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30/09/2006

理不尽が押し寄せてきたときの選択肢

 理不尽が自分の身に押し寄せてきたときに、「これに屈従するか、あるいは、その場から逃げ出すか」しか選択の余地がないわけではなく、「理不尽と戦ってみせる」というのも一つの有力な選択肢です。実際、私たちが現在生きている社会が現在そうある程度の快適さを保っている理由に一つに、堂々と理不尽と戦ってみせた先人たちの成果の蓄積があります。

 卒業式での国歌斉唱強制問題について、「歌いたくなければ教師を辞めればいい」云々という人々の頭の中には、理不尽に対しては「これに屈従するか、あるいは、その場から逃げ出すか」しか選択の余地がないという精神、いわば奴隷根性が染みついてしまっているのではないかという危惧がないわけではありません。

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Commentaires

> サスケットさんや弁天小僧さんが理解できないのは仕方がないですが(所詮は、法的なものの考え方については素人ですから。)

これって「侮辱」でしょう。不愉快です。小倉さんの辞書には「常識」という言葉はないのでしょうか。討論技法だからと言って、人を小馬鹿にしたような物言いは止めた方が良いと思いますよ。

 今回の事件では、件の教員たちは、卒業式で国旗が掲揚され、国歌が斉唱されるということ自体は、少なくとも卒業式当日は妨害していないわけで、「卒業式で起立して国歌を斉唱したい人」の権利は尊重しているのです。そういう意味では、歌いたい人と歌いたくない人との間の利害調整はうまくいっているのです。
 
 その上でいうと、その時々で権力を握っている人がその権力を駆使して自己のイデオロギーを他者に押しつけることができ、その他者は権力を奪還するまではそのイデオロギーを押しつけられることを少なくとも外形的な行動としては甘受しなければならない社会というのは、他の西側先進国とは同じ価値観を有していないとの誹りを受けてまで維持したくなるようなものでは到底ないように思うのです。米国とは異なる立憲民主主義のあり方はあり得るといってみたところで、それは、あまり楽しそうではない社会です。
 何も旧ソ連等の悪いところを導入する必要はないと思うのです。

 「進化論を教える」というのは理科ないし生物学を教える教師にとっては本来的な職務なのですが、卒業式で起立して国歌を斉唱するというのは教師の本来的な職務ではないですから、同列に扱うべきではないのです。
 ある種のイベントコンパニオンにとっては、イベント会場において水着姿になるということは本来的な職務であるとしても、学校の教員にとっては入学式で水着姿になるというのは本来的な職務ではないようなものです。
 
 

「ディスティンクション」って何で別扱いされるのかを説明しないとあまり意味がないです。

国歌を演奏し、国旗を掲揚している場面での起立を義務づけることすら意見としている米国判例において、国歌の斉唱を義務づけることを合憲とするであろうという予測というのは立ちにくいです。

君が代の斉唱と水着の着用やキリスト像の踏み絵とは違うという方については、それを精神的に苦痛と感ずるか否かについては多数派が決定しうるものではないということを無視した意見かなあという気がします。多数派の支持を得て君が代が「国歌」と定められたということから、君が代を斉唱するという行為が中立的行為であるという結論は導かれませんし(ex.インドの「国民歌」を立法によって「国歌」に昇格させたところで、これを歌わされることに耐えられないイスラム教徒やシーク教徒は納得しないでしょう。まあ、インド政府には、そのような対立のある歌を「国歌」にしない程度の配慮があったのに対し、日本政府には、そのような配慮がなかったということなのかもしれません。)。

あと、長くなる場合は、ご自身のブログのエントリーとして立ち上げてトラックバックを送って下さい。

 サスケットさんや弁天小僧さんが理解できないのは仕方がないですが(所詮は、法的なものの考え方については素人ですから。)、こうさんが理解できないのはこうさんにとって困ったものではないかなあという気がします。
 「左側のバイアス」ってどこを基準にした上での「左」なのかということはよくわからないのですが、私の一連のエントリーやコメントは、立憲民主主義に立脚しているのであって、それを「左側のバイアス」といわれてしまうと、米国ですらサヨク国歌ということにされてしまいそうです(なお、今回の裁判は、米国連邦最高裁なら判例変更がない限り原告勝訴で終わると思います。)。この立場からは、上から押しつけるものが国歌の斉唱であれ、水着の着用であれ、キリスト像への踏み絵であれ、これを押しつけることは原則許されないということになります。卒業式に参加した教師の一部が国歌の斉唱に参加しなかったとしても卒業式自体は円滑に行うことが可能なのですから、卒業式に参加する教員であるということは、国歌の斉唱を強制されることを受任しなければならない理由とはなりません。

 「内心は自由なんだから、キリストの像を足で踏みにじりながら、キリストを神であり神の子でありかつ精霊であると思っていれば良いではないか」ということで、学校教育で「踏み絵」を強要されても納得いかないキリスト教徒って多いのではないかと思うのですよ。
 「内心は自由なんだから、現首相が祝電を送った先の大規模な結婚式を主催する宗教団体の開祖をメシアとして讃える歌を歌いながら(或いは口パクで)、当該開祖を呪ってもいいと思うんですけどね。」といわれても、それに納得できる人も少ないように思いますね。

 たかだか起立して「天皇による治世が長らく続きますように」と歌わないだけで『教師が仕事を放棄して、自分のことばっかりやってる』といわれてしまうのもどうかという感じがしますね。
 自分が現実社会では正当な権利も主張できないヘタレだからといって現実社会で理不尽と戦う人々を「見苦しい」と見るのはまあ見苦しいかなあという気はしなくはありません。

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