その点はいかがですか。」と追及しますが、批把田局長は「確かに国の重要な地位に立つということは、国の将来をも決めるようなそういう意思決定をする立場にあるわけでございますので、したがいまして、日本の国というものを考え、そして日本の国民全体が連帯意識を持つ、そういうような考え方の強い方が望ましいことは当然だろうと思います。それを二重国籍者であるからといって、当然にそういう考え方がないだろうというふうに一つのパターンを決めて法律上制限をするということまでは必要ないだろう、それは日本国籍を持っておられる方であっても、場合によっては今申し上げましたような点においては十分でないという方もおられるかもしれません。ですから、それは個々の方の問題であって、法律的に一つのパターンを決めて、そしてある資格を奪うというふうなことはいかがなものであろうかというのが現行法の考え方でございます。」と答えるのです。

 この後、飯田議員は、批把田局長では埒があかないと考えたのか、「二重国籍者に被選挙権を無制限で認めるということは政治上障害が起こらないと合理的に判断させる根拠がありますか、お尋ねします。これは今法務省ばかりお尋ねしましたので、自治省のお方と内閣法制局のお方に御答弁を願います。」と矛先を変えます。これに対し、浅野大三郎・自治省行政局選挙部選挙課長は、日本国籍のほか他の国の国籍を有する二重国籍者が国会議員となるということも現行法上可能ということになっていることを確認した上で、「お尋ねは、一体それで政治上障害が起こらないという合理的理由があるかどうかということでございますが、大変難しい問題でございます。ただ、私どもといたしましては、これまでのところそういう二重国籍者が選挙権を行使する、あるいは選挙によって選ばれる、公職についたことにょりまして何らかの障害が生じたという事例は承知しておらないところでございます。」と答えるのです。結局、この日、飯田議員は、政府委員の賛同を一切受けられずに終わります。

 実は、飯田議員は、昭和59年5月10日の参議院法務委員会でも、重国籍者の被選挙権についての議論を仕掛けています。

 飯田議員は、まず、外国人の基本的人権についての一般論から入ります。「十四条は必ずしも外国人と国民との間の平等をどんな場合でも保障するというのじゃなくて、国に対して余り直接の影響のない分野においては保障する、例えば民事問題などについては保障するが、いわゆる選挙権だとかいったような問題、あるいは兵役の義務でも構いませんが、こういうような問題については日本人と外国人との間にはやはり差別を設けるのだ、設けても憲法違反にはならないのだというふうな受け取り方をしてもよろしいでしょうか。」との確認を行い、関守・内閣法制局第二部長から「ただいま申し上げましたとおり、外国人につきましても法のもとの平等という考え方は押し及ぼされて考えられてしかるべきであるということが最高裁判所の判例などからも言われているわけでございますけれども、その場合に、すべて同じでなくてはいけないということではなくて、合理的な理由があれば個々に合理的な範囲における異なった取り扱いをするということも憲法上許されるということでございまして、御指摘の選挙権等につきましては、これは事柄の性質上、国民が国家の政治に参画するということでございますので、それを外国人に認めないということが憲法上許されないということにならないことは当然だろうと思います。」との答弁を引き出しています。

 その上で、飯田議員は、「もう一つ法制局にお尋ねをしたい点、同じく憲法十四条の保障の問題ですが、重国籍者にも無制限に保障が行われるかという問題です。今度の父母両系主義をとりますと重国籍者が出るのですが、この場合に、その重国籍者にも憲法十四条の保障は無制限に差別をしないという保障がなされるのか。重国籍者は日本籍を持っていますからね。お尋ねします。」とたたみ掛けます。これに対し、関部長は「重国籍者というのは、何と申しましょうか、日本の国民であると同時に外国籍を有するという特別の立場に立つ人でございますが、先ほど申し上げましたように、要はそういう異なる取り扱いをするということが合理的であるかどうかということになるかと思います。それによって決せられるべき問題であろうというふうに考えます。」と答えます。これを受けて、飯田議員は、「日本人と外国人との間がはっきり差別が分かれておる場合には、これは合理的だというふうに考える場合も出てくるでしょうね。例えば外国籍の者が日本の総理大臣になるとか国会議員になるなんていうたら困りますからね。これはもうはっきりできると思いますが、日本国籍と外国国籍と両方持つように今後なりますので、その場合に重国籍者に対して憲法十四条は無制限に適用になるか、つまり参政権も制限しないで与えるのか、こういうことなんです。また高級公務員、例えば各省の次官だとかあるいは局長だとか、そういう職につくことを認めるのかどうか。これは行政、政治の問題に密接に関連いたしますので、法制局の御意見がそのまま将来通ることになるから、これ気をつけて御答弁願います。よろしくお願いします。」とさらにたたみ掛けます。しかし、関部長は「重国籍者につきましては日本国民であると同時に外国の国籍を有するという特別の立場の方々でございます。こうした重国籍者の参政権あるいは公務員になる能力の制限の可否の問題につきましても、結局はそれが合理的なものと言えるかどうかという点にかかるわけでございまして、これを判断いたしますには、やはりその制限を必要とする事情あるいはその制限の内容、程度などなどを慎重に考慮いたしまして判断すべき問題である、こういうふうに考えております。」と言ってかわします。で、飯田議員は、「どうも抽象的なお言葉ではっきりしませんので、具体的にお尋ねいたしますが、二重国籍者、これは日本の国籍を与えますと外国の方で国籍の離脱を認めなければ二重国籍になりますからね。そういう人が憲法十四条を盾にとって自分も被選挙権があるのだと、こういうわけで衆議院議員の立候補を届け出たとしましょうね。この場合に、法制局の御意見として恐らくこれは選挙管理委員会の方からどうだと言って聞いてくると思いますが、そのときにどのような御返答になるのかお答えを願います。」と深追いを始めます。しかし、関部長は、「今のような問題につきましても、憲法十四条というのは、先ほども申し上げますように物事の性質に応じて合理的な異なった取り扱いをすることまでを禁じているわけではないということでございますので、今ここでちょっとその点についてどうというふうに申し上げにくいのでございますけれども、そういう制限をすることの可否についても、今申しましたようないろいろなそれを判断するべき要素というものを勘案いたしまして検討を加えるということになると思います。」と言ってなおもかわします。飯田議員はなおも追及の手を緩めません。「今私のお尋ねしたのは、選挙権とか被選挙権を与えるかどうかということなんですよ。それで、これはもう明確にお答えできると思いますが、つまり重国籍者、これは外国の主権に奉仕する義務を有する者でしょう。国籍を持っておる以上はその国の国民ですから、その国の国民は国の主権者です。例えばアメリカの国民はアメリカの主権者でしょう。同時に日本の主権者である。そういう場合に被選挙権を与えるということになりますと、アメリカの国に忠誠義務を尽くすことを要求されておる人が日本の国会議員になる、場合によっては自由民主党に属すれば総理大臣にもなる、こういうことになりましょう。そういう場合に具体的な条件を考えてなんていったようなことで済むかどうか。いかがですか。」と質問をします。関部長は、いよいよかわしきれないと判断したのか、「私どもは先ほど申しましたように憲法十四条というのは合理的な差別を禁止するものではないと考えておりますので、一概にそういう制限ができないものではないというふうには考えておりますけれども、今すぐ選挙権なり被選挙権の制限についてどうかということはなかなか難しい問題だろうということで、さらに検討させていただきたいというふうに考えるわけでございます。」と答弁します。深追いが失敗してしまいました。

 でも、飯田議員はめげません。なおも、「主権国家の立場から考えますと、二重国籍で外国の国籍を持っておる人が日本の憲法を盾にとって主権国家に反するような権利を要求するということは権利の乱用ではないか。権利の乱用であれば、憲法上認める必要はないのではないかと私は考えますが、法制局はどうお考えになりますか。」と追及します。しかし、さすがにこの立論には無理がありすぎるので、関部長に「重国籍者になるということは各国の国籍法の法制の違い等によりまして生じてくるわけでございまして、それによってそれぞれの国の法制のもとにおいて参政権が得られるということになります場合に、その権利があるということになったからといって主張できないということに必ずしもならないのじゃないか。それが権利の乱用になるというふうには私どもは考えておりません。」と答えられてしまいます。

 結局、飯田議員の努力は実を結ばず、重国籍者に被選挙権を認めるべきでないとの見解は政府委員たちの賛同を得られぬまま終わるのです。

 昨今の議論もまた、この飯田議員の議論の繰り返しに過ぎず、重国籍者から一律に被選挙権を奪うことの合理性を根拠づけるものは見当たらないようです。

 そもそも、選挙で選ばれる公務員(議員や自治体の首長など)は、様々な利害ファクターの代弁者としての性質を必然的に有しており、その選出母体や主たる支持者層の利害を全体の利害より優先させる可能性が不可避的にあるわけです。私たち有権者は、各立候補者が、特定の利害ファクターの代弁者であることを十分知りつつ、それを考慮要素に加えた上で、当該利害ファクターの利害を代弁しすぎる場合には対立候補者に投票するなどして、そのチェックを果たすことができるわけです。だからこそ、特定の利害ファクターの代弁者となり得ると言うだけの理由で被選挙権を奪われることはないわけです。そうだとすれば、重国籍者が、もう一つの国籍国という利害ファクターの利害を代弁する傾向にあると言うことが仮に言えるとしても、そのことは一律に被選挙権を奪う合理的な理由とはならないということになります。

 さらに言えば、日本を常居所地として選んでいる重国籍者が、もう一つの国籍国という利害ファクターの利害を代弁する傾向にあると言うことは、全く実証されていないわけです。普通に考えれば、重国籍者であろうと、現実に通常生活している国籍国と、単に籍を抜かずにいるだけの国籍国とで利害が対立する場合には、現実に通常生活している国籍国の利害を優先させた方が、そこで生活している自分にとっても通常有益なわけで、敢えて、通常生活していない国籍国の利害を優先させる必要はないわけです。

 これらの点に鑑みれば、重国籍であると言うことを理由として被選挙権を制限しようという日本維新の会の公職選挙法改正案は憲法違反のそしりを免れないだろうと思います。

19/09/2016

重国籍に関するあれこれ

 蓮舫議員を巡る国籍法関係のあれやこれやについて未だに間違った情報が横行していますので、平均的な高校生でもわかるように解説してみることにしましょう。

 まず、前提事実から見てみましょう。蓮舫議員は台湾人のお父様と日本人のお母様との間に嫡出子(法的に有効な婚姻をした夫婦の間の子)として生まれています。ここで「台湾人」というのが法的にはくせ者です。第二次世界大戦で敗戦し日本が領有権を放棄する前は、台湾も日本の一部だったので、台湾人は日本国民であったのです。しかし、敗戦後は、台湾は蒋介石率いる中華民国政府の支配下におかれます。このため、日本政府は、台湾も中国本土と一緒に「中華民国」を構成するものとして法的に扱うことになり、日本に在留する台湾人を「中華民国」の国民として扱うことになりました。しかし、その後、中華民国政府は中国本土の支配権を中華人民共和国に奪われてしまいます。それでもしばらくは、日本政府は、中華民国を、中国本土及び台湾の正統な政府として扱ってきたのですが、田中角栄首相による日中国交正常化以降、中華人民共和国を中国の正式な政府と承認することになったのです。これが1972年のことです。ではこのとき、中華民国政府が実効支配をしていた台湾についてはどう取り扱うことになったのでしょうか。日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明の第2項及び第3項を見ると次の通りとなっています。

二 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
三 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。

 これによれば、日本政府は、「台湾は中華人民共和国の領土の一部だ」という中華人民共和国政府の立場を尊重することになっています。この結果、日本政府は、中華民国を「国家」としては取り扱わないことになります。とはいえ、台湾島を実効支配しているのは中華民国政府であり、中華人民共和国からビザを受けて台湾等に上陸したのでは捕まってしまいますので、中華民国を国に準ずるものとして扱うことになります。

 では、日本に在留する中国人の扱いはどうなっていったのでしょうか。ちゃんと調べていないのでわかりませんが、日本政府との関係では、彼らの本国が中華民国から中華人民共和国に変わったので、彼らの国籍は中華民国籍から中華人民共和国籍へと当然に変わったと考えるのが自然です。ただし、中華民国の中でも台湾省に本籍がある人々については、中華人民共和国籍にして実務が回るのかという問題が生じます。そこで日本政府は苦肉の策として、彼らを「中国台湾省」の国民として扱うことにしたのです。

 蓮舫は1967年生まれですから、日中国交正常化前に生まれています。蓮舫のお父様は中華民国籍、お母様は日本国籍でした。当時の国籍法は、嫡出子については「父親が日本国籍を有していればそれだけで日本国籍が付与されるが、母親だけが日本人である場合には日本国籍は付与されない」という「父系主義」を採用していました。このため、蓮舫は、出生時には日本国籍は与えられておらず、「中華民国」の国籍のみが付与されました。その後、日中国交正常化により、日本政府が、中華人民共和国を中国の唯一の正統な政府と認め、「台湾は中華人民共和国の領土の一部だ」という中華人民共和国政府の立場を尊重することになり、蓮舫は、「中国台湾省」の国民という微妙な立場におかれることになります。

 ところで、この「父親が日本国籍を有していればそれだけで日本国籍が付与されるが、母親だけが日本人である場合には日本国籍は付与されない」という「父系主義」は、憲法第14条で禁止された「女性差別」にあたるのではないかという疑問がわき起こり、訴訟等も提起されるようになります。さらに、日本は、1985年に「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に批准したため、日本国内にある「女性に対し差別的な制度」を改める国際法上の義務を負うことになりました。そこで、日本政府は、嫡出子については、父親か母親の一方が日本国籍を有すれば当然に日本国籍が付与される「両系主義」を採用することとする国籍法改正案を国会に提出し、この改正案は1984年に可決され、1985年から効力を生ずることになりました。

 その際に、改正国籍法が発効する前に外国籍の父親、日本国籍の母親との間に生まれた子について、わずかな生まれ年の違いで日本国籍が与えられないとするのは不合理なので、救済措置を設定することにしました。これが、昭和59年改正の附則5条です。同条の第1項と第4号を見てみましょう。

昭和四十年一月一日からこの法律の施行の日(以下「施行日」という。)の前日までに生まれた者(日本国民であつた者を除く。)でその出生の時に母が日本国民であつたものは、母が現に日本国民であるとき、又はその死亡の時に日本国民であつたときは、施行日から三年以内に、法務省令で定めるところにより法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を取得することができる。
4  第一項の規定による届出をした者は、その届出の時に日本の国籍を取得する。

 蓮舫議員は、この規定に基づく届出を行うことにより、日本国籍を取得したのです。

 この方法で日本国籍を取得した場合に、それまで有していた国籍はどうなるのでしょうか。それは、その国籍国の法律によって定まるのであって、日本国政府の関与するところではありません。意図的に他国の国籍を取得したとして当然に国籍を喪失するという制度を採用している国もあれば、そうではない国もあります。そうではない国の国籍を有していた場合には、日本国籍を取得してもなお元の国籍を保有し続けることになります。このように二つ以上の国の国籍を同時に有している状態のことを「重国籍」といいます。日本を含む多くの国では、一定の場合に重国籍状態が生ずることをわかった上で国籍の得喪に関するルールを定めていますので、そのルールの範囲内で重国籍となっていること自体は違法でもなければまして「国籍法違反」ということにはなりません。

 では、蓮舫の場合はどうなのでしょう。在留台湾人である蓮舫さんについて、日本政府との関係において、中華人民共和国法が適用されるのか中華民国法が適用されるかによることになります。中華人民共和国法ですと、「外国に定住している中国公民で、自己の意思によって外国の国籍に入籍し又は取得した者は自動的に中国国籍を失う。」(9条)とありますので、附則5条の届出により日本国籍を取得すると同時に中国国籍を失います。中華民国の国籍法にはそのような内容の明文上の規定はありません。したがって、判例法で中華民国の国籍を当然に失う場合が認められていない限り、附則5条の届出により日本国籍を取得しても中国国籍はなお残るということになります。

 日本の国籍法は、重国籍者となった者に対し、重国籍となったのが二十歳に達する以前であるときは二十二歳に達するまでに、その時が二十歳に達した後であるときはその時から二年以内に、どちらか一つの国籍を選択することを義務づけています(14条1項)。もっとも、国籍の選択というのは、「父親の母国を取るか母親の母国を取るか」という決断を迫るものとなりますから、二十歳を少し過ぎたばかりの若者たちには重すぎる決断です。このため、国籍法は、重国籍者が上記選択を怠ったからとして、これを違法状態とすることを避け、法務大臣から国籍選択の催告がなされた後1ヶ月が経過するもなお国籍を選択しない場合には日本国籍を喪失させるというし制度を採用するに留めました。

 なお、現在のところは、重国籍であると思われる人に対して法務省から国籍の選択をしたかの確認を促すパンフレット等が送られるに留まり、法務大臣が国籍選択の催告を行った例はないとのことです。

 日本国籍を選択する方法としては、① 外国の国籍を離脱するという方法、② 戸籍法 の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言をするという方法、の2通りがあります(14条2項)。①と②は互いに独立していますので、②の方法により日本国籍を選択する場合には、先行して外国の国籍を離脱している必要はありません。蓮舫議員の発言を聞く限り、②の手続をとったようです(当時、蓮舫議員は高校生であり、お父様の指示に従って手続をしただけなので、何をしたのかの詳細は理解していないようですが。)。

 ②の方法で日本国籍を選択した場合に、もう一つの国籍はどうなるでしょうか。もう一つの国籍国が日本の国籍法と同様の規定を有している場合には、日本国籍選択と同時にその国の国籍は失われることとなります。しかし、もう一つの国籍国がそのような制度を採用していない場合には、なお重国籍状態が継続することとなります。日本の国籍法は、そのような重国籍状態が継続することを制度的に予定していますので、これは違法状態ではありません。中華民国の国籍法を見ると、重国籍者が外国国籍を選択した場合についての規定が見当たりません。特別法か判例に基づいて処理している可能性もあるので、何とも言いがたいところです。なお、重国籍者による外国国籍の選択と、外国への帰化とは別概念ですので、「帰化の際に台湾国籍を喪失する場合にはこういう手続が必要だった」という話は、「日本国籍を選択した後台湾国籍を離脱するための手続」がどのようなものであるかを知る手がかりにはなりません。長期滞在国に帰化する場合はそれまでの間自国の有効なパスポートを有しているのが通常ですが、重国籍者が一方の国籍国で生活する分には、他方の国籍国のパスポートを取得しないのが原則なので、「自国の有効なパスポートを有していない限り、他国の国籍選択に伴う国籍の離脱を認めない」とする制度を採用することは合理性を欠くからです。

 ところで、国籍法16条1項は、「選択の宣言をした日本国民は、外国の国籍の離脱に努めなければならない。」という規定を置いており、この規定を根拠として、外国国籍の離脱手続をせずに重国籍状態を継続することを違法だとする人がネット上ではあとを絶たないようです。しかし、国籍法に関する解説書や論文を読めば、この規定は、法的拘束力のない訓示規定であると解されていることがわかります。したがって、日本国籍を選択した後、外国の国籍を離脱せずに放置しておいても、違法ではありません。

 また、同条2項は次のような規定を置いています。

法務大臣は、選択の宣言をした日本国民で外国の国籍を失つていないものが自己の志望によりその外国の公務員の職(その国の国籍を有しない者であつても就任することができる職を除く。)に就任した場合において、その就任が日本の国籍を選択した趣旨に著しく反すると認めるときは、その者に対し日本の国籍の喪失の宣告をすることができる。

 この規定を反対解釈すれば、日本国籍を選択後外国の国籍を離脱せずに放置しているに過ぎず、上記のような外国公務員の職に就任していない場合には、法務大臣と手日本国籍の喪失宣言はできないということになります。

11/06/2016

ヘイトスピーチとセクハラの違い

 札幌の猪野亨弁護士が連日不思議な見解を述べています。

 たとえば、

 私たちがすべきことは、権力の力でヘイトスピーチを取り締まらせたり、実力で阻止することではありません。
 このようなヘイトスピーチを生み出す社会の歪みを考え、正していくことです。

とか

 ヘイトスピーチが社会の歪み、政治の右傾化と格差社会(もっとたくさんの社会的要因はありますけれど)の中で登場してきたものであることは常識レベルだと思っていたのですが、ネット界では、個人の資質だと全てを個人の資質の問題に矮小化してしまうツイートが流れていたことには驚きました。だから、そのヘイトデモを叩き潰せば問題が解決するなんて短絡的に考えているのでしょう。
とかです。

 私たち実務法曹は、基本的に、現実に存在する人権侵害等の諸問題が、仮に「社会の歪み」の中で登場してきたものであろうとも、とりあえず目の前にある諸問題を解決することにエネルギーを注いできました。私たちは、現に発生している諸問題を放置して、その社会悪を生み出す「社会の歪み」が正すことにうつつを抜かすようなことはしてきませんでした。例えば、セクハラやDVが、「男性優位社会」という「社会の歪み」により生み出されたものであるからと言って、「男性優位社会」を正すことに注力し、その間現に発生しているセクハラやDVを放置する、という方針を採用してきませんでした。

 それは当然のことであって、「社会の歪み」なんて一朝一夕に正せるものではありませんし、その間、その「社会の歪み」から生ずる人権侵害等を放置していれば、その被害者たちに耐えがたい苦痛を与えてしまうからです。

 もちろん、猪野弁護士にしても、「セクハラやDVが、『男性優位社会』という『社会の歪み』により生み出されたものであるから、その対策としては専ら『男性優位社会』という『社会の歪み』を正していくことによるべきであって、個々のセクハラやDVを働く人を問題視して、強制的にこれをやめさせようとするべきではない。まして、警察と協力してこれをやめさせようとするなんて許せない」とは言わないと思うのです。結局、そこには、在日朝鮮人たちに対するヘイトスピーチ、ヘイトデモとセクハラ・DV等との間に、無意識に、優先順位を付けているからなのではないかと思ってしまいます。

01/06/2016

○○差別

 ある公害によってある地域の住民にある種の疾病が生ずる確率が高まったとして、その地域の住民を差別することは正当なのでしょうか。正当ではありませんね。

 だとすれば、ある公害によってある地域の住民にある種の疾病が生ずる確率が高まる可能性があると主張することや、そのような確率が高まる可能性を否定しないこと、あるいはある地域の住民に生じたある種の疾病の原因が当該公害にあるのではないかと考えて公言することは、その地域の住民に対する差別を正当化するものではありませんし、その地域の住民に対する差別そのものでもありません。

 そして、ある公害によってある地域の住民にある種の疾病が生ずる確率が高まる可能性があると主張することやある地域の住民に生じたある種の疾病の原因が当該公害にあるのではないかとの仮説を提示すること自体を、当該地域の住民に対する差別にあたるとレッテル張りして封じ込めることは、当該地域の住民に当該疾病が生じたときに当該公害の発生に責任のある企業等による補償等を求めることを封じ込めることになるという意味で、むしろ、当該地域の住民に不利益を課すことになります。

 今後、解析技術の発展により、当該地域の住民に生じた当該疾病が当該公害に起因するものであると分かったときには、当該地域の住民を差別することあるいは当該地域の住民のうち当該疾病に罹患した者を差別することが正当化されるとでも言うのでしょうか。そうでないのであれば、「○○差別」とかレッテル張りをして、ある公害とある疾病との関係を疑うこと自体を封じ込めようとすることは、直ちにやめるべきでしょう。

23/05/2016

害虫の駆除

 池田信夫さんが、このようなツイートをしています。

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 伊藤和子弁護士が池田信夫さんに対して名誉毀損訴訟を提起したという文脈の中でこのツイートがなされていますので、ここでいう「伊藤某」が伊藤和子弁護士のことを指しているのは明らかです。すると、池田信夫さんは、伊藤和子弁護士を「害虫」と呼んだ上で、そのツイートの読者に向けて、「法廷内外で協力して、害虫を駆除しよう」と呼びかけたことになります。

 法廷内の活動としては、池田さんのツイートが、一般人の通常の読み方を基準とした場合にどのような事実摘示がなされたと受け取られるようなものなのか、池田さんのツイートによって摘示されたと受け取られる事実が真実であるか又は真実であると信ずる相当の証拠が池田さんの側にあったか否かを巡って立証活動が行われることになりますが、はっきり言って池田さんのツイートを読んだ第三者が何かできるとも思えません。

 すると、上記ツイートによる池田さんの呼びかけは、法廷外で協力して伊藤和子弁護士を「駆除」することに主眼が置かれたものと見るのが自然です。

 では、池田さんのツイートに賛同した一般の市民の方々が「協力して」、同じく一般市民である伊藤和子弁護士を「駆除」する方法としてどのようなものがあるでしょうか。正直な話、非合法なものならいくらでも思い浮かびますが、合法的なものとしてはいくら考えても思い浮かびません。

 「駆除」というのは一般に「害になるものを追い払い、また殺して取り除くこと。」を指しますが、自民党による改正前の日本国憲法の下では「池田信夫さんの呼びかけに応じた複数の市民」が伊藤弁護士をその生活拠点・活動拠点から恒常的に「追い払」うのは物理的に不可能でしょう。物理的な可能性だけから言えば、池田さんの呼びかけに応じた複数の市民が協力して伊藤弁護士を殺して取り除く方がよくよく容易です。そういう意味では、池田さんの上記ツイートに池田さんの支持者たちが応じて伊藤弁護士を「駆除」しようと思ったら、やることは一つと言うことになりそうです。

 池田信夫さんとは相互フォロー中の大学教授が複数人にて、その一部は法学系です。このような、明らかに不穏当なツイートがなされているのに、誰も池田さんを注意しないんですかね。T先生、N先生、そんなに池田さんにブロックされるのが怖いんですか?ほとんどの、まともな法学系クラスタは、既に池田さんにはブロックされていて、いくらたしなめるツイートをしても届かないんですよ。Ikedanob1605230044

14/05/2016

外国からの留学生にまつわる陰謀論

 @naaaaaagi66 さんが、以下のように述べています。

(ここ重要❗️)与野党はひたすら中韓外国人給付奨学金制度を隠蔽。庶民派に擬態した共産党や生活ヤマタロも完全黙秘だ。この給付奨学金制度(中韓向けには実質移民斡旋制度❗️)が日本国解体・弱体化に直結している。何より、主権者・納税者の教育を受ける権利が憲法違反状態で逆差別を受けている。

 まず、「中韓外国人給付奨学金制度」というものはありません。

 また、外国からの留学生に対し、国、地方公共団体、または一般のNPO法人等が給付型の奨学金を給付することとする場合はありますが、少なくとも国や地方公共団体若しくはそれらの外国団体が運営主体となっている場合には公開されています。

 また、平成24年5月現在で、台湾人を除く留学生の62%が中国人、12%が韓国人であるにもかかわらず、国費留学生数の12%が中国人、9.9%が韓国人です。すなわち、中国人、韓国人は、日本の国費留学生に選ばれにくいというのが現状です。

 また、「この給付奨学金制度」が「中韓向けには実質移民斡旋制度」というのも根拠のないデマです。これを見る限り、中国や韓国からの留学生のうち日本国内での就職を希望して滞在資格を変更するのは、全体の約1割程度です。しかもこれは国費留学生に限った数字ではありません。

 また、これが「日本国解体・弱体化に直結している。」とありますが、中国・韓国からの留学生がその後就職目的で滞在資格を切り替えるなんて所詮年間1万人を切る話です。この人の言う「日本国解体・弱体化」が何を指すのかわかりませんが、そんな少人数の人たちに「解体・弱体化」されてしまうほど柔なんでしょうか。

 また、「何より、主権者・納税者の教育を受ける権利が憲法違反状態で逆差別を受けている。」とのことですが、留学生に対して受入国が給付型の奨学金を提供するというのは諸外国においても普通に行われていることであり、これが憲法第何条に違反するのか、理解しがたいところです。

 なお、日本からの留学生に対し韓国政府が給付型奨学金を提供するもあるし、中国政府が給付型奨学金を提供するもあります。

06/05/2016

空想に基づく言論

 私たちは、どこまで池田信夫さんの「空想に基づく言論」に配慮する必要があるのでしょうか。

 池田さんは、「人権派弁護士って何?」というエントリーの中で次のように述べています。

去年、ブッキーニという「国連特別報告者」が「女子学生の30%が援助交際をしている」と記者会見で発表して大騒ぎになった問題の仕掛け人が、伊藤和子という弁護士です。
昔の福島瑞穂ほどスケールは大きくないが、やっていることは同じです。さすがに「30%が売春」という報告には外務省も怒り、国連広報センターに問い合わせたところ「13%の間違いだ」というが、その根拠は不明です。伊藤和子を中心とする「人権活動家」のだれかが吹き込んだ嘘としか考えられない。

 ここでの摘示事実は、

  1. ブッキーニという「国連特別報告者」が「女子学生の30%が援助交際をしている」と記者会見で発表して大騒ぎになった問題は伊藤和子という弁護士が仕掛けたものである。
  2. ブッキーニに女子学生の13%が売春という嘘を吹き込んだのは、伊藤和子を中心とする『人権活動家』のだれかである

 しかし、どうも確たる根拠はないようです。それどころか、この二つは相互に矛盾します。ブッキーニに女子学生の13%が売春という嘘を吹き込んだのが「伊藤和子を中心とする『人権活動家』のだれか」であるという程度の情報しか有していないのであれば、「問題の仕掛け人が、伊藤和子という弁護士です」などという個人を特定した断定などできるはずがないからです。

 さらに池田さんは、「空想で他者を罵る」という芸を続けます。

こういう人々は、今は「人権」を売り物にしているが、昔は「左翼」を自称していました。その元祖は、1960年代の学園紛争で逮捕されたり退学になったりして、まともな人生を歩めなくなった人々です。当時は大学中退で受けられるのは司法試験ぐらいだったので、こうしたドロップアウトの人が大量に司法試験を受け、弁護士になりました。
彼らが今でも各地の弁護士会のボスになり、総本山の日弁連を支配しているため、その会長声明も「安保法制は、集団的自衛権の行使を容認するなど恒久平和主義に反するとともに、立憲主義及び国民主権に反するものであり、当連合会は、その廃止・改正を求めている」といった左翼のアジビラみたいなものばかりです。

とした上で、中本・日弁連会長の声明文にリンクを貼っています。

 これを普通の人が読むと、現会長である中本弁護士も、「1960年代の学園紛争で逮捕されたり退学になったりして」「司法試験を受け、弁護士にな」った人のように誤解されてしまいかねません。しかし、こちらをみれば分かるとおり、中本弁護士は、京大工学部→京大工学研究科修了という経歴であって、池田さんの空想はかすってすらいないようです。

 さらに池田さんの空想は続きます。

こういう団塊の世代の落ちこぼれには「大学をちゃんと卒業していれば役所や大企業に入れたのに…」というルサンチマン(うらみ)があるので、国や企業を悪者にするのが大好きです。その代表が福島瑞穂で、多くの「弱者」を集めて多額の弁護士報酬をとるビジネスモデルは大したものです。おかげで、彼女の金融資産は2億5000万円もあります。

 これを素直に読むと、福島瑞穂先生もまた、「1960年代の学園紛争で逮捕されたり退学になったりし」た「団塊の世代の落ちこぼれ」の一員であるかのように読めます。しかし、福島瑞穂先生は1955年生まれですから、「1960年代の学園紛争で逮捕されたり退学になったり」はしていなかったでしょう。実際、福島先生は、東京大学法学部をちゃんと卒業しています。

 また、これを素直に読むと、福島瑞穂先生が、弁護士時代に、「多くの『弱者』を集めて多額の弁護士報酬をとるビジネスモデル」を採用していたと読めますが、それがどのような「ビジネスモデル」なのかは明らかでなく、また、そのような「ビジネスモデル」を福島先生が採用していたことを裏付ける資料は提示されていません。

 これをみると、福島先生は弁護士時代に「医者の離婚訴訟に関与する事も多」かったそうなので、1987年の弁護士登録から1998年の参議院議員就任までの間に2億円程度の蓄財をなすのに特別に「ビジネスモデル」は不要だったのではないかと思うのです(だって、この間、バブル経済のまっただ中だったのですよ。そして、離婚訴訟の成功報酬は、慰謝料と財産分与の額に応じて上がっていくのですよ。)。

 池田さんの空想はさらに続きます。

こういう左翼系の弁護士が派手な事件を引き受けるのは売名のためで、総会屋と組んだ河合弘之弁護士や、朝鮮総連と組んで「強制連行」の嘘を売り込んだ高木健一弁護士のように、他に大きな資金源があることが多い。最近では、サラ金の「過払い訴訟」や福島原発事故の東電に対する訴訟が大きな資金源です。

 これを素直に読むと、高木健一弁護士が強制連行問題を引き受けた際の資金源が朝鮮総連であったように読めますが、高木弁護士が強制連行問題を取り上げるにあたって朝鮮総連から資金提供を受けていたことを示す資料は何ら示されておりません。

 また、上記文章からは、サラ金の「過払い訴訟」が派手な事件を引き受ける左翼系弁護士の資金源になっているかのように読めます。しかし、宇都宮弁護士などの「左翼系」弁護士がクレサラ対策に奔走していた頃は、むしろクレサラ対策は効率の良い業務ではなかったのであり、その後の新判例等でクレサラ相手の過払い金請求訴訟が簡単にできるようになって以降は、むしろノンポリの専業事務所(司法書士を含む。)が需要をさらっていったのであり、サラ金の「過払い訴訟」が派手な事件を引き受ける左翼系事件の資金源となっていたとは信じがたいところです。福島原発事故の東電に対する訴訟にしても、< a href = "http://ghb-law.net/?page_id=123">これを見る限り、「資金源」といわれるほど儲かる気がしません。

 さらに、池田さんは続けます。

要するに、彼らのいう「人権」とは自分の金づるになる依頼人の権利であり、それをダシにして国から金を巻き上げる口実にすぎないのです。その証拠に、「伊藤弁護士の活動はAV女優への差別だ」という当のAV女優との話し合いを、伊藤は拒否しました。

 私たち弁護士は、「要するに」という言葉が使われていると、その語の前に書かれているものから導かれる結論がその語のあとに記載されていることを期待してしまいますが、慶應義塾で博士号をお取りになった方は「要するに」の用法も私たちとは異なるようです。「派手な事件を引き受ける左翼系弁護士」の資金源が別にあるというのであれば、彼らがその人権を守れと主張する依頼人を「金づる」にする必要もなければ、それを出しにして国から金を巻き上げる必要もないように思われます。

 また、「伊藤弁護士の活動はAV女優への差別だ」という当のAV女優との話し合いを、伊藤は拒否し」たとして、そのことが、「彼らのいう「人権」とは自分の金づるになる依頼人の権利であり、それをダシにして国から金を巻き上げる口実にすぎない」ことの証拠になるのかがよく分かりません。池田さんが様々な人をブロックして話し合いを拒否していることは、いかなることの証拠になるのでしょうか。

 そもそもの話をすると、伊藤弁護士のAV業界関係の活動としては、この件が思い浮かびますが、所属プロダクションからのAV出演要請を断った女性に対する2460万円の違約金請求訴訟で女性の側に立つことがどうして「AV女優への差別」と言うことになるのか不明です。

 また、AV女優との話し合いを伊藤弁護士が拒否したという件についても、ここを見る限り、「4日の午後にこんなイベントがあります。」としてイベントへの参加を誘ったのは今一生さん(@conisshow)というライターさんであってAV女優の方ではありません。そもそも今一生とこのイベントの主催者との関係も分かりません。さらに誘った日時が「2016-05-03 23:14:27」で「4日の午後」のイベントに誘われたって、普通はいかんともしがたいところです。どうしても、伊藤弁護士をイベントに呼びたければ、場所と日時について、まず伊藤弁護士の都合を聞くのが常識というものですよね。

 伊藤弁護士が池田さんに対し名誉毀損訴訟を提起しただけでやれスラップだと騒ぎ立てた方々が少なからずおられるようですが、弁護士たちは、池田さんの空想に基づく批判をあとどれくらい甘受し続けなければならないのでしょうか。

30/04/2016

妥協可能な改憲論

 今年も憲法記念日が近づいてきました。現行の日本国憲法はミニマミズムに徹した、極めてスタイリッシュな現代的な憲法で、基本的に気に入っています。とはいえ、安倍首相を初めとして、とにかく改変したいという人たちも多いようなので、こういう改正案なら、というのを具体的に提示していこうと思います。

                                               
現行法改正案
第十条  日本国民たる要件は、法律でこれを定める。第十条  日本国民たる要件は、法律でこれを定める。ただし、父若しくは母が日本国民である子、又は母が適法な在留資格に基づき日本に滞在中に出生した子は、当然に日本国民となる権利を取得する。日本国民たる資格は、本人の意思によらずして奪われない。

 主権者たる国民を構成する「日本国民」の資格については、完全に立法府の裁量に委ねるよりは、中核部分を憲法で定めておき、帰化による国籍の取得等の例外についてのみ立法府の裁量に委ねる方が良いのではないかと言うことです。

                                               
現行法改正案
第十六条  何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。第十六条  何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
○2  財産権を新たに設定し若しくは廃止し、その内容を変更し又は罰則を廃止し若しくはその内容を変更することを求める請願が、普通選挙権を有する全国民の1割を超えるものによりなされたときは、国会は一年以内に請願の内容を審議しなければならない。

 国政選挙以外に、有権者の声が立法に反映される仕組みはあった方がよいです。

                                               
現行法改正案
第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
○2  何人も、日本国若しくは国歌、国旗、又は天皇若しくは摂政、国務大臣若しくは国会議員、裁判官その他の公務員に対し特定の感情を有すること並びにそのような感情を有することの表明を要求されない。

 主権在民の日本に、個人崇拝や愛国心の押しつけはふさわしくありません。現行憲法でもそのような押しつけに抵抗する権利は保障されていると思いますが、改めて明文化しておくと言うことで。

                                               
現行法改正案
第二十四条  婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。第二十四条  婚姻は、両当事者の合意のみに基いて成立し、両当事者が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 同性婚を法律婚に取り込むことが憲法に反しないことを明確化すると言うことです。

                                               
現行法改正案
第三十七条  すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
○2  刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
○3  刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。
第三十七条  すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
○2  刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
○3  刑事被告人及び被疑者は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人及び被疑者が自らこれを依頼することができないときは、国で通常の報酬を負担してこれを附する。

 弁護人を付する権利を被疑者段階にも拡張するとともに、国選弁護人の報酬基準が不当に低廉なものとならないようにするものです。

                                                                    
現行法改正案
第四十一条  国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
第四十一条  国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
○2  前項に拘わらず、財産権を新たに設定し若しくは廃止し、その内容を変更し又は罰則を新たに設定し若しくは廃止し、その内容を変更する法律案については、各議院の総議員の十分の一以上の賛成があるときは、普通選挙権を有する国民による国民投票にこれを付する。
新設
第五十九条の二  国民投票に付された法律案は、有効投票数の過半数の賛成票を得て可決したときに、法律となる。国会は、可決の日から一年を超えない範囲でこれに施行日を設定する。

 国政選挙において主たる争点とならなかった事項について不当に国民の自由が制限される法律が制定されないように、少数会派に、そのような法案の議決を国民投票に委ねるように求める権限を付与したものです。

19/04/2016

原子力発電所の自主的な稼働停止の可否

 東京大学の玉井克哉教授が次のようにツイートしています。

(法律の学生向け)原子力発電所の運転を電気事業者が「自発的に」停止することなどできないということについて。電気事業法6条2項4号イ、同9条1項、同3項、同法施行規則10条1項ロ。こういう条文を10分以内に探し当てることができれば、セミプロ級といえる。

 本当でしょうか。

 まず、玉井教授が示した条文を見てみましょう。

 電気事業法6条は以下のような規定です。

(許可証)
第六条  経済産業大臣は、第三条第一項の許可をしたときは、許可証を交付する。
2  許可証には、次の事項を記載しなければならない。
一  許可の年月日及び許可の番号
二  氏名又は名称及び住所
三  供給区域、供給の相手方たる一般電気事業者又は供給地点
四  電気事業の用に供する電気工作物に関する次の事項
イ 発電用のものにあつては、その設置の場所、原動力の種類、周波数及び出力
ロ 変電用のものにあつては、その設置の場所、周波数及び出力
ハ 送電用のものにあつては、その設置の場所、電気方式、設置の方法、回線数、周波数及び電圧
ニ 配電用のものにあつては、その電気方式、周波数及び電圧

 ここでいう「第三条第一項の許可」とは、電気事業を営むことについての許可です。

 次に、同法第9条第1項ないし第3項は以下のような規定です。

(電気工作物等の変更)
第九条  電気事業者は、第六条第二項第四号の事項について経済産業省令で定める重要な変更をしようとするときは、経済産業大臣に届け出なければならない。
2  電気事業者は、第六条第二項第二号の事項に変更があつたとき、又は同項第四号の事項の変更(前項に規定するものを除く。)をしたときは、遅滞なく、その旨を経済産業大臣に届け出なければならない。
3  第一項の規定による届出をした電気事業者は、その届出が受理された日から二十日を経過した後でなければ、その届出に係る変更をしてはならない。

 最後に、電気事業法施行規則第10条第1項第1号の条文を見てみましょう。

(電気工作物の重要な変更)
第十条  法第九条第一項 の経済産業省令で定める重要な変更は、次のとおりとする。
一  発電用のものに係る変更であって、次のいずれかに該当するもの
イ 設置の場所、原動力の種類又は周波数の変更
ロ 出力の変更であって、その変更する出力が十五万キロワット以上又はその者の電気事業の用に供する発電所の出力の合計の二十パーセント以上のもの

 このように、玉井先生が提示した条文を見ても、電気事業者が「自発的に」原子力発電所の運転を停止することを禁止していることを示すものはないように見えます。

 電気事業法に基づく許可証に「出力」として記載された発電量を常に発電する義務を電気事業者は有しており、発電量を減少させるためには経済産業大臣に届出をすることが必要になると考えた上で、発電量減少の最たるものである「自主的な運転停止」を事前届出なしに行うことは許されないのだと誤解する人はいるのかも知れません。法律の素人さんが頑張って条文を読んだというのであればやむを得ないかと思います。

 しかし、電気事業法が電気事業者に「出力」(変更)の届出義務を負わせた趣旨は、「需要に対し電気の供給能力が不足しないことを国が把握する」ことにあり、届出の対象となる「出力」とは、「年間を通じて発生可能な最大電気出力(定格電気出力)」のことをいうとされています(ここ参照)。したがって、電気事業者は、電力需要とは無関係に常に「出力」として届け出た発電量を発電する義務を負っておらず、需要に合わせて発電量を減らすことができます。したがって、特定の発電設備による発電を「自主的に」停止させることもできるのです。

 東日本大震災以降原子力発電所を再稼働できない状態が続く中真夏の電力消費量ピーク時ですら電力需要に応じた発電を行うことができた九州電力において、比較的電力需要の小さいこの時期に、原子力発電所の稼働を継続しなければ電力需要を満たすことができないということは通常ないと思われますので、九州電力におかれましては、東京大学教授の驚きの見解に惑わされず、「川内原発の自主的な稼働停止」も視野に入れて、ベストな選択をしていただきたいと思います。

 なお、学部学生には、「自分にとって有利な結論をもたらすことができそうな条文を見つけたときに、自分にとって有利な結論を導くキーとなりそうな用語の意味を、既存文献などにより再確認する」ということを徹底してもらえたらと思います。常識的に考えれば、電力需要は日々変動するので、各発電設備について届出してある「出力」どおりに発電し続ける義務なんてものが電気事業者に負わされているはずがないと疑ってかかるのが「リーガルマインド」というやつであって、あとは、既存文献を調べて確認するという作業をするだけですが。

04/04/2016

OS依存しない電子内容証明郵便サービスの可能性

 広く公衆に利用されることを想定しているウェブサービスは、なるべく特定のOSに依存しないように設計しなければなりません。そのサービスを利用するためにハードウェアを買い足すことは、通常期待できないからです。この店、一昔前のWindowsにしか対応していない電子内容証明郵便は、最悪です。

 内証証明郵便は、機能としては、特定の内容が記載された文書が特定の日に特定の相手に届いたことを公証するためのサービスです。相手方に送った文章と全く同じ内容の書面が送信者の手元に保管され、かつ、送達業務を行う事業者もまたこれを保管する。そして、送信者側が保管する文書と受信者側が保管している文書と事業者側が保管している文書とが同一内容であることを事業者がそれぞれの文書上で認証する。そして、受信者側に文書を届けた際に、受領者側に日付の記載された受領証明を発行させる。それだけの要素が満たされれば、内容証明としての機能を果たせるわけです。

 この程度の機能があれば足りるウェブシステムを組むときに、特定のワープロソフトの特定のバージョンでのみ使用できるマクロ等を用いようと考えたとすれば、センスがなさ過ぎではないかという気がします。

 送達する文章の文面については、むしろ「画像」として送信者が特定すれば足りるように思います。だとすれば、PDFやJPEGなどの汎用的な形式の画像ファイルを事業者にフォーム上で送るようなシステムにしてしまえば、事業者側のサーバで面倒な画像処理をする必要がないといえます。そして、申請フォームにおいて、送信者側を特定する情報と受信者側を特定する情報を入力させるようにすれば、電子内容証明を事業者が発行するのに必要な情報は得られると思いますし、それだけの処理に留めれば、特定のOSのもとで稼働する特定のアプリに依存するシステムにする必要はないかと思います。

 日本郵便(株)において、OS依存しない電子内容証明郵便サービスを構築する気がないのであれば、公証力のある内容証明郵便サービスを日本郵便(株)以外の事業者にも開放するようにしていただきたいところです。

12/03/2016

5年目の3.11って日に

 法律業務の提供を弁護士に独占させること自体は、「信用財」という側面があること並びにかかるサービスの提供を円滑に行えるようにいくつかの特権(例えば、立会抜きに被疑者と接見できるとか。)が認められていることを考えると、まあ憲法上正当化されるのだろうとは思うのです。そして、信用財である以上一定以上の質が公的に担保されるべきこと、並びに判事・検事が弁護士を一段下の存在と見下すと刑事裁判が適正に行われなくなるリスクが高まることから、判事・検事・弁護士を統一的に研修させた上で、相互に人事交流できるようにすることには一定の合理性があるように思うのです。そして、どれだけの人数にこの統一的な研修を行わせるかについては、研修の実施に必要な物的並びに人的インフラをどれだけ整備できるかにかかっているわけで、政府がそのために費やせるコストに依存することにならざるを得ないことになります。

 もちろん、そのコストについては、①研修期間中の生活費等を含めて政府が支出する、②研修期間中の生活費は受講者が負担するが、インフラ運営費は政府が支出する、③研修期間中の生活費はもちろん、インフラの運営費用も受講者が負担するという3パターンが存在するわけです。そして、①→②→③と進むほど、判事・検事・弁護士になるために個人が負担すべきコストが上昇し、判事・検事・弁護士になれる人の出身階層が限定されることになります。そして、どのような出身階層にも優れた人材は散在しているという前提に立った場合、出身階層を限定すればするほど、優れた人材が参入する蓋然性を低下させていくことになります。これに対し、上位階層の出身者は概ね優秀であり、下位階層出身者は概ね無能であるという前提に立った場合、上位階層に限定して人材を養成するシステムを採用しても、参入してくる人材の質は落ちないということになります。

 日弁連が5年目の3月11日にわざわざ臨時総会を開いて討議したのは、直接的には、今後の司法試験合格者の数をどうするのかということと、法科大学院を修了することなく予備試験に合格して司法試験を受けるというルートをどこまで制限するかということです。しかし、その根底には、上記①ないし③のどれを良しとするのか、そして、出身階層を限定することによって新規参入者の質は落ちていくのかということに関する認識の違いがあるということが言えます。

 私は、原則①モデルで養成された口です。しいていえば、基本的な法律知識と法解釈手法の習得という比較的コストのかからない部分については、大学の法学部で学びましたので、その期間中の生活費と、インフラ運営費の一部を個人負担することにはなりましたが、証拠資料の収集及び評価、法廷などでの手続の実際の運用、法曹三者の実際の思考法等は、専ら司法研修所で2年間、政府の費用負担で習得させていただくことができました。このシステムだと、比較的個人負担分が低廉なので、広範囲の階層から出てきた人々が参入することが可能でした。

 その後、法曹養成モデルは大きな変革を迎えました。法科大学院において、基本的な法律知識と法解釈手法だけでなく、従前司法研修所で習得してきたことの半分を習得したものだけに司法試験受験資格が与えられ、司法試験に合格した者だけが、司法研修所で、法廷などでの手続の実際の運用、法曹三者の実際の思考法等を習得する機会を与えられることになったわけです。法科大学院においては、在学中の生活費及びインフラ運営費用は基本的に受講者が負担することになりますから、この時点で①と③の混合体となったのです。その後、司法修習生の給費制が廃止され、司法研修所での研修期間中の生活費も受講者が個人負担することになりました。したがって、現在は②と③の混合体ということになります。

 もちろん、この現在のモデルは、判事・検事・弁護士になるためのコストを飛躍的に引き上げましたから、新規にこれらになる人々の出身階層を大いに狭めることになりました。したがって、どのような出身階層にも優れた人材は散在しているという前提に立った場合、人材の質は確率論的に低下することとなったわけです。とりわけ、新規法曹を需要を無視して増やしすぎた結果、とりわけ弁護士の所得水準が下がるとともに、勤務弁護士として給料をもらいながら一定期間OJTを受けることができなくなるリスクも高まったことから、奨学金を含む借財で上記コストを賄ってまで判事・検事・弁護士になることが割が合わなくなり、法科大学院に入学しようという人々が減少していきました。法科大学院の実入学者数は、平成19年度は5,713 人いたのに、平成27年には2,201 人にまで減少しています。

 しかも、私が司法試験に受かったときは,その年の受験者のうち上位600人を司法試験に合格させて司法研修所で研修を受けさせれば良かったのに対し、上位1800人を司法試験に合格させて司法研修所で研修を受けさせなければならないので、下位合格者の質は必然的に、確率論的に低下することとなります。

 もちろん、これに対しては、法科大学院においては、優秀な講師陣による高度な法学教育が行われているので、全体のレベルが引き上げられており、上記参入者の出身階層の限定化並びにピックアップしなければならない人数の激増化の影響はないとする見解もあります。この見解にとって都合の悪い存在が、法科大学院を修了せずに、「予備試験」に合格してさらに司法試験に合格してしまう人たちの存在です。法科大学院における一流の講師陣による高度な法学教育を受けずまたはその途中で予備試験に合格して司法試験を受ける人々の方が、法科大学院における一流の講師陣による高度な法学教育を受け終わった人たちより、司法試験合格率が圧倒的に高いというデータは、法科大学院のレベル引き上げ能力に疑問を生じさせることになったわけです。

 3月11日の臨時総会で、日弁連執行部が提出した第1案及び一部有志が提出した第3案とも、予備試験ルートをできる限り制限し、法科大学院を修了した者たちの妨げにならないようにすることを求めるものでした。両者の違いは、第1案が司法試験合格者自体の縮小を求めるものであったのに対し、第3案は1800人という枠をできるだけ維持することを求めるものであったという違いです(正確には「年間1500名以上輩出されるようにし,かつ,現在の年間1800名の水準を十分考慮し,急激な減少をさせない」という表現ですが。)。第3案は、司法試験の合格率が上がれば、法科大学院への入学者は増えるはずという検証されていない予測を前提とするようです。ただし、この予測が外れた場合、法科大学院を修了するための費用さえ負担できればほぼ誰でも司法試験に合格できることになりますので、能力の劣る人材を排除する機能が司法試験から失われることになります。この場合、信用財提供の基礎としての法曹資格の意義自体が問われることになりかねません。

 翻って考えてみると、法科大学院を修了するか又は予備試験に合格することを司法試験の受験資格に加える正当性はどこにあるのでしょうか。法科大学院で習得するもののうち、司法研修所における研修を受けて新規法曹になるために欠かすことができないものがあるということであれば、それも司法試験科目に取り込めば良い話のように思われます。

28/02/2016

忘れられる権利と検索結果からの削除を求める権利

 どうも日本では、「忘れられる権利」というと、自分に関する事実摘示を含むWEBページの検索結果からの削除またはそのWEBページに関するスニペット表示の削除を求める権利一般を指すものと理解されている気がします。しかし、本来、「忘れられる権利」と「WEB検索結果からの削除を求める権利」とは別物だと思います。

 Xの社会的評価を低下させるような事実αがYによって公然摘示された場合であっても、事実αが公共の利害に関する事実であって、Yが専ら公益目的でαの摘示を行ったときは、Yが事実αが真実であることを証明すれば、損害賠償義務を負いませんし、削除義務も負いません。しかし、例えば事実αが犯罪に関する情報である場合、Xが逮捕されたり起訴されたり有罪判決を受けたりした直後については公共の利害に大いに関するものであったとしても、時に経過とともに、公共の利害との関係性は次第に薄れていきます。すなわち、以前はYによる事実αの摘示行為は適法だったとしても、時の経過とともにこれは違法となり得るということになります。

 Xの私的領域に関する事実βがYにより流布された場合であっても、Xの社会的地位との関係で、その程度のプライバシー権の侵害は受忍すべき範囲に留まるとされることがあります。しかし、時が経過し、Xの社会的地位が変化した場合(例えば、当時は公職に就いていたが、現在は既に退いていたなど)には、もはや現時点でのXの社会的地位との関係では、事実βをなお流布されることは受忍すべき範囲を超えるということになり得ます。この場合、以前は事実βの流布行為は適法だったのが、時の経過とともに違法となり得るということになります。

 また、X自身が事実βを自ら公表していた場合であっても、Xの社会的地位の変化とともに、事実βを公衆に知られたくない情報とXが考えるにいたる場合も有り得ます(例えば、若いころに撮ったセクシーなグラビアを、モデル引退後、公衆の目に晒されたくないと考えるような場合です。)。現在のXの社会的地位との関係では事実βを公衆に知られたくないと考えるのは相当だと通常人が考えるようなものであった場合、これをなお流布する行為は違法となり得るということになります。

 このように、自らに関する情報の流布を以前は止めることが許されなかったが、時の経過とともに、これが許されるようになる。これこそが、本来的意味における「忘れられる権利」です。

 ウェブ検索からの自己関連情報の削除を求める場合として、以前はそのネット上での公開を甘受しなければならなかった情報がいつまでもウェブ検索を通じて公衆の目に晒されるのを何とかしたいという場合も含まれることは事実です。しかし、それだけではありません。そもそもそのような情報を流布することがそもそも違法である場合も含みます。

 そのような情報については、ウェブ検索サービス提供者に検索結果からの排除を求めるのではなく、投稿者又は掲示板等の運営者を相手に当該WEBページ自体からの削除を求めれば良いではないかと思うかもしれません。しかし、現行法上、匿名の相手に対して情報の削除を求める法的な手続は用意されていません。そして、多くのCGMサービスにおいては、情報の発信者は匿名ですので、情報の削除を求める術がありません。のみならず、Whois Protect Service等の隆盛、偽名・偽住所でのドメイン登録を認めるドメイン管理機関の横行などにより、独自ドメインを取得すれば、匿名のまま電子掲示板等を運用することが容易になった結果、掲示板の管理者に対し権利侵害情報の削除を請求することが困難になっていきました。このため、権利侵害情報をWEBページ自体から削除させることが困難となっています。このため、次善の策として、主たるウェブ検索サービスからは、当該WEBページが検出されないようにして、名誉毀損やプライバシー権侵害による損害を極小化しようとするのです。

 こちらについては、東京地方裁判所の一部の裁判官が、検索サービス提供業者に削除義務を認めるためのハードルを引き上げてしまったので、被害者はかなり苦しい立場に立たされています。

09/02/2016

外国法人に対する訴え提起等に際しての代表者にかかる証明

 法人等に対して訴訟を提起する場合、訴状において、被告たる法人だけではなく、その法定代理人をも特定して記載するものとされています(民事訴訟法37条により準用される民事訴訟法133条2項)。法人等を債務者として仮処分や仮差押をする場合も同様です(民事保全法7条)。

 訴状等において当事者の代表者として記載されている者が当該当事者の代表者たる□を有していることの証明(資格証明)は、書面によってしなければならないとされています(民事訴訟法37条により準用される民事訴訟規則15条)。当事者が国内法人である場合、法務局に行って登記事項証明書の交付を受けて、その原本を「資格証明書」として裁判所に提出することにより資格証明を行うのが通常です。

 しかし、日本国内に営業所等のない法人を被告とする訴訟を日本の裁判所に提起したり、日本国内に営業所等のない法人を債務者とする仮処分の申立てを日本の裁判所に行おうという場合には、この点がネックになることがしばしばあります。ある法人の現在の代表者が誰であるのかを公証する仕組みが整備されていない国や地域が少なくないからです。とりわけ問題なのは、日本との経済的な関係が深く、また、日本国内に居住する日本人をも相手にするサービスを提供しているインターネット企業の多くが本店を置いている米国において、法人の代表者を公証する仕組みが十分に整備されていない点です。

 本来であれば、TPP交渉の際にこのような非関税障壁の是正を参加国に義務づけるべきだったと思うのですが、法曹資格もなく、当然外国企業との裁判実務経験も乏しい甘利元担当大臣には荷が重かったのでしょう。

 とりあえずの弥縫策としては、訴え提起や、双方審尋を行う仮処分の申立ての時点では、当該法人等自身のウェブサイト上に代表者に関する記載があるような場合や、米国でいえばその法人が本店等を置いている州の州務長官のウェブサイト上に代表者に関する記載があるような場合には、それらをプリントアウトしたものによる資格証明でも足りるという運用に変えていく必要があるのではないかと思います(民事訴訟規則上は、書面によって資格証明をすれば足り、公的機関が作成した書面による資格証明までは必要とされていないので、裁判所の運用を変更すればどうにかなります。)。

 さらに、立法論的には、日本において取引を継続してする外国会社の日本における業務に関する訴えを日本の裁判所に提起する場合(そのような外国会社の日本における業務に関して仮処分の申立てを日本の裁判所に申し立てる場合も同様)については、当該外国会社が日本国内において外国会社としての登記をしていない場合には、代表者を特定することなしに訴えを提起しまたは仮処分の申立てを行うことを例外的に許容するべきなのではないかと思います。本来日本の裁判所でその責任を問うことができる外国法人について、代表者を公証できないが故に、訴訟で責任を問うことを断念しなければならないという事態は、「法の支配の貫徹」という観点から見たときに、許すべきではないからです。

05/02/2016

対案なら出せるけど

 復古的な改憲を望む人たちは望まない人たちに「対案を出せ」と軽々しく言うのですが、対案を出したら真面目に検討する気があるのでしょうか。

 他の先進諸国の憲法に備わっていて日本国憲法に備わっていないものというのは確かにいくつかあります。

 例えば、日本国憲法は、直接民主主義的な手法を徹底的に排除しています。しかし、それは、とりわけ政権選択の主たるポイントとはなりにくい政策に関して、国民の希望に添わない決定がなされる危険性を生み出すこととなります。したがって、例えば、衆議院または参議院において10分の1以上の議員が要請するときは、特定の法案について、各議員における議決に加えて、国民投票において有効投票数の過半数の賛成を必要とするような改正を行うということは1つ考えられます。

 また、日本国憲法の解釈としては、裁判所は、具体的な事件の解決に必要な限度においてのみ違憲立法審査権を行使できるとするのが多数説です。しかし、このように、具体的な事件の解決と離れて法令の合憲性を審査する司法機関が存在しないというのは、今日一般的ではありません。したがって、裁判所に、抽象的な違憲立法審査権を与える改正というのも考えられなくはありません。

 また、国際社会は、人種や民族等に着目した差別や憎悪の煽動を取り締まるという方向に向かっています。しかし、日本国憲法は、表現の自由を広く保障しているため、人種や民族等に着目した差別や憎悪の煽動について罰則規定を制定することに踏み切れていません。したがって、人種や民族等に着目した差別や憎悪の煽動を、表現の自由の保障の対象から明文で除外するという憲法改正も有りえます。

 また、経済のグローバル化に伴い、日本国内には様々な国や地域の人々が定住するようになり、その一部は日本国籍を取得するようになっています。このように、日本社会もまた否応なく多民族国家という様相を色濃く帯びるようになっていくわけですから、特定の民族の伝統や風習、習俗等を、日本国としての伝統や風習、習俗等として公権力が押しつけることを明文で禁止しておくというのは1つの考えだと思います。

 また、過去の最高裁判例で規制が合憲とされている政治活動(例えば、公務員による政治活動や、戸別訪問等の手法を用いた政治活動等)について、これを制約できないものとする方向での憲法改正というのは十分に考えられます。これらの政治活動が制限されていない立法例は諸外国に多くあり、さしたる弊害を生んでいないからです。

 このように対案を出せといわれれば出せなくはないのですが、とにかく憲法を改正したいという人たちがこれらの対案に乗ってくる可能性は乏しく、従って発議にいたる可能性はほぼないので、空しいだけなのです。

07/12/2015

ブロックリストの使用は「民主主義の敵」か

 SEALDsのメンバーたる学生に対して、「ブロックリスト」を使用していることをもって、「民主主義の敵」などと糾弾する弁護士が一部いるようです。

 しかし、民主主義社会においてその主張を国政に反映させるにあたっては、全ての有権者にその主張に賛同していただく必要はありません。衆参議院の議員の各過半数の賛同を得ればその主張が国政に反映する可能性が高まりますし、現在の議員構成ではその見通しが立たない場合であっても、その主張に賛同する人々が次の選挙において過半数当選することになれば、その主張が国政に反映する可能性が高まります。このためには、国会議員または国会議員になろうとする人々に対する働きかけと、広く有権者に対する呼びかけを行うことが必要となります。逆に言えば、このような働きかけ等をしてその主張を国政に反映させようとする限り、民主主義的手法による政策実現を目指していると言うことができます。

 では、このようにして特定の政策を国政に反映させようとする集団において、その政策に賛同していない大衆をどのように扱う必要があるでしょうか。

 「ブロックリスト」を使用しただけで「民主主義の敵」とまで言い切ってしまう方々は、そのような集団に属する人々は、これに反対する声をすべて受け止め、賛成へと転換させるべく直接的に働きかけるべきという前提に立っているように思われます。あるいは、さらに、反対者を説得できない以上、その政策には誤りがあり、したがって主張を取り下げるべきとまで考えているのかもしれません。

 確かに、自分たちの主張に異を唱えてくる人たちすべてに丁寧に応対し、その考えを改めさせるというのは理想的な姿ではあります。しかし、そうしない限り「民主主義の敵」との評価を甘受しなければならないかは疑問です。

 まず、人的リソースの問題があります。一対多という方向で政治的意思表明をすることと、多対一の意思表示を受け止めることとは、必要とされる人的リソースが格段に異なります。後者に対応できる人的リソースを確保できないのであれば前者の方法による政治的意思表明をするなと言うこととなれば、前者の方法による意思表明をできる人々は、後者に必要とされるリソースを割くことができる、ある程度大きく、組織だった集団に限られてしまいます。

 つぎに、精神的ダメージという問題があります。残念ながら、今の日本では、自分と異なる政治的意見を表明する人たちに対しては何をしてもよいという考え方が広くはびこっており、匿名性が広く保障されていることにより、そのような考えに基づく行動に歯止めがかからない状況に陥っています。このため、一定の政治的意思表明をすれば、これに反対する人々から、止めどもない悪意を込めた通知が執拗に送りつけられることとなります。そして、そのような執拗な悪意に晒されてもなお精神の健全さを維持できる強い人間ばかりではありません。したがって、特別でない人々が政治的意思表明をするためには、執拗な悪意を遮断するシステムが必要です。

 さらに、効率性という問題があります。一対多という形で向けられた意思表明に対して多対一という形で向けられた反論には、読むに値するレベルに到達しているものがそれほど多くはなく、かつ、同じような内容のものが多く含まれることが多いことが経験的に知られています。そのような反論を送りつける側はそれぞれ1通ないし少数通しか反論を送っていないとしても、送りつけられる側としては同じような内容の反論を膨大な数送りつけられることになるので、それら全てに目を通すことは非効率的です。一切の効率性を追求したら「民主主義の敵」か?──もちろん、そんなことはありません。

 そして、Twitterの構造を考えれば、さらに次のようなことが言えます。

 一対多に向けて特定の政治的意思表明をしたに過ぎない人が、これに対するTwitterを利用した多対一の反論を一切ブロックしなかった場合、関連ツイート欄がそのような同種内容の反論ツイートで埋まる危険があります。そのような場合、本来関連ツイート欄を見てアクセスすることとなったはずの自分宛のツイートを見逃す危険が高まるなど、その本来の使用に則った利用を十全に享受できなくなる虞がありますので、これを回避しようとすることは当然です。

 また、同種の政治的意思表明をした人に対して愚鈍な反論ツイートをぶつけてきた人が自分に対して送りつけてくる反論ツイートは同様に愚鈍なものである蓋然性が高いと言うことは経験則上も言えるわけです。したがって、あるアカウントがそのような反論ツイートを送りつけてくる人のものであることが分かった時点で、同種の政治的意思表明をしている人が予防的にそのアカウントをブロック対象とすることには、合理性があります。だとすれば、ある種の政治的意思表明をしている人々に対して愚鈍な反論ツイートを送った人々のアカウントをリスト化して、同種の政治的意思表明をしている人々の間で共有化することも又合理的だと言うことになりますし、そのようなリスト化作業をボランティアでやってくれている人がいるのであればこれを利用することも合理的だと言えます。

 もちろん、そのような第三者が作成したリストを用いて予防的にブロックをする場合、その第三者が過剰にリストアップをしてしまったとき、愚鈍な反論ツイートをする蓋然性の低い人々まで予防的ブロックの対象としてしまい、本来聞くべき反論を聞かないことになってしまうリスクはあります。ただし、本来聞くべき反論というのは、一対多の意見表明としても良識的な多数の人々に受け入れられるべきものですから、自分に対する関連ツイートとしてそれを読まなくても、回り回ってそれを聞く機会が生ずることが期待できます。したがって、リスクとベネフィットを天秤にかけて、そのようなリスクを負ってでも、第三者が作成したブロックリストを使用するという選択をすること自体は合理的であって、「民主主義の敵」と呼ばれるに値しないと言いうると思います。

26/09/2015

「一般国民の多く」が示すもの

 「モトケン」こと矢部善朗弁護士(元創価大学法科大学院教授)が

安保法制の整備が必要だとすれば、政府提案の法案のどこが違憲であり、それを合憲にするにはどうすればいいかという議論が、当然なされるべきだと思う。

述べたのに対し、私が、

そもそも多くの国民が自ら戦地に行く気がない現状のもとで、それを合憲にするためにどうすればいいかを提案する必要はありませんね。

言及したところ、

小倉弁護士は、安保法が一般国民の多くを戦地に送り込む法律だ理解しているようだが、安保法のどの条文をどう読むと小倉弁護士のような理解になるのだろう?

という不思議な反論を受けてしまいました。

 しかし、私の上記発言のどの文言をどのように理解したら、私が安保法が一般国民の多くを戦地に送り込む法律だ理解していると理解できるのか、皆目見当がつきません。そこでは、戦地に送り込まれる一般国民の人数ないし規模について直接的な言及がなされていないことはもちろん、間接的にこれを示唆する文言等すらないからです。そして、論理的にも、戦地に送り込まれるのが一般国民のうちのごく一部であっても、我こそ戦地に赴かんという一般国民がごくわずかしかいない状況下においては、敢えて憲法に反することなく一般国民を戦地に送り込む方法を考案し、提唱する必要性など誰にもないことは明らかです。一般国民の多くが戦地に送り込まれるというものでない限り、一般国民を戦地に送り込む法案が憲法に適合するように、敢えて苦心する必要なんてどこにもないのです。

 弁護士であり、ほんの少し前まで法科大学院の教授をしていた人物が、「『一般国民』『多く』『戦地』『送り込む』という単語さえ共通していれば、自由にこれを組み替えて相手の文章を理解することが許される」と思っているとは信じたくないところではあります。さらにいえば、矢部弁護士といえば、コメントをその文言通りに読み取った上でこれを批判する行為について、

論者の真意を確かめないで決め付けるのであれば、揚げ足取りとしか言えない主張です。

とか

形式論理を用いて自分に都合がいいようにだけ解釈するというのは、単に攻撃または批判のための主張であって、建設的でもなければ相互理解に役立つこともないでしょう。

とまでおっしゃっていたわけで、「先ず隗より始めよ」と言いたくなってしまいます

04/03/2015

昭和23年少年法改正時のの議論

昭和22年8月2日衆議院司法委員会における佐藤藤佐司法次官

終戦後、思想の混亂また経済生活の窮迫に基きまして、またさらに遡れば戦時中青少年に對する教育指導が適切に行われておらなかつたというような、いろいろな原因に基きまして、終戦後青少年犯罪が非常に殖えているのであります。これは各國の歴史においても示されているのでありまするが、最近においては殊に青少年犯罪の數が激増しているばかりではなく、その罪質が非常に凶悪な犯罪が多いのでありまして、この點は識者の非常に憂えているところであります。殊に将来のわが國を擔うべき青少年の責任を思いますると、まことに寒心にたえないのでありまして、この青少年犯罪の予防防遏ということにつきましては、これは政府全體として非常な関心をもつていろいろな對策を講じているのであります。司法省といたしましては、少年法あるいは矯正院法等を活用いたしまして、青少年犯罪の保護善導に極力努めているのでありまするが、しかしながら既存の少年法及び矯正院法あるいは司法保護事業法等では不十分であると認めまして、目下この改正事業に著手いたしておりまするので、できれば今議會にその一部の改正案を御審議願いたいと存じているのであります。遅れましてもこの次ぎの議會には、ぜひ少年法、矯正院法及び司法保護事業法の改正について御審議をお願いしたいと思いまして、その改正事業に鋭意努力いたしておるのであります。

昭和23年6月19日衆議院司法委員会における佐藤藤佐法務行政長官

ただいま上程になりました少年法を改正する法律案の提案理由について、御説明申し上げます。
 最近少年の犯罪が激増し、かつその質がますます悪化しつつあることは、すでに御承知のことと存じます。これは主として戰時中における教育の不十分と、戰後の社会的混乱によるものでありますが、新日本の建設に寄與すべき少年の重要性に鑑み、これを單なる一時的現象として看過することは許されないのでありまして、この際少年に対する刑事政策的見地から、構想を新たにして少年法の全面的改正を企て、もつて少年の健全な育成を期しなければならないのであります。
 今回の改正のおもなる点は、第一に、少年に対する保護処分は裁判所がこれを行うようにしたこと、第二に、少年の年齡を二十歳に引上げたこと、第三に少年に対して保護処分を科するかまたは刑事処分を科するかを、裁判所自身が判断するようにしたこと、第四に兒童福祉法との関連に留意したこと、第五に法護処分の内容を整理したこと、第六に抗告を認めたこと、第七に少年の福祉を害する成人の刑事事件に対する裁判権について、特別の措置を認めたこと等であります。以下順次御説明申し上げます。
 第一は家庭裁判所の設置であります。新憲法のもとにおいては、その人権尊重の精神と、裁判所の特殊なる地位に鑑み、自由を拘束するような強制的処分は、原則として裁判所でなくてはこれを行うことができないものと解すべきでありまして、行政官廳たる少年審判所が、矯正院送致その他の強制的処分を行うことは、憲法の精神に違反するものと言わなければなりません。從つて少年裁判所を裁判所に改め、これを最高裁判所を頂点とする裁判所組織の中に組み入れるのは当然のことでありまして、このことは法務廳設置法制定の際、政府の方針としてすでに確定しておるところであります。なお当時は少年裁判所の設置を予定していたのでありますが、その後種々研究をいたし、また関係方面の意向をも参酌して、これを現在の家事審判所と併せて、家庭裁判所とすることにいたしたのであります。これは少年の犯罪、不良化が、家庭的原因に由來すること多く、少年事件と家事事件との間に密接な関連が存することを考慮したためであります。そうしてこの家庭裁判所は、地方裁判所と同一レベルにある独立の下級裁判官ということになつておるのでありますが、この裁判所の組織に関する点は、裁判所法の中に規定されるところでありますから、詳しいことは、裁判所法の改正法律を提案する際に、御説明申し上げたいと存じます。
 第二は年齡引上げの点であります。最近における犯罪の傾向を見ますると、二十才ぐらいまでの者に、特に増加と悪質化が顯著でありまして、この程度の年齡の者は、未だ心身の発育が十分でなく、環境その他外部的條件の影響を受けやすいことを示しておるのでありますが、このことは彼等の犯罪が深い悪性に根ざしたものではなく、從つてこれに対して刑罰を科するよりは、むしろ保護処分によつてその教化をはかる方が適切である場合の、きわめて多いことを意味しているわけであります。政府はかかる点を考慮して、この際思い切つて少年の年齡を二十歳に引上げたのでありますが、この改正はきわめて重要にして、かつ適切な措置であると存じます。なお少年の年齡を二十歳にまで引上げるとなると、少年の事件が非常に増加する結果となりますので、裁判官の充員や少年観護所の増設等、人的物的機構の整備するまで一年間、すなわち來年一ぱいは從來の通り、十八歳を少年年齡とするような暫定的措置が購ぜられておるのであります。
 第三は保護処分と刑事処分との関係であります。現行少年法においては、原則として檢察官が刑事処分を不必要として起訴猶予にしたものを少年審判所にまわして、これに保護処分を加えておるのでありますが、今回の改正においては、少年犯罪の特殊制に鑑み、この関係を全然轉倒し、一切の少年の犯罪事件は、警察または檢察廳から家庭裁判所に送られ、家庭裁判所が訴追を必要と認めるときは、これを檢察官に送致するようにしたのであります。しかもこの檢察官への送致は、十六歳未満の少年については絶対に認められません。そして送致を受けた檢察官は、送致された事件について犯罪の嫌疑があれば、原則としてこれを起訴しなければならないのであります。なお、事件が家庭裁判所に送致されるまでの過程において、檢察官の手を経るか、それとも警察から直接に送致されるかは、大体において、それが禁錮以上の刑にあたる罪の事件であるかどうかによるのであります。この点は今回の改正中最も重要なものの一つでありまして、少年に対する刑事政策上、まさに画期的な立法と申すべきであります。
 第四は、兒童福祉法との関係であります。昨年兒童福祉法が制定公布され、これが今年の四月一日から全面的に施行されることになりました。この法律は、兒童の福祉に関する基本的法律でありますが、この法律で行う福祉の措置は、犯罪少年と虞犯少年には及ばず、またそれず行政機関によつて行われる結果、強制力を用いることができないのは当然でありますから、これらの点については、家庭裁判所が関與し、少年保護の各機関が相互に協力しつつ、少年の福祉をはかり、その健全な育成を期そうというわけであります。今回の改正では、この点について、いろいろと意を用いているのであります。
 第五は、保護処分の内容であります。從來少年審判所は、ある程度において保護処分の執行に関與するのでありますが、これが裁判所となつた以上、むしろ決定機関として止まるべきであり、執行の面に関與するのは適当でないとの見地から、今回の改正においては、決定と執行とを分離し、一度裁判所が保護処分の決定をしたら、その後の執行は全部執行機関に一任することにしたのであります。その代り、決定に愼重を期するため、從來軽い処分として規定されていたものを、多少内容を修正して、決定前の措価に切りかえたのであります。さらに先述の兒童福祉法との関係が、この保護処分の内容としても考慮されており、またいわゆる環境調整に関する措置も講ぜられております。
 なお、この保護処分の中に、地方少年保護委員会に補導を委託するというのがありますが、これは別に提出する予定になつております法律の中に出てくる委員会のことでありまして、少年法との関係においては、委託を受けた少年について、主として観察を掌るのであります。
 第六は、上訴の制度であります。現行の少年法では、保護処分に対しては、本來の不服申立の方法がないのでありますが、今回は人権尊重の趣旨に則り、特に高等裁判所に対して抗告を認めたのであります。その抗告の理由は、決定に影響を及ぼすべき法令の違反、事実の重大な誤認、及び処分の著しい不当の、三つに限られているのでありますが、これは改正刑事訴訟法案における控訴の理由とにらみ合わせて規定したものであります。そして高等裁判所においては、單に原決定の当否を審査するだけで、みずから保護処分の決定を行わず、原決定を不当と認めるときは、事件を原裁判所にさしもどし、または他の家庭裁判所に移送するのであります。また違憲問題等を理由として最高裁判所に再抗告をする途も開かれております。
 第七は、少年の福祉を害するような成人の刑事事件を、家庭裁判所が取扱うことであります。少年不良化の背後には、成人の無理解や、不当な処遇がひそんでいることがきわめて多いのでありますが、このような成人の行為が犯罪を構成する場合には、その刑事事件は、少年事件のエキスパートであり、また少年に理解のある家庭裁判所がこれを取扱うのが適当であり、またかかる成人の事件は、少年事件の取調べによつて発覚することが多く、証拠関係も大体において共通でありますから、この点から申しましても、この種の事件は、家庭裁判所がこれを取扱うのが便宜なのであります。なお家庭裁判所は、これらの成人に対して禁錮以上の刑を科することができず、禁錮以上の刑を科すべきときは、これを地方裁判所に移送するのでありますが、これは本來少年事件を取扱うべき家庭裁判所が、成人に対してあまり重い刑を科すことは適当でないとの趣旨によるものであります。
 以上は改正の要点でありますが、なおこのほかにも、たとえば十八歳未満で罪を犯した少年に対しては、絶対に死刑を科さないとか、その他重要な改正が少くないのであります。そして、この法律案は量的には必ずしも大法典とは申せないのでありますが、少年不良化の問題が、國家の切実な関心事となつております今日、この問題解決のため必要な幾多の根本的改正を含んでいる点において、質的にはきわめて重要な法律であると申さねばなりません。何とぞ愼重御審議の上、御可決あらんことを希望いたします。

昭和23年7月1日衆議院司法委員会における齋藤三郎法務庁事務官

 第二條は、対象となります少年及び成人の言葉の定義でございます。現行法では、少年を十八歳未満ということにいたしておりますが、終戰後の犯罪の状況を見ますると、十八歳、十九歳、二十歳、こういうところが非常に犯罪が多いのであります。この犯罪に対しまして、單なる刑罰のみをもつては、とうてい不十分でありますので、この少年法によりまして、刑罰と相並んで、保護の力によつて、若い人の犯罪をなくするようにしたい。こういう考えで、改正案におきましては、少年の年齡を二十歳まで上げた次第であります。

 昭和23年7月2日衆議院司法委員会における内藤文質法務事務官

家庭裁判所の在り方、考へ方は。アメリカの標準裁判所を基準とする。日本では刑事裁判所の外廓として発達して來たところに差がある。わが國の從來の傅統のアメリカのよい点をとりいれ、理想的なものをつくろうと考えて立案したものであります。アメリカで家庭裁判所の根本的な考え方は子供または子供を保護する親に適当でないものがあるとき、強制力で措置せねばならぬとき、家庭裁判所の権限が発動するというのであります。從つて本來から言うと犯罪少年のみならず、非行のあつた少年、放任された少年に対し、また親に対して家庭裁判所が関與するのが理想と思うが、兒童福祉法があるので、犯罪少年とこれと紙一重の虞犯少年に対して手当を加える裁判所たらしめようとしている。裁判所が判断するときの基準は、犯罪行為ではなく、犯罪性が強いか弱いかにあるかのみによるのであります。虞犯少年でも犯罪少年より強くせねばならぬこともある。その鑑別は二十年の歴史をもつ少年審判所によつて適切になされ得ると思う。

 同委員会における山崎道子衆議院議員(日本社会党)

子供は神のごときもので、温かい愛の手でやりたい。若芽のごときものを嚴しい法でやるのは不賛成です。世間の見る眼、父兄の精神町影響も考え、兒童福祉でやりたい。それでもどうもならぬ少年は別であります。少年審判所は二十年の経驗をもつというが、それなら旧憲法でやつていけばよい。二十年の歴史にこだわらず、新憲法の下新しく発足したい。行政整理をせねばならぬ今日、何ゆえに本建にせねばならぬのか。冷たい法のふるいをかける前に温かい愛の手でやりたい。少年審判所は後でいいと思う。

24/11/2014

いわゆる「美味しんぼ論争」の軸となるべき視点

 現代型「風評被害」論を語る上で避けることができないのは、いわゆる「美味しんぼ」問題でしょう。

 この問題については、ネット上で激しい議論が行われてきましたが、議論の軸が欠けたままだったかと思います。ここで問題となるのは、メディアは、ある事故等に起因する健康問題に関して、現地の人々の声や、研究者の見解等を紹介するにあたって、どのような配慮をすべきかという点です。

 福島第1原発事故に起因して放射能による健康被害が生じているかのような情報を流布することは「福島いじめ」であるとして、そのような情報の流布を押しつぶそうという人々が多かったのは、今回の特徴の1つです。ただ、このように、ある地域の経済的利益に慮って健康問題に関する情報の流通を控えるというのはとても危険な発想です。それらの声や見解が実態に即したものであった場合に、健康被害をいたずらに拡大するものとなりうるからです。

 このように申し上げると、自分の認識こそが客観的真実であると信じて疑わない人々から、間違った情報を流布させる必要などないという批判を受ける可能性はあります。ただ、私は、現地の人々の中に一定の症状を訴える人々がいる場合に彼らが皆詐病を訴えているのだと断言する根拠を持ち合わせていませんし、それが特定の物質等に起因するものであるとする(現時点では少数説に立っている)研究者の見解が誤りであるとする確証を持ち合わせていません。そして、それらが詐病である、間違いであるという確証を持っている人々がいるのであれば、それらの人々がそれらの確証を公開することによって、私を含む大衆を説得していけばよいのだろうと思うのです。そういう意味で、この種の健康問題に関する論争は、まさに「言論の自由市場」に委ねるべき問題であって、「被災地いじめだ」などという情緒的なスローガンでこれを封じるべきではないし、まして不法行為制度によって封じるべきではないというべきではないかと思うのです。

 【追伸】この話題を情報ネットワーク法学会での文科会等で話題にすることが許されていたらジャーナリストサイドに聞いてみたかったことは、取材の際に被災地の住民の一部から健康被害に関する訴えを聞いたが、その訴えの内容がその被災に起因するものであるとの科学的知見が得られなかった場合に、ジャーナリストとしては、現地でそのような症状を訴える人が被災後増えているという事実を報道すること自体を差し控えるべきと考えるかどうかということです。今回、分科会の対象をソーシャルメディアに限定することにより、このようなマスメディアに関する議論ができなくなってしまったのが残念です。

23/11/2014

風評被害論

 風評被害の問題の本質は、不確実性に起因する損害を誰が負担するのかという問題です。

 例えば「甲の施設から甲の過失または甲の施設の瑕疵により乙という物質が流出し、丙という地域で産出される丁という農産物に乙が付着した」という事実がある場合を考えてみましょう。

 通常1人の人が食べる量の丁に、致死量を上回る乙が付着しており、実際に丁を食べた戊が、これにより死亡したという場合に、甲が戊の死により生じた損害賠償について損害賠償義務を負担する。これは、風評被害ではありません。また、通常1人の人が食べる量の丁に、致死量を上回る乙が付着していたため、丁の栽培業者等は、丁を出荷することができず、丁の出荷により得べき利益を逸失した。これも風評被害ではありません。

 風評被害が生ずるのは、農産物丁を体内に取り入れた場合に人体に悪影響を与えるかどうかが不確実な場合です。その時点の科学的知見では農産物丁を通常の量食べた場合に特定の疾患己が発症する危険性が上昇するという信頼できる統計的データが未だなく、または、乙という物質が特定の疾患己を引き起こすメカニズムが解明されていない場合、農産物丁を食したことと特定の疾患己の発症との間に因果関係を認定することはできないかもしれません。しかし、食材を購入する消費者としては、農産物丁の摂取により疾患己が引き起こされるメカニズムが後に解明されてから「ああ、あのとき食べなければよかった」と後悔しても遅いので、「農産物丁を摂取しても特定の疾患を発症する危険を上昇させない」という信頼を持てない限り、農産物丁の購入・摂取を控えることになります(現代の日本のように、食材の選択肢が消費者に広く与えられている社会であれば、なおさらです。)。したがって、物質乙の流出は、客観的に物質乙が農産物丁に付着したかどうか、実際に付着した乙の量との関係で特定の疾患己を引き起こすものかどうか関係なく、農産物丁の買控えという損害をその生産者に与えることとなります。

 そして、このような買控え等による損害を「物質乙の流出」に起因する損害として賠償の対象に加えることができるか否かというのが、もともとの「風評損害」論だったわけです。

 しかし、風評損害論は、今日矛先を変えています。きっかけは、ニュースステーションにおけるダイオキシン報道だったと思いますが、決定的だったのは、東京電力福島第1原発の爆発事故後の議論です。

 ここでは、「物質乙が付着した食材を摂取すると特定の疾患に罹患する蓋然性が高くなる」との情報を流布することにより、物質乙が付着した(または付着していないとの信頼が置かれていない)農産物丁の買控えが生じた場合に、農産物丁の生産者が被った損害を賠償する責任が上記情報を流布した者に生ずるということが語られ、さらに、「物質乙が付着した食材を摂取すると特定の疾患に罹患する蓋然性が高くなる」との情報を流布する行為は、農産物丁の生産者に対する「いじめ」であって許されないということが語られるようになったのです。

 そのような議論の枠組みを大筋で認めた場合、「物質乙が付着した食材を摂取すると特定の疾患に罹患する蓋然性が高くなる」との情報を流布することが不法行為とならないためには、どの程度の確証が必要とされるべきかが問題となります。

 科学的な実験によって「物質乙が付着した食材を摂取すると特定の疾患に罹患する蓋然性が高くなる」ことが確かめられない限りそのような情報を流布するべきではないという見解もあり得なくはありません。ただ、その場合、相当数の人に物質乙が付着した食材を摂取させて、相当数の人に特定の疾患を生じさせることが、上記情報流通の前提条件となることを意味します。相当の被害が発生してからでないと警告が行えないというのが適切なのかという問題が生じてしまうのです。

 従って、実際には、実証実験による確証が得られる前の段階で「物質乙が付着した食材を摂取すると特定の疾患に罹患する蓋然性が高くなる」(から、物質乙が付着していると思われる)農産物丁の摂取を控えるべきとの警告を行うことも法的に許されるべきということになろうと思います。すると、問題は、実証実験による確証が得られていないとして、どの程度の科学的根拠を要求するべきなのかということになっていきます。この点に関する法学サイドからの研究は未だ道半ばだというのが正直な感想です。

14/04/2014

教育勅語を教育現場で活用する前に

 みんなの党の和田政宗議員が、Twitterで以下のようにつぶやいています。

8日の文教科学委員会。教育勅語の教育現場での活用を質問。昭和23年に国会で教育勅語の排除決議や失効確認決議がなされているが、決議は関係なく活用出来ると大臣答弁。「教育勅語をそのまま使うことは歴史的経緯から相当理解を求める必要があるが、内容に着目し学校教育で使うことは差し支えない」

 しかし、国定教科書が主な情報源だった時代とは異なり、現代は、子どもたちとて様々な方面から情報を入手しますから、大人たち、それも世間的にみて高い地位に就いている大人たちが守っていない徳目をいくら暗唱させたって、子どもたちをしらけさせるだけです。

 みんなの党の醜悪な分裂劇を見せつけた後で子どもたちに「朋友相信シ」と唱道させたってしらけると思いませんか?

 政治家による相次ぐ失言を見せつけた後で子どもたちに「恭儉己レヲ持シ」と唱道させたってしらけると思いませんか?

 保守派の政治家が生活保護バッシングに荷担したり、国内のマイノリティを差別したりする姿を見せつけた後で子どもたちに「博愛衆ニ及ホシ」と唱道させたってしらけると思いませんか?

 「受験」すら回避して大学までエスカレータ式に上がっていき、その後も社会人としてさして働かないままに親の地盤を継いで議員になっていく姿を見せつけた後で子どもたちに「學ヲ修メ業ヲ習ヒ」と唱道させたってしらけると思いませんか?

 自国の憲法を改正することを長年の悲願とすると言っている政治家がその憲法の研究者として誰もが第一人者と認める人の名前を知らないと言って一切恥じない姿を見せつけた後で子どもたちに「以テ智能ヲ啓發シ」と唱道させたってしらけると思いませんか。

 長きにわたり自国の未曾有の発展を支えてきた憲法を自国のトップが「恥ずかしい憲法」と吐き捨てるように貶める姿を見せつけた後で「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」と唱道させたってしらけると思いませんか?

 国が巨額の財政赤字に苦しんでいることを知りながら自分の死後遺産を国の遺贈するのではなく自分の子孫に相続させる、それもなるべく節税対策をする富裕層の姿を見せつけた後で「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と唱道させたってしらけると思いませんか?

 儒学の影響を強く受けた江戸期以降において、むしろ社会的地位の高い人たちこそ率先して「道徳」律を守るべきものとされてきたはずなのですが、なぜそういう部分に限って「日本の伝統」に背こうとするのか、私には理解できません。

«特定秘密保護法案を今国会で可決するべきではない理由のいくつか。

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