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26/09/2006

君が代訴訟論争に見られる保守の退潮

 東京都の君が代訴訟で教師たちに生徒への配慮を求める人々は、所沢高校入学式問題で生徒たちの意向に反して入学式で君が代を斉唱させようとして混乱を招いた校長や県教育委員会に対し生徒たちへの配慮を求めていたのかというと、それはそれで結構疑問です。

 生徒たちへの配慮を求めるということであれば、入学式や卒業式での式次第を決めるときに、どの歌を斉唱したいかについて生徒たちの意向を反映させるのが筋というものです。しかし、「国歌を斉唱させる」というのは文科省および教育委員会が、生徒の意向とは関係なしに、トップダウン的に指示しているものであって、そこにははなから生徒たちへの配慮などありません。

 この入学式・卒業式での日の丸掲揚・君が代斉唱問題というのは、それまで地域ごとに、あるいは学校ごとに、各式典の式次第については多様な伝統があったにもかかわらず、高石文部事務次官が全国一律に日の丸掲揚・君が代の斉唱を行うことを求めたことに端を発しています。この問題は、そもそも義務づける側の、生徒を中心とする参加者の意向および各地域や学校の伝統を踏みにじる全体主義思想から始まっているのです。

 本来の保守というのは、中央権力が地域社会を含めた部分社会の意向や伝統を蔑ろにして自分たちが頭の中で考えた「理想の国民像」を全国一律に押しつけることに対しても懐疑的であるはずであって、そういう意味では、入学式・卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱の全国一律の義務づけに反対ないし懐疑的なのが中道〜左派にほぼ限定されているという現象は、日本の保守層の弱体化を物語っているような気がします。

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Commentaires

 行政や上司の理不尽な指令に対して不服従をもって戦う姿を見苦しいと考えるのはそれはそれで党派的ですね。

 民主主義国においても、行政府の命令に敢えて従わないことはまああるし、そういう人々が民主主義自体に否定的かというとそうでもなくて、民主主義に立憲主義を組み合わせて捉えているとかそういう次元の問題だったりします。

 行政府の命令が不当だと考えたからこれに敢えて従わないことし、そのことによって行政府から処分が下されたから、司法種の判断を仰ぐことにしたというのは、米国等の民主主義国においてはしばしばあることであって、そういう意味では、昨今の司法改革が目指す「法化社会」という観点からは望ましいこととすらいうことができそうです。

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