他者がどうあろうとも
インターネットを利用した違法な情報の流布に関しては、日本では、日本国内だけ規制しても国外設置サーバで同様の情報が流布されれば実効性がないのだから、違法な情報の流布を抑制するような措置をとっても仕方がないのであって、ネット事業者にそのような手間をかけさせるべきではないという見解をとっている人が少ないないようです。確かに、例えば、レイプ魔に撮影されて匿名掲示板にアップロードされた被害少女の写真について、日本国内の事業者に削除義務を負わせたところで、国外事業者が管理する匿名掲示板にアップロードされればどうしようもないといえなくもないし、そのような場合にそのような写真をアップロードした人の割り出しに協力する義務を国内事業者に負わせれば最初からそのような写真は国外事業者が管理する匿名掲示板にアップロードされるだけであり、結局のところ、国外事業者が競争上優位に立ってしまうということはあるいはいえるのかもしれません。が、だからといって、国内事業者に対しても、そのような写真の削除義務や犯人割り出しへの協力義務を認めるべきではないという議論には、私は賛同しがたいものがあります。他者がどのように行動するかはともかく、自分は犯罪に与しないという矜恃を保つことこそ、自律した大人のとるべき態度だというべきです。そして、そういう大人たちの毅然とした態度が積み重ねられていくことによって、法秩序は回復されていきます。
そういう意味では、英国のオンライン読者をロンドンのテロ容疑者摘発の記事から遮断するというNew York Timesの決定は、他者の行動次第では実効性を失うとしても、自分は犯罪には与しないという矜恃を保った例として、注目に値するといえます。もちろん、New York Timesは、そういう倫理的な動機から今回の決定を下したのではなく、万が一の法的リスクを回避するためにそうしたのだという見方も十分あり得るとは思いますが、「どうせ誰かがやるから俺はやめない」という言い訳を認めなければ法的リスクを怖れて「他者がどのように行動するかはともかく、自分は犯罪に与しない」という人が増えていくのであれば、それはそれで法秩序の回復にはそれなりに役立ちそうです(もちろん、完全ではありませんが、「完全でなければ何もしない」というのでは、無法地帯しかできあがりません。)。
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