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septembre 2006

30/09/2006

パワハラの擁護者

 それが傍目にはどうでも良いような些細なことに見えるということは、それを強制しようという側の見苦しさとその強制に抵抗しようする見苦しさとを等価に補強するのではありません。あることを強制する側にはそれをどうしても強制しなければならない強固な理由が必要なのに対し、強制する側にそれを強制しなければならない強固な理由がない場合には抵抗する側はそれに従いたくないというだけの理由だけで抵抗しても何ら見苦しくないからです。

 例えば、日本の美しい伝統を守るという理由で、教員は卒業式等では江戸時代の武家風の鬘を着用するように命ずる通達が教育委員会からなされた場合、そのような曖昧な根拠で教員の嫌がりそうなことを押しつける教育委員会は白い目で見られてしかるべきですが、知事が交代しそのような教育委員会の委員を更迭して通達を撤回させてくれるようになるまで決められた「ルール」に従うという道を選ばず、「子供たちにとって一生の思い出の場」で、個人としての思想等を優先して、チョンマゲ姿の鬘を着用することを拒否した教員たちが見苦しいかというと、そういうとらえ方をする人は少数なのではないかと思います。また、このような場合に、「教師たちは、とりあえず卒業式の場では自分の心情がどうであろうとチョンマゲ姿になるべきであったのであり、その是非については後で議論をすべきだった」みたいなことをいう人も少数なんだろうなと思います。「別に髪型なんてどうでもいいではないか」ということは、そのような強制を行った側に向けられることであっても、そのような強制に抗った側に向けられるべきことではありません。

 今回の事件に関しては、教員に対する非難を維持しようと頑張れば頑張るほど、「パワハラの擁護者」みたいになるので、ここのブログの粘着君も大変ですね。

理不尽が押し寄せてきたときの選択肢

 理不尽が自分の身に押し寄せてきたときに、「これに屈従するか、あるいは、その場から逃げ出すか」しか選択の余地がないわけではなく、「理不尽と戦ってみせる」というのも一つの有力な選択肢です。実際、私たちが現在生きている社会が現在そうある程度の快適さを保っている理由に一つに、堂々と理不尽と戦ってみせた先人たちの成果の蓄積があります。

 卒業式での国歌斉唱強制問題について、「歌いたくなければ教師を辞めればいい」云々という人々の頭の中には、理不尽に対しては「これに屈従するか、あるいは、その場から逃げ出すか」しか選択の余地がないという精神、いわば奴隷根性が染みついてしまっているのではないかという危惧がないわけではありません。

26/09/2006

君が代訴訟論争に見られる保守の退潮

 東京都の君が代訴訟で教師たちに生徒への配慮を求める人々は、所沢高校入学式問題で生徒たちの意向に反して入学式で君が代を斉唱させようとして混乱を招いた校長や県教育委員会に対し生徒たちへの配慮を求めていたのかというと、それはそれで結構疑問です。

 生徒たちへの配慮を求めるということであれば、入学式や卒業式での式次第を決めるときに、どの歌を斉唱したいかについて生徒たちの意向を反映させるのが筋というものです。しかし、「国歌を斉唱させる」というのは文科省および教育委員会が、生徒の意向とは関係なしに、トップダウン的に指示しているものであって、そこにははなから生徒たちへの配慮などありません。

 この入学式・卒業式での日の丸掲揚・君が代斉唱問題というのは、それまで地域ごとに、あるいは学校ごとに、各式典の式次第については多様な伝統があったにもかかわらず、高石文部事務次官が全国一律に日の丸掲揚・君が代の斉唱を行うことを求めたことに端を発しています。この問題は、そもそも義務づける側の、生徒を中心とする参加者の意向および各地域や学校の伝統を踏みにじる全体主義思想から始まっているのです。

 本来の保守というのは、中央権力が地域社会を含めた部分社会の意向や伝統を蔑ろにして自分たちが頭の中で考えた「理想の国民像」を全国一律に押しつけることに対しても懐疑的であるはずであって、そういう意味では、入学式・卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱の全国一律の義務づけに反対ないし懐疑的なのが中道〜左派にほぼ限定されているという現象は、日本の保守層の弱体化を物語っているような気がします。

25/09/2006

Vande Mātaram論争と君が代論争

 「National Song」を学校で強制的に歌わせるべきか否かが論争となっている例としては、インドの「Vande Mātaram」論争があります。Vande Mātaramの場合、ヒンドゥー教の神様に関する部分が歌詞にあるとか何とかという理由で、インド国内のイスラム教徒やシーク教徒から反対を受けているようです。

 Owaisi Asaduddin氏の "We respect it because it's our national song, but don't force it upon us. India is a secular country."という発言は、「国歌を尊重すること≠国歌の押しつけを甘受すること」という声は遠く天竺でも聞こえてくるのだなあという感心を引き出します。Vande Mātaram論争は、インドにおけるVande Mātaramとは異なり日本における「君が代」は「君が代の斉唱を公立学校の生徒や教師に義務づけるべき」と声高に主張している人々からも自然発生的に斉唱されることがほぼない等の点で違いはあるものの、日本における「君が代」論争と結構似通っている点があって、参考になります。

24/09/2006

北に近づく日本

 「金正日政権崩壊後の北朝鮮において、入学式や卒業式で「大統領」の写真を壇上にでかでかと掲載し、「大統領」を讃える「国歌」を全員起立して斉唱することを義務づける「通達」が「教育省」から出された際に、当該「大統領」を尊敬していない教師等が起立して斉唱しなかったところ、当該教員等は懲戒処分を受けた。」という例を考えた際に、「金正日政権時代は、入学式や卒業式で最高指導者の写真を壇上に掲載し最高指導者を讃える歌を全員起立して斉唱することは義務づけられていたのであるから、現政権が同様のことを行ったとしても、それは今までが異常だったのもが正常化されただけである」という主張を肯定できるのかというと、私には無理だなあという気がします。

 「自国の最高指導者を尊敬できない人が他国の最高指導者を尊敬できるわけがないから、学校現場で子供たちに自国の最高指導者への尊敬を義務づけることは正当である」として現政権トップへの崇拝を義務づける見解に対しても、私は強い違和感をもったりします。

Who to blame for the disorders

 コフィンさんという方から、次のようなコメントを戴きました。

このエントリのご意見の主張者は、誰であれ、本来粛々と進めるべきことが期待される慣行の式典で一生に一度の思い出となる卒業式や入学式においても、自己独自の特定の思想信条を会場に無理やり持ち込んで外部的表現活動して「●●●・●●●反対!/賛成!(注)」と主張して、プロトコールを破壊したり、平穏な集会の秩序を乱したり、進行そのものを妨害したりする威力業務妨害罪の現行犯の陰で、多数の参加者が一生に一度の思い出をブチ壊されても民事的救済を受けることなく泣き寝入りするしかない社会をお望みであると言えそうです。
注)●●●には何でも入ります(価値中立性)

 ただ、入学式や卒業式の式次第を考慮するにあたっては、その式の目的とするところや、参加予定者の主義主張の分布等を考慮した上で、なるべく多くの参加者が気持ちよくその式に参加できるようにするのがまともな大人の対応であって、国歌の斉唱についてはこれを強制されることに不快感を感じる参加予定者が少なからずいることがわかっているのであれば、「参加者全員が起立して国歌を斉唱する」という行事を式次第に含めることを回避することを検討すべきといえるでしょう。

 にもかかわらず、「多数の参加者が一生に一度の思い出」である入学式や卒業式をいわば人質として、「国歌を斉唱したくない人」に国歌を斉唱することを強いようとするという姑息なことをするからこそ、入学式や卒業式における混乱が生ずるのであって、むしろ「多数の参加者が一生に一度の思い出をブチ壊され」たことに関しては、そのような姑息なことを実行した主催者側(主催者がその上部団体の命令でやむなくそうせざるを得ないところに追い込まれたのであれば、その命令を行った上部団体側)こそが非難されるべきだといえます。

国歌を斉唱してこなかった多くの人々の問題点って何?

 公立学校における入学式や卒業式等の式典等において、何が何でも国旗を掲揚させ、何が何でも生徒や教師に起立して国歌を斉唱させたいという方々は、そのことによって何を目指しているのかというのがよくわからなかったりします。

 どうも「公立学校における入学式や卒業式等の式典において国歌を斉唱する」ということは、特に「我々と価値観を共通する国々」であると我々が思いたがっている国々においてはさほど一般的ではないようですし、そのような式典において国歌の斉唱に参加しなかったことを理由に生徒や教員を処分することを裁判所が違法と判断しなかった場合にそれらの国々は我が国のことを「我々と価値観を共通する国々」とは思って頂けなくなるのではないかという危惧がなくはなかったりします。

 日本においても、少なくとも東京においては、「公立学校における入学式や卒業式等の式典において国歌を斉唱する」ということは一般的な習慣ではなかったのであって、近年になって文科省(旧文部省を含む。)や東京都の教育委員会がそう命令するからやむなく「入学式や卒業式等の式典において国歌を斉唱する」ということにしているにすぎません。そもそも、少なくとも東京においては、特段「国」というものを意識するわけではない行事において参加者全員が国歌を斉唱するという習慣はなかったのであり、かつ、公立学校の入学式や卒業式は特段「国」というものを意識するわけではない行事であると捉えられてきたのですから、その式次第において、「国歌の斉唱」というイベントが予定されてこなかったことは特に不自然なことではありません。

 すると、「公立学校における入学式や卒業式等の式典等において、何が何でも国旗を掲揚させ、何が何でも生徒や教師に起立して国歌を斉唱させたいという方々」は、ただそれが昔からの慣習だから当たり前のようにそうしたいということではなくて、何らかの積極的な目的があって、「公立学校における入学式や卒業式等の式典等において、何が何でも国旗を掲揚させ、何が何でも生徒や教師に起立して国歌を斉唱させたい」と考えているのではないかと推測されます。

 「公立学校における入学式や卒業式等の式典等においてついに国歌を斉唱することなく大人になった人々」というのは日本国内にも相当数存在しますし、「我々と価値観を共通する国々」であると我々が思いたがっている国々においてはむしろそちらの方が多数派なのではないかという気がしますが、そのような人々には「公立学校における入学式や卒業式等の式典等においていやいやながらでも国歌を斉唱して大人になった人々にはない問題傾向が顕著にあるということであれば、そのような問題傾向を改善するため、「公立学校における入学式や卒業式等の式典等において、何が何でも国旗を掲揚させ、何が何でも生徒や教師に起立して国歌を斉唱させたい」という考え方にも一理あるので、あとは「公立学校における入学式や卒業式等の式典等においては何が何でも国歌は斉唱したくない」という人々の思想良心の自由とのバランスをどこに置くのかという議論になりますが、「公立学校における入学式や卒業式等の式典等においてついに国歌を斉唱することなく大人になった人々」には特段顕著な問題傾向がないというのであれば、「公立学校における入学式や卒業式等の式典等において、何が何でも国旗を掲揚させ、何が何でも生徒や教師に起立して国歌を斉唱させる」必要性自体に疑問符が付くこととなります。

 ところが、「公立学校における入学式や卒業式等の式典等においてついに国歌を斉唱することなく大人になった人々」にどのような問題傾向が顕著にあるのかという話は、「公立学校における入学式や卒業式等の式典等において、何が何でも国旗を掲揚させ、何が何でも生徒や教師に起立して国歌を斉唱させたいという方々」の側からなかなか聞こえてきません。このあたりが、「公立学校における入学式や卒業式等の式典等において、何が何でも国旗を掲揚させ、何が何でも生徒や教師に起立して国歌を斉唱させること」の是非に関する議論が建設的にならない理由なのではないかという気がします。

 「公立学校における入学式や卒業式等の式典等において、何が何でも国旗を掲揚させ、何が何でも生徒や教師に起立して国歌を斉唱させる」ということは、「公立学校における入学式や卒業式等の式典等においては何が何でも国歌は斉唱したくない」という人々の思想良心の自由を制約することは避けがたいのですから、そのようなことを義務づけることによって実現しようという政策目的の妥当性およびその政策目的を実現するための手段としてより制限的でないものはないのかということを検討するためにも、「公立学校における入学式や卒業式等の式典等において、何が何でも国旗を掲揚させ、何が何でも生徒や教師に起立して国歌を斉唱させる」ことにより実現しようという政策目的をはっきりと表明すべきだと思うのです。

23/09/2006

ネット上でしか消息がわからない者と不在者

【設例】

 Yは、匿名電子掲示板「甲」の管理人である。Xは、「甲」においてその名誉を毀損するコメントを匿名の投稿者により投稿されたものである。Xは、Yに対し、プロバイダ責任制限法第4条第1項に基づく発信者情報開示請求訴訟を提起しようとしたが、Yは、ネット上での消息は確認できるものの、住民票上の最後の住所にはおらず、その後の住所ないし居所は不明であった。

【問1】

 Xは、間接強制金がほしいのではなく実際に問題の投稿者のIPアドレスを開示してもらいたかったので、家庭裁判所に対して、Yについての不在者の財産管理人の選任の申立てをした。この申立ては認められるか。

【問2】

 Zは、Yの不在者財産管理人に就任したものの、「甲」への匿名投稿者のIPアドレスの取得方法がわからず、また、「甲」の運営費用が従前どこから出ていたのかも把握できなかった。そこで、Zは、このまま「甲」の運営を続けていてはYの財産が減少していってしまうだけであると考え、電子掲示板「甲」の運営を中止しようと考えた。Zは、電子掲示板「甲」の運営を中止するにあたって、家庭裁判所の許可を要するか。

【追記】
 別の問題を提示したい方はご自身のブログでどうぞ。

22/09/2006

「gender free」の対義語

 安倍政権下で確実に冷や飯を食らいそうな概念として、「Gender Free」というものがあります。

 もっとも、「gender free」を攻撃している人々は結局何がしたいのかというのは今ひとつ見えてきません、といいますか、「gender free」の反対概念っていったい何なのかということがそもそもよくわかりません。

 著作権関係者の間では、「free」の反対語は「proprietary」なのですが、「gender proprietary」では何のことを言っているのか全くわかりません。まあ、ストールマンさんは、「free software」でいうところの「free」は「ただ」という意味ではなく「自由」という意味だと言うことを常々仰っています。すると、「gender detained」とか「gender bound」とか「gender enslaved」みたいな話になっていくのでしょうか。

 そうなっていくと、「gender free」教育の対極にある「gender enslaved」教育を推し進めるのだってことになると、結局のところ、文科省のお偉いさんの考える「男とはこういうものである」とか「女とはこういうものである」とかという思いこみを子供たちが強制されていくということになって行くものと予想され、それはそれで、実際にはそうなっていない社会との整合性をどうやってつけていくのか(だって、資本主義社会が進展していけば市場における合理性を伴わない「性別に基づく社会的拘束」が顧みられなくなっていくというのはある意味自然の流れですから。)っていうことが問題となっていくのではないかと思われます。

21/09/2006

印税の支払いと債権者取消権

【設例】
 XはYを被告として損害賠償請求訴訟を提起し、勝訴判決を得た(この判決は確定した。)。
 Yは同種の損害賠償請求訴訟を抱えており、その大部分で敗訴していたが、Yの債権者らは、Yの個人資産を把握していなかったため、Yに対する強制執行は功を奏さなかった。
 その後、Yは、Zから依頼を受けて書籍を執筆した。Zは、当該書籍の印税を、XらYの債権者らから差し押さえられる前に、Yに現金で支払った。その後、Yがその印税をどうしたかについてXらYの債権者は把握できていない。

 Xは、Zに対し、ZのYに対する印税の支払いについて、債権者取消権を行使しうるか。

19/09/2006

ジャガイモをデザートに!

Canada.comの報道によると、the Ontario Potato Board の方々は、ジャガイモをデザートとして食べてもらいたいということで、日々頑張っているのだそうです。

 彼らとしては、とりあえずオンタリオ州の市民が、マヤ風のチョコレート&オレンジポテトチーズケーキや、カルダモン・エスプレッソポテトケーキや、パイナップル・マカダミアポテトカップケーキや、ホワイトチョコレート・チェリーアーモンドポテトアイスクリームをエンジョイするのを見てみたいとのことなのですが、英国系のオンタリオ州のケーキ屋さんにレシピの開拓を求めるより、仏国系のケベック州のパティシエに「ジャガイモを使ったデザート」の開発をお願いした方が実りがあるのではないかという気がしなくもありません。

 Mr. Potato Headのがんばりに期待しましょう。

18/09/2006

インタビュー?それとも取調べ?

 テレビのニュースショーで、ある犯罪を犯した疑いがかけられている人物をヤメ検さんが厳しく追及し、その結果、その人物が自殺してしまった場合、彼/彼女を追いつめたヤメ検さんにはどのような責任が生ずるのでしょうか。

 この問題は、今アメリカで結構ホットな話題になっています。というのも、実際にそういう事件が起こったからです。

 ABCの報ずるところによれば、CNNで裁判・法律ニュース番組のホストを務めるNancy Graceさんというヤメ検さんが、Trenton Duckettさん(2歳)が現在もなお行方不明になっている件について、その母親であるMelinda Duckettさん(21歳)を厳しく追及し、その様子をCNN Headline Newsでオンエアしたところ、その直後、Melinda Duckettさんは拳銃自殺をしてしまったとのことです。

 マスメディアが独自の調査報道を行うこと自体は褒められるべきことなのでしょうが、だからといって、その際に他人の人格や尊厳を傷つけても良いと言うことにはなりません。被疑者として取り調べを受けると言うことは、任意のものであったとしても、相当の精神的圧迫感なり屈辱感なりを感じさせることは十分あり得るわけで、しかも、その屈辱的な取調べ場面が全国ネットで流されるということになると、その精神的な苦痛はかなりのものとなることは十分に予想できます。ABCの報道によれば、Nancy Graceさんは、机を叩きながら、「お前はどこにいたのか。あの日お前がどこにいたのかどうして我々に説明しないのか」と激しく追及したとのことです。それは視聴者のカタルシスには寄与するのでしょうが、その分、そのような厳しい追及を受けて答えなかった自分の姿が全国に流されたことを知ったMelinda Duckettさんの精神的な苦痛は相当大きかったのではないかという気がします。

 マスメディアは勝手に正義を気取って一市民を居丈高に追及するのがお好きですが、マスメディアは警察や検察ではないので警察や検察がその職務上の必要性から与えられている権限やこれに類するものを勝手に行使することは許されないし、その警察や検察ですら、「厳しい取り調べを受けている場面」を広く公衆に提示・提供し、被疑者に不要な屈辱を与えるようなまねは許されていません。マスメディアは、報道される側の人権に配慮し、その間違った特権意識から早く目覚めてもらいたいものです。

17/09/2006

小泉ドラマと放送の中立性

 日本テレビは、9月19日午後9時から2時間20分にわたって「総理大臣小泉純一郎 歴史に残る2000日 5つの謎を解く!」という番組を放送する予定とのことです。

「放送の中立性」という観点から見た場合に、現職の総理大臣であり、かつ当面現職の国会議員であり続けることが予定されている人物を主人公とする「再現ドラマ」を放送することはかなり問題なのではないかという気がします。報道によれば、「続いて、総裁候補の安倍晋三、谷垣禎一、麻生太郎の3氏がスタジオで、ドラマを踏まえた討論を行う。」とのことですが、この3者はいずれも現職の閣僚であり、この方々の討論によりどこまで「中立性」を回復できるのかというと結構疑問だったりします。それに、この2時間20分間、政権与党の側の論理のみが、一部ドラマ的に脚色された状態で、全国ネットで放送されるということの影響力というのは、無視し得ないものではないかと思ったりします。

 もちろん、作り方によっては中立性を損なわないようにすることも可能なのですが、小泉政権の主要政策に反対する見解にも配慮した番組作りをする気があるのか、あるいは小泉首相の政敵を「悪者」扱いしたくなる誘惑に勝てるのかというと、どうなのかなあと思わなくもありません。

16/09/2006

甘えているのはどっち

 匿名性が保たれていないと言いたいことが言えない人と、匿名性が保たれていなくとも言いたいことは言えるが言いたいことを言うと匿名の卑怯者からの執拗な誹謗中傷に晒されることが高度の蓋然性をもって予想される場合には言いたいことが言えなくなってしまう人とでは、私の感覚では前者の方が甘えているように思います。この辺の感覚は、同じ弁護士でも、被害者側から依頼を受けた経験の多少で感覚が分かれるところかもしれませんけど、理不尽な誹謗中傷に長期間晒された場合にこれに耐えうる精神の持ち主というのは実際にはそれほど多くなくて、そういう人でなければネット上で正々堂々と意見表明をするべきでないということになると、ネット上で正々堂々と意見表明をする人がどんどん減っていってしまうだけなのかなあという危惧をもったりします。

 まあ、論争を呼びそうな議論はmixiで表現し、ブログは持たないか又はもっても当たり障りのない話題しか書かないという人は結構いるわけですが、社会的に価値が高い意見というのはしばしば論争を呼びがちなのであって、真っ当な論争が誹謗中傷等に埋もれずに済む方法論をブログ事業者が利用者に提供しないが故に、そのような社会的に価値が高い意見がGoogleで検索される範囲内に残らなくなってしまうというのは社会にとって大きな損失ではないかという気がします。Webを巨大な知のデータベースにしようなんて構想は今更流行らないのかもしれないですが、Webで信頼できるのは商用コンテンツだけという事態に向かっていったらとても悲しいなというのが正直な感想です。

 IT事業者としては、どうしても目先のアクセス数に囚われてしまうというのは心情的にわからなくはないのですが、ブログを主体的に開設する人々よりも、そのコメント欄でそのブログ開設者の悪口をぐだぐた言っている人々に優しいシステムというのは、遅かれ早かれ見捨てられてしまうのではないかという気もします。

12/09/2006

各種の仕事に要求される知識や技術を身につけることの困難性の軽視

 介護事業等へのボランティアの義務化とか徴農とかということをかなり右よりの人が言い出す背景には、肉体労働こそが人間の精神を健全化させるというある種の神話がそこにあるのだろうということは予想するに難くありません。さらに、その種の言説の背景を指摘するとすれば、各種の仕事に要求される知識や技術を身につけることの困難性の軽視というのがそこにあるのではないかと思います。介護事業にせよ、農業にせよ、適性のない者が強制されてどうこうなるものでもないし、適性のある者にしても数ヶ月程度では必要な知識や技術が身に付くものではありません。人間は、偉い人が命ずればどんな仕事でもてきぱきこなせるようになるほど器用な存在ではないのです。そのことが、何でも義務化することが好きな人達にはわからないようです。

 そして、各種の仕事に要求される知識や技術を身につけることの困難性の軽視という現象は、昨今の司法改革、とりわけ法曹養成制度改革にも影響を及ぼしています。

 司法試験合格者を500人にするか1000人にするのかというのは弁護士によるリーガルサービスの配分にどこまで市場原理を持ち込むかという話だったのですが、3000人にするとか9000人にするとかという議論は、弁護士業務を行うのに要求される知識や技術を身につけることは誰にでも簡単にできることなのかどうかという次元の話となっています。一応、法科大学院3年&司法修習1年を経ることが当面は求められるので「簡単に」というのは言い過ぎかもしれませんが、従来の法学部4年(+α)&司法修習2年&勤務弁護士としてのOJT数年という標準パターンと比べると、弁護士として独り立ちするまでに要求される修行期間が圧倒的に短いということができます(新制度の下でも司法修習後勤務弁護士としてOJTを受けることができるではないかとの疑問もあり得るところですが、現在弁護士全体で3万弱しかいませんし、まだ弁護士登録して数年という弁護士はOJT教育を施す主体とは通常なり得ないので、毎年3000人もの新規登録弁護士にあまねくOJT教育を施す余裕などないのです。私は、いくら新司法試験合格者を増やそうとも、年間1000ないし1500人を超える部分については、弁護士としてのOJT教育を施されないまま、弁護士として独り立ちするか弁護士にならないことを選択するかを迫られることになると予想しています。)。現場サイドでは、そんなに一気に増やされたって対応できないということはさんざん言っているのですが、偉い人達は、弁護士業務なんて誰でも簡単にできるのに、弁護士どもが既得権を守るために抵抗しているにすぎないと決めてかかっているので、そんな現場の声なんて無視されているのが実情です。

11/09/2006

Anonymity Providerとしての民間私書箱サービス

 Anonymity Providerのひとつに私書箱サービスというのがあります。特に、民間の私書箱サービスは、利用者についての本人確認をまともに行おうとしないところが少なくないため、振り込め詐欺等の犯罪に利用される例が少なくないようです。

 これについては、私書箱利用者への匿名性の提供に一定の制限を加えることによる解決が模索されているようです。

 例えば、毎日新聞によれば、「警視庁捜査2課は今年7月、東京都調布市内で民間私書箱を経営していた男ら3容疑者を詐欺容疑などで逮捕」したとのことです。また、現在のところ、私書箱サービスについては特に業法のようなものは設けられていないようですが、朝日新聞によると、「警察庁は29日、郵便受取代行業者と電話受付代行業者に対し、契約時の本人確認や契約記録の保存などを義務づける方針を決めた。政府が07年の通常国会に提出する犯罪収益やテロ資金の流通を防ぐための犯罪収益流通防止法案(仮称)に盛り込む」とのことです。 

10/09/2006

ハンカチ王子

 早実の斎藤投手に「ハンカチ王子」等というあだ名を付け又は連呼することによって彼に気恥ずかしい思いをさせているマスコミの方々は、反省すべきだと思う。

 もちろん、「ハンカチ王子」と呼ばれて斎藤投手がどう思っているのかは定かにはわからないわけですが、「王子」と呼ばれて気恥ずかしさを感じない人というのは及川光博氏を含むごくわずかな人しかいないはずですし、まして「王子」のまえに付くのが「ハンカチ」ですよ。マスコミの皆様は、自分が高校生のときにそんなあだ名を付けられたらどう思ったことであろうか、冷静に考え直してもらいたいものです。

若者に「命をささげ」させる前に

 「いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があること」を他人に要求する方々が最近お元気ですね。

 こういう方々は、その他人が「祖国のために命をささげる」べき「いざというとき」として、どのような場面を主として想定しているのでしょうか。「ひとつは芸術や文学など幅広い教養を身に付けて大局観で物事を判断することができる」1万人もの「真のエリート」が「祖国のために命を捧げ」なければ国民生活の安寧を保てない事態というのは、そうそう想定できるものではありません。また、1万人の「真のエリート」に「祖国のために命をささげ」させることにより解決できる問題というのもそうそう想定しがたかったりします。

 むしろ、日本が現在おかれている困難の多くが多分に経済的なものであることを考えると、「命をささげる」より「財産をささげ」てくれた方がよほど役に立つのであり、したがって、若者に対して「いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があること」を要求する人々は、その前に、例えば、遺産の大部分を国庫に寄贈する旨の遺言書を作成しようと国会議員や財界人等の富裕者層に要求したり、議員報酬や役員報酬等の収入がそれなりにある高齢者に対して年金の受給を辞退して頂くよう求めたりするのが先なのではないかという気がしなくもありません。

 既にそれ相応の社会的な権力を有している後者の方々に対しては、生きていく上で支障にならない程度の財産を祖国のために捧げることすら求めることができないのに、未だ社会的な権力を有していない前者に対しては意気揚々と「祖国のために命を捧げること」を要求してしまう人々は、「ヘタレ」といわれても仕方がないように思ったりもします。

毛沢東主義が闊歩する「美しい国」?

 次期首相と目されている安倍晋三議員ですが、そのブレーンについては少々考え直した方がよいかもしれません。

 産経新聞によれば、安倍氏側近の下村博文衆院議員は、

例えば、子供たちに、1人で生きているのではなく、社会みんなで助け合って生きているのだと実体験してもらうために、奉仕活動、ボランティア活動を必修化しようという案がある。
と仰っているとのことなのですが、「子供たちに、1人で生きているのではなく、社会みんなで助け合って生きているのだと実体験してもらうため」という主観的な理由というのは、数ヶ月間の強制労働を憲法上正当化するには弱すぎるように思います。

 また、

それから、駄目な教師は辞めさせる。一方で、いい先生の待遇をよくするという体系に変える。親が学校に期待しているのは、いい先生だ。
とのことです。ただ、官邸が考える「いい先生」と親が期待している「いい先生」との間にはかなりの開きがありそうな気がしてなりません。いえ、まあ、何をもって「いい先生」というのかが述べられていないので、定かなことはわからないのですが。

 また、下村議員は、

私は文科政務官をしていたが、文科省にも共産党支持とみられる役人がいる
ということを問題視されているようですが、中央官庁の官僚の中に日本共産党という合法政党を支持する者がいることを問題視すること自体が大問題なのではないかという気がしてなりません。公務員が政治活動を行うことの是非については様々な議論がある(日本以外の先進国でこれを違法としている例を知らないのですが。)にせよ、公務員が特定の野党を支持していること自体を問題視するというのはそれ以前の問題かなと思います。

 「官邸機能の強化には、省庁の局長以上の人事については官僚ではなく政治が任用することが必要だ。」というのは、それはそれで一つの考え方だとは思うのですが、そのためには各政治勢力が「省庁の局長以上の人事」をまかないきれるだけの人材をプールしておく必要があるのですが、大丈夫なのでしょうか。日本のように、閣法中心のシステムでは、省庁の局長以上に要求されるスキルは結構高度なので、それに応えられる人材を養成するのって大変そうです。

 次に、山谷えり子議員は、

カリキュラムを実態に応じて見直すことができるのは、文科省ではなく官邸にきちんとした集団を作ることによって初めて実現する
と仰っているようなのですが、文科省ではだめだが官邸なら「カリキュラムを実態に応じて見直すことができる」きちんとした集団を作ることができるという根拠がよくわからないです。「中学の英語の必修単語を507から100に減らした。学力が落ちるに決まっている。」なんて仰っているようでは先行きが暗そうな気はします。「中学の英語の必修単語を507から100に減らした」→「中学では英単語を100しか教えない」ではないのですし。

 また、稲田朋美議員は、

それから、若者に農業に就かせる「徴農」を実施すれば、ニート問題は解決する。そういった思い切った施策を盛り込むべきだ。
と仰っているようですが、もうクラクラします。そんなこと憲法上許されるわけないではないかということをひとまず措くとしても、「徴農」した後どうする気なのか全く理解不能です。永遠の小作農として人生を全うさせる気なのか、国が責任をもって農地を提供するのか、どうなんでしょう。あるいは、「下放」や「労働改造」で人間の本質は変わりうるという毛沢東主義的な発想なのでしょうか。

 稲田議員はまた、「真のエリートの条件は2つあって、ひとつは芸術や文学など幅広い教養を身に付けて大局観で物事を判断することができる。もうひとつは、いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があること」という藤原正彦お茶の水大教授の発言を引用した上で、「そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない。」と仰っているわけですが、そういう思いこみを押しつけられても子供たちとしては迷惑としかいいようがありません(といいますか、この種の人たちは、「いざというときに祖国のために命をささげる覚悟」みたいな無駄に勇ましい話が好きですね。)。

 大人たちが勝手な思いこみで若者に奉仕を強いたり、労働改造を行ったり、命すら犠牲にすることうぃ要求する国にすると、若者たちはそういう国に生まれ育ったことを誇りに思えるようになるのでしょうか。

08/09/2006

過去30日の検索キーワード上位 2006/9/08

 la causette以降以後の、過去30日分の本館を含めた検索キーワードの上位の順位です。
 ”coup de boule”の人気が光ります。

1 著作権 3.9%
2 まねきTV 3.9%
3 de 3.7%
4 恋のマイアヒ 3.3%
5 まねきTV 3.2%
6 歌詞 2.8%
7 boule 2.1%
8 coup 2.0%
8 オーマイニュース 2.0%
10 法テラス 1.9%
11 Coup 1.9%
12 弁護士 1.9%
13 Boule 1.8%
14 benli 1.6%
15 司法試験 1.5%
16 大橋充直 1.5%
17 基本的人権 1.5%
18 求人 1.2%
19 著作権法 1.0%
20 就職 1.0%
21 winny 0.9%
22 オーマイニュース日本版 0.9%
23 録画ネット 0.9%
24 合格者数 0.8%
25 ロースクール 0.8%
25 世界に一つだけの花 0.8%
27 小倉秀夫 0.8%
28 付帯決議 0.7%
28 ベルヌ条約 0.7%
30 カラオケ法理 0.7%
30 法科大学院 0.7%
32 赤本 0.7%
32 ブログ 0.7%
34 benli 0.6%
35 モナー 0.6%

ゼミ合宿 2006

 9月5日から7日まで、中央大学での著作権法ゼミのゼミ合宿で大阪に行っていました。

 選撮見録事件の高裁での期日の傍聴をしてもらう(この日は、両当事者が30分の持ち時間をあたえられ、その中でプレゼンを行うという、民事訴訟としては異例なことを行うことになっていたので。)のが主たる目的です(だから大阪なのです)。その他、「地裁又は高裁で確定した判決・決定について、自分たちならばこのように上訴(控訴、上告、抗告、準抗告等)するということを発表して下さい。」ということでグループ発表をしてもらいました。まずはどの判決・決定をテーマにするかで明暗が分かれるので、批判的な視座を忘れることなく判例の読み込みを行うことが必要となる課題なのです。

 なお、上記ゼミのメンバーの一人も制作に参加している「多摩探検隊」が「Podcasting Award 2006」の最優秀賞を受賞したとのことです(彼女自身は、何しろ昨日までゼミ合宿だったので、授賞式には参加していないため、授賞式の写真には写っていませんが)。

06/09/2006

そんな立て看板はWinnyにはない。

  中立行為に関する「教唆的幇助意思の理論」では、Winny事件に言及した後に、「「刃物販売店」が「当店で販売している刃物を使えば、簡単に人を殺すことができます」という立て看板を店頭に掲示して刃物を販売した場合、それを見て、現実にある人が刃物を購入して殺人行為に及んだ場合、どのような評価を受けるのだろうか。」等の問題提起をされているようです。

 しかし、「「刃物販売店」が「当店で販売している刃物を使えば、簡単に人を殺すことができます」という立て看板を店頭に掲示して刃物を販売した場合、それを見て、現実にある人が刃物を購入して殺人行為に及んだ」云々というのはWinny事件のメタファーとしては、的がはずれているように思います。「47氏」は、「Winnyを使えば、簡単に他人の著作物の送信可能化行為を行うことができます」という宣伝広告とともにWinnyのダウンロードページを開設していたわけではないからです。

05/09/2006

Sympathy for the moderate

 世の中で普通に社会生活を送っていると、第三者からの様々な要求に日々晒されることになります。そのような要求に晒された人や企業のためにどう対処すべきかをアドバイスすることも私の重要なお仕事の一つです。

 それらの要求の中には、なるほどと思わせるものもあれば、こちらにも言い分はあるけれども受け入れた方が対外的なイメージは良くなるだろうなというものもあれば、こちらの言い分の方が筋がよいとは思うけれども敢えて争わない方がコストバランスが優れているだろうというものもあれば、コストがかかろうとも突っぱねるべきだろうなというものもあります。そして、第三者からの特定の要求がこのうちのどれにあたるかということについて、アドバイスする人ごとにとらえ方が違うことも良くあります。だからこそ、重要な問題に関しては、複数のアドバイザーを呼んで議論をさせたりすることも少なからずあります。

 そして、ここで重要なのは、第三者からの要求に対して強硬姿勢を取ることを推奨する人ほどアドバイジー(アドバイスを受ける人)に対する「愛」が強く、第三者からの要求を受け入れることを推奨する人ほどアドバイジーに対する反感ないし憎しみが強いというふうには一般に捉えられていなかったりするということです。第三者からの要求に対して強硬姿勢を取ることはリスクも大きいため、外野から無責任にアドバイスをするときは気軽に強硬策を推奨しがちなのに対し、実際に現場で責任のある立場でアドバイスを行うとなると、むしろ安全性を重視したアドバイスに傾きがちですが、だからといって必ずしも相手が憎いわけではありません。それどころか、アドバイジーのことを愛すればこそ、心配すればこそ、アドバイジーが危険を冒さないように、周囲と融和的に振る舞うようにアドバイスすることなんて、世の中ではいくらだって見ることができます。

 たとえば、上村愛子さんのブログにわっとネットイナゴが押し寄せたときに、あそこはExciteの公式ブログですし、上村さん自身人気アスリートですから、周囲にアドバイスしてくれる人がたくさんいて、その中には、あの種の人たちをまともに相手にしていても時間の無駄だからとりあえず謝ってしまいなさいというアドバイスをした人がいるのではないかと思っているのですが、そうだとした場合に、そのようなアドバイスをして人は上村さんに対する反感ないし憎しみが強かったからこそそのようなアドバイスをしたのかというとおそらくそうではなく、むしろ上村さんのことを心配する気持ちが強かったからこそそのようなアドバイスをしたのではないかと私は想像します。

 同様に、一国の政府に対して、第三国からの具体的な要求について強硬姿勢を取ることを推奨する人ほど当該国を愛しているとはいえないし、第三国からの具体的な要求についてその全部又は一部を受け入れことを推奨したからといって当該国に反感や憎しみを抱いているとはいえないのです。ところが、国の話になると突然、対外強硬派=愛国者、対外融和派=反日・売国奴というレッテルを貼ってしまう方が跡を絶たないようです。

対外的な競争力と愛国心

(推敲途中で寝てしまったので、削除します。)

04/09/2006

正犯が既に同種犯罪を犯したことを認識している場合の中立的行為と幇助

 包丁等の刃物の小売店が集まっている見本市で、刃物店Xは、その見本市にきていたAから出刃包丁を2本売って欲しいと申し向けられ、これに応諾した。Xは、Aから出刃包丁2本分の代金を受け取ったので、まず、1本の出刃包丁をAに手渡したところ、Aは突然その出刃包丁を振り回して、見本市にきていた人々を斬りつけ回った。ところが、Aは、ある時ふっと不意をつかれて、もっていた出刃包丁をBに取り上げられてしまった。慌てたAは、Xに対し、先ほど購入したもう一本の出刃包丁を手渡すように要求し、Aは、売買契約の履行として、Xに出刃包丁を手渡した。Aは、この出刃包丁をもって、Bに襲いかかり、Bを刺殺した。

【問題】

 Xの罪責は如何。

Web 2.0的なオーマイニュース

 オーマイニュースが発展していく一つの契機としては、既存のテレビや新聞などでは大きく取り上げてもらえない分野についての記事が増えていくことでしょう。

 例えば、スポーツなんかだと、既存のテレビや新聞だと、どうしても野球やサッカーなどの人気スポーツが中心となり、それほど人気がないスポーツに関する記事はどうしても載せてもらえないか、載せてもらってもせいぜい試合結果が掲載されるだけということになりがちです。もちろん、そのマイナースポーツのファンや関係者が独自にウェブやブログを開設すれば思う存分そのスポーツに関する記事を掲載できるとは思いますが、そうすると、そもそもそのスポーツに強い関心がある人以外の人には見てもらえる可能性が少なくなってしまいます。これに対し、マイナースポーツのファンや関係者が市民記者として、そのスポーツに関する重要な試合を、そのスポーツの醍醐味がわかるように生き生きと記事にし、それがオーマイニュースのスポーツ欄に掲載してもらえれば、書き手は自分の好きなスポーツのすばらしさを広く伝えるチャンスとなりますし、読み手としても面白いスポーツを新たに見出すチャンスとなります。

 また、海外在住者による当該国に関するニュース等も、市民記者に十分期待しうるものとなります。既に海外在住者系のブログには現地の状況を伝えてくれる有益なものが少なくありませんが、定期巡回してもらえるほど頻繁にエントリーを立ち上げるのは厳しいけれども何か伝えたいことがあったら投稿したいという人にとっても、また通常であればなかなか関心を持ってもらえないようなマイナーな国について関心を持ってもらいたいという人にとっても、オーマイニュースの枠組みは便利です。

 また、特定の業界に関して起こっていることをニュースとして報ずるのにも、オーマイニュースの枠組みは有益ではないかと思います。どの業界の方々も、自分の業界に関する既存のマスメディアによる報道が薄っぺらで表面的にすぎるという不満を持ったことは一度ならずあるのではないかと思います。例えば、私の業界に関していえば、現在の刑事裁判制度の運用上の具体的な問題などを弁護士等が市民記者として読者に伝えるというのは悪くない話ではないかと思います。もちろん、個々の弁護士や弁護士会等がウェブサイトやブログを開設してそこで思う存分そういう情報を提供することは簡単なのですが、それでは、やはり法律問題に元々特に関心のある人にしか伝われない危険が高いということが言えます。

 まあ、これらは結局、オーマイニュースをポータルとして利用しようということなのです(もちろん、プロのジャーナリストが編集者として付いているので、市民記者が作成した文章に編集者が手を入れたりだめ出ししてくれると、書き手にとっても読み手にとってもより有益といえそうです。)が、個々のブログよりもポータル機能が高く、それでいて2ちゃんねるとは違って下品な雑音が少ないメディアというのは、価値があるように思います。実際、マスメディアの足腰というのは、「ウヨサヨ」で色分けができるような華やかな政治ネタではないところにあるのですから。

03/09/2006

ぶん、ぶん、ぶん

 といっても蜂が飛ぶわけではないのでですが、この夏は、Shana Teshの「Boum boum boum」(歌詞はこちら)が飛ぶ鳥を落とす勢いだったようですね。

 フランスのヒットチャートを見ていると、スペイン語ポップスがフランス国内でもヒットする例というのはそう珍しくないようです。まさに、ポップミュージックは言語境を超えるといったところでしょうか。

02/09/2006

オーマイニュース・シンポ

 今日はオーマイニュースシンポジウムが早稲田で開催されたようです。私も行きたかったのですが、葛飾区の土曜一斉法律相談に参加しなければならず、断念しました。

 さて、上記シンポジウムに参加された山口先生のエントリーおよびこれに対するコメントから派生する話ですが、日本版オーマイニュースが「もうひとつの左翼メディア」で終わってしまうのではないかという危惧を多くの人が有したのは、結局のところ、(オーマイニュースが本来想定しているような)責任ある言論の応酬に耐えられるだけの右派の論客というのを、当の右派勢力すら想定できなかったからではないかという気がしています。

 実をいうと、責任ある言論の応酬に耐えられるだけの右派の論客はいないわけではないと思うのですが、そういう方々は醜悪なショービニズムないしレイシズムに陥らない程度のところで踏みとどまる傾向が強いわけで、「ネットで目覚めた」ネット右翼さんたちのお眼鏡には必ずしも適わなさそうです。かといって彼ら自身は、結局のところ消耗戦に持ち込む戦法しか経験していないので、責任ある言論の応酬に耐えられるだけの能力が涵養されていないし、同じことを続けている限り、涵養される見込みもありません。実際、オーマイニュース日本版創設当初より2ちゃんねる的な手法をオーマイニュースに無理矢理持ち込もうという勢力や、2ちゃんねる的な手法をも取り入れるように要求する勢力等は存在したわけですが、右派論客に対してオーマイニュース的な手法で左翼勢力に対抗するように求めたり、右派論客自らオーマイニュース的な手法で左翼勢力に対抗することを表明するという動きは私が知る限り見られなかったのであり、このあたりは、日本の右派勢力の自信のなさを如実に表しているように思います。

 なお、オーマイニュースの実名制の緩和を求める見解とファクトを求める見解というのは実は両立しないのではないかという気はしています。特に、専ら言語に頼る限り、一次情報の出所がどこかというのはとても重要なので、ファクトの供給源としてオーマイニュースを位置づけたとき、一次情報の出所に必ずたどり着ける状態をオーマイニュースが保持し続けることは不可欠であるように思います。

「日本は左に偏りすぎ」てきたのか

 ネット上では、「日本は今まで左に偏りすぎた」という意見をちらほらと見かけるのですが、少なくとも片山内閣を除けば保守政権がずっと続いている(細川、羽田両氏とももともと保守の人だし、村山政権は実質自民党が牛耳っていたわけだし)戦後の日本について「日本は今まで左に偏りすぎた」と考えている人々は、右とか左とかの判断基準をどこに置いているのでしょう。

 経済政策についていえば、日本はアメリカほどではないにせよ、比較的「小さな政府」ですし、主要政党はさらなる小さな政府を目指すことを公約しているわけですから、むしろ「右」が強いということができます。実際、日本社会は、経済的な格差の比較的大きな社会であり、かつ、貧困層で育った若者に極めて冷淡な政策(だいたい国公立大学の授業料なんて実情を欧州人に説明したら呆れられること必定です。)を継続しています。また、労働者保護法制にしても、日本は他の先進国と比べてかなり見劣りがする(特に、非正規雇用に対する扱いはかなり酷いですね。)し、実際労働者がストライキを起こすことについて国民がこれだけ冷淡な社会というのも珍しい(フランスほど寛容な社会も珍しいですが。)のであって、このような社会を「左に偏りすぎ」というのはいかがなものかという気がします。

 人種・少数民族政策という点についていうと、国籍の取得に関して血統主義を採用しており、また、「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」とする国際人権規約B規約第20条第2項やら人種差別撤廃条約4条を留保してしまったりしているし、いまだに人種差別撤廃条約に対応した国内法の整備を行っていないわけですから、このような社会を「左に偏りすぎ」というのはいかがなものかという気がします。

 特定の宗教上の理念ないし倫理の国政への反映という点からみると、戦後の日本は比較的これを回避する方向にあったのに対し、近時は特定の宗教上の理念ないし倫理の国政への反映を声高に主張する勢力が力をつけてきたという感じはします。ただ、特定の宗教(とりわけその国で最も支配的な宗教)上の理念ないし倫理の国政への反映させよという政治勢力のことは、一般には宗教右派ないし極右にカテゴライズされますので、そのような人たちが支配的でなかったこれまでの日本社会を「左に偏りすぎ」というのはいかがなものかという気がします。

 歴史教育という点から見ると、日本の検定済み教科書およびセンター試験(共通一次を含む)の歴史の試験問題や都立高校の入試問題を見る限り、とりわけ「日本が全て悪い」的な教育が制度として行われてきたことを示すものはありません。もちろん、日韓併合や日中戦争、第二次世界大戦中の日本についてはこれをある程度ネガティブに捉えることが制度として予定されているわけですが、国際社会の中でネガティブに捉えられている自国の歴史上の汚点をなかったことにしてみたり、それをネガティブに捉えることが間違っていると強弁してみたりすることこそがむしろ右派の所業として考えられているのであって(ドイツにおけるガス室なかった派の扱いやフランスにおけるアルジェリアへの植民地支配は悪くなかった派への扱い等を参照。)、そういうことをせず、悪かったことは素直に悪かったと自省をする見解が支配的であったことをもって日本社会を「左に偏りすぎ」というのはいかがなものかという気がします。

奉仕活動の強制と階級の固定化

 安倍晋三議員は、「政権構想の柱となる「教育再生」の一環として、国公立大学の入学時期を9月に変更し、高校卒業から大学入学までの間に社会奉仕活動を義務付ける改革案の検討を始めた」のだそうです。

 最初から支配する側の人間として生まれ育った方は、下々に義務を課すのが好きなのだなあというのが正直な感想です。未だ十分な財産形成を果たしていない若者に対して半年間も無報酬ないし低賃金の労働を義務づけるという発想が「再チャレンジ」をテーマにする政治家とも思えなかったりします。どうせ、大学生の生活費なんて親が出してくれるから半年くらいどってことないというくらいに考えているのでしょうが、親のすねを齧って生きていかれる若者しか視野に入っていない時点で、もはや彼の目には一握りの恵まれた国民しか「国民」として見てくれていないのではないかと強く疑ってしまいます。

 資格や学歴が全てではないにせよ、特筆すべき経験を有していない若者が資本主義社会の中で一定の金銭評価を受けるためにはそれなりに高く評価されている資格なり学歴なりを身に付けるのが近道の一つであることは否めない事実であって、それ故に、社会に出て労働市場に本格参入する時間をある程度遅らせてまで大学に入学したり、資格試験に向けての勉強に没頭したりするわけですが、それは、その若者がその学歴なり資格なりを習得するまでの期間無収入でも耐えられるだけの経済力がその家庭にあって初めて可能なのであり、その学歴なり資格なりを習得するのに要する期間が長くなればなるほどその習得に参加できる人の数が減少していってしまいます。法科大学院をはじめとする各種の専門職大学院構想のあたりから感じていることですが、現在の与党議員のほとんどが貧しさの経験のない二世議員であることに起因しているのか、無収入期間が長期化すると経済的に対応できない人々の存在を軽んじた改革が昨今大流行で困ったものだなあというのが正直な感想です。

 もちろん、その資格なり学歴なりを付与するにあたってはこれだけのカリキュラムをこなしてもらわなければならず、そのためにはこれだけの年月が最低限必要だというのであればそれは仕方がない面もあるのですが(でも、安倍議員が「価値観を共有している」と勝手に思いこんでいる欧州諸国では、授業料はただかただ同然で、未就労期間中の生活費を給付制の奨学金によって賄えるようにすることによって、教育を受けている期間の長期化が経済力の乏しい家庭出身の若者の将来選択の幅を閉ざさないような努力をしているのであって、単に「仕方がない」ではすまさないのですが)、「社会奉仕活動を一定期間義務づければモラルの改善に繋がるに違いない」という勝手な思いつきで無収入期間を延長するというのは、無意味といいますか、有害以外の何者でもないと言わざるを得ません。

01/09/2006

他者がどうあろうとも

 インターネットを利用した違法な情報の流布に関しては、日本では、日本国内だけ規制しても国外設置サーバで同様の情報が流布されれば実効性がないのだから、違法な情報の流布を抑制するような措置をとっても仕方がないのであって、ネット事業者にそのような手間をかけさせるべきではないという見解をとっている人が少ないないようです。確かに、例えば、レイプ魔に撮影されて匿名掲示板にアップロードされた被害少女の写真について、日本国内の事業者に削除義務を負わせたところで、国外事業者が管理する匿名掲示板にアップロードされればどうしようもないといえなくもないし、そのような場合にそのような写真をアップロードした人の割り出しに協力する義務を国内事業者に負わせれば最初からそのような写真は国外事業者が管理する匿名掲示板にアップロードされるだけであり、結局のところ、国外事業者が競争上優位に立ってしまうということはあるいはいえるのかもしれません。が、だからといって、国内事業者に対しても、そのような写真の削除義務や犯人割り出しへの協力義務を認めるべきではないという議論には、私は賛同しがたいものがあります。他者がどのように行動するかはともかく、自分は犯罪に与しないという矜恃を保つことこそ、自律した大人のとるべき態度だというべきです。そして、そういう大人たちの毅然とした態度が積み重ねられていくことによって、法秩序は回復されていきます。

 そういう意味では、英国のオンライン読者をロンドンのテロ容疑者摘発の記事から遮断するというNew York Timesの決定は、他者の行動次第では実効性を失うとしても、自分は犯罪には与しないという矜恃を保った例として、注目に値するといえます。もちろん、New York Timesは、そういう倫理的な動機から今回の決定を下したのではなく、万が一の法的リスクを回避するためにそうしたのだという見方も十分あり得るとは思いますが、「どうせ誰かがやるから俺はやめない」という言い訳を認めなければ法的リスクを怖れて「他者がどのように行動するかはともかく、自分は犯罪に与しない」という人が増えていくのであれば、それはそれで法秩序の回復にはそれなりに役立ちそうです(もちろん、完全ではありませんが、「完全でなければ何もしない」というのでは、無法地帯しかできあがりません。)。

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