« septembre 2006 | Accueil | novembre 2006 »

octobre 2006

26/10/2006

「無断リンク禁止」問題のメタファー

 「無断リンク禁止」問題をメタファーを用いて論ずるのであれば、「自宅や店舗を地図に載せることの禁止」の是非くらいが適当なのではないかという気がします。

言論の自由を確保を匿名性の保障によりなそうとすると弊害が大きすぎてバランスを欠いてしまう

落合先生

匿名性があるからこそ、主張したいことが自由に主張できる、自由な言論が根底から支えられる、という側面も、見逃すべきではないと私は思います。
と仰っています。

 しかし、私たちが追及すべきは、匿名性になど頼らなくとも主張したいことが自由に主張できる社会であって、匿名の陰に隠れなければ主張したいことが主張できない社会などというのは「自由な言論が保障された社会」というに値しません。

 もちろん、「主張したいことが自由に主張できる社会」といっても、事実無根のデマや誹謗中傷あるいは執拗なストーキング行為等は、その被害者の人権を大いに損ねるが故に一定の制約を受けるべきなのですが、発言者の匿名性を保障することによって「主張したいことが自由に主張できる」社会を構築しようとした場合、被害者の人権を大いに損ねるが故に例外的に規制すべき言論についてまで「やりたい放題にできる社会」になり果ててしまいます。

 私には、匿名の陰に隠れた場合に限って主張したいことが自由に主張できる社会を構築するために、匿名の陰に隠れさえすればどんな酷いことをいっても逃げおおせることにしてしまうというのが、そんなにバランスのとれた話であるようには思われません。実名だと政府批判をしただけで逮捕され実刑に処せられるが、匿名の陰に隠れればクラスのいけ好かない子に執拗に死ねと要求し続けてついにその子を自殺に追いつめても一切法的な責任を課せられることがない社会というのがバランスのとれた自由な社会であるとは思えません。

 

25/10/2006

匿名の卑怯者への対処方法を公教育で教えるとしたら

 私の「ブログ事業者がなすべき事前説明」というエントリーについて、はてなブックマークで「 んなもん、義務教育のうちに教えとけ。」というコメントがついています。

 では、ブログにおけるコメント欄についての社会の「ルール」を学校教育で教えることとなった場合、どのような教え方がなされるでしょうか。

 「ブログ主がブログのコメント欄を開放し、誰でもコメントを投稿できるようにした以上、ブログ主は、現実社会では受忍限度を超えるものと評価されるであろう誹謗中傷でも受忍しなければならない」という教え方がなされる可能性は、残念ながらないように思います。むしろ、「ブログ主がブログのコメント欄を開放し、誰でもコメントを投稿できるようにしたからといって、匿名の陰に隠れてブログ主等を誹謗中傷するようなコメントを投稿してはいけません」という教え方がなされる可能性の方がはるかに高いように思います。学校教育においては、「違法な行為でも見つからなければやって構わない」ということは教えない傾向が強いからです。

 では、「ブログ事業者は、匿名者による誹謗中傷コメントの執拗な投稿がなされているときに、ブログ主の側に立って必要な対策を講ずることはないから、現実社会では受忍限度を超えるものと評価されるであろう誹謗中傷を受忍できない人は、コメント欄付きのブログを開設してはいけない」という教え方がなされる可能性はあるでしょうか。「ブログ事業者は、匿名者による誹謗中傷コメントの執拗な投稿がなされているときに、ブログ主の側に立って必要な対策を講ずることはない」というのは現在の日本の主な商用ブログサービスについては大凡そうであるものの、それを普遍的なものとして現場で教えてしまうものかということには疑問の余地がないわけではなく、個別の教師が現在の現実を踏まえてそのように教えることはあり得なくはないにせよ、教科書的な教え方としてはそのような教え方をするのは難しそうです。

 では、「匿名者による誹謗中傷コメントの執拗な投稿がなされているときにブログ主の側に立って必要な対策を講ずることはないブログ事業者が提供するブログサービスにおいては、現実社会では受忍限度を超えるものと評価されるであろう誹謗中傷を受忍できない人は、コメント欄付きのブログを開設してはいけない」との教え方がなされる可能性はどうでしょうか。これなら悪くはなさそうですが、ただ、「匿名者による誹謗中傷コメントの執拗な投稿がなされているときにブログ主の側に立って必要な対策を講ずることはない」ブログかどうかが前もって示されていない現状では、どのブログ事業者が提供するブログサービスならば、現実社会では受忍限度を超えるものと評価されるであろう誹謗中傷を受忍できない人でも、コメント欄付きのブログを開設できるのかと質問されると、現場の教師は困ってしまいそうです。また、不法がおおっぴらにまかり通っているときにその不法を自分だけ避けて済ませるという生き方を公教育の中で当然のこととして教えてしまうことには、躊躇を感ずる向きも多いのではないかと思います。

23/10/2006

「匿名でなければ語れないこと」って?

 「匿名でなければ語れないことがある」といって匿名での発言を擁護する人々が実際に匿名で語っていることが、「匿名で語れることによる弊害を甘受してでも語って頂きたい」ものではない場合、匿名で語れることによる弊害に眉をひそめている人々に対しては説得力を持たなかったりします。まあ、「匿名でなければ語れないことがある」といって匿名での発言を擁護する人々が実際に匿名で語っていることが「そういうことが語れてしまうこと自体が匿名で語れることによる弊害ではないか」という類のものである場合はなにをか況やという気になってしまうことはいうまでもありません。

22/10/2006

闘わない奴等が笑っている姿の醜さ

 国歌を斉唱したくなければ公立学校の教師を辞めろとか日本から出て行けとかいう人の発想と、誹謗中傷されたくなければコメント欄を閉鎖しろという人の発想はよく似ています。この発想は、人間としての尊厳を奪われたくないというのであれば、人間としての尊厳が尊重されない場から勝手に立ち去ればよいのであって、その場に居続けながらにして人間としての尊厳を奪われたくないというのはわがままだとするものです。この発想は、「いじめられたくなければ学校に来なければいい」とか「セクハラされたくなければ会社に来なければいい」という考え方に繋がります。

 この発想は、しかしながら、基本的人権の尊重擁護を謳う西側先進国の一員たるわが国における基本ルールとしては認められるべきではないものです。公立学校の教師は国歌を斉唱するために雇われたものではなく、ブログ主は誹謗中傷を受けるためにブログを開設しコメント欄を設置することを許されたものではなく、女性労働者はセクハラを受けるために雇われたものではなく、生徒はいじめを受けるために入学を許されたものではありません。したがって、教師も、ブログ主も、女性労働者も、生徒も、自らの意思でそのような場に入り、そしてそこに居続けているからといって、そこで行われる人格権の侵害を甘受しなければならないという理屈はありません。彼ら・彼女らは、そこで人格権侵害が横行していることに抗議の声を上げ、そこで横行している人格権侵害を撲滅するための具体的な措置を場の提供者に求めることができるのです。

 中島みゆきは「ファイト!」という歌の中で繰り返し「闘う君の唄を 闘わない奴等が 笑うだろう」と歌っていますが、ネット上には、闘わない人が闘う人達を笑う(「嗤う」という字をあてた方がよいでしょうか?)声で満ちあふれています。嗤うだけにとどまらず、「闘うな」、「長いものに巻かれろ」というメッセージを醜悪な表現方法で必死に投げつけ続けています。闘う勇気がなかった彼らは、闘う者に対する嫉妬心等から、闘わなかった自分を正当化して自尊心を保つためか、闘う者をネガティブに表現することに腐心しています。しかし、その努力は、自分が闘わなかった結果流れ落ちていった境遇の改善には繋がりません。匿名の陰に隠れているが故に第三者からはそれが自分の姿だと気付かれる危険が小さいにせよ、必死の形相で他人に嫌がらせをする醜い敗北者に自分を貶めるだけのことです。

自社が提供する場で執拗に行われる嫌がらせ等に関する学校等の責任とブログ事業者の責任の異同

 学校において特定の生徒が執拗な嫌がらせを受けていることを知りまたは知り得べきだったのに、学校側がこれを漫然と放置し、その結果、その生徒が登校拒否に陥ったり、自殺したりすれば、学校は批判を浴び、責任をとらされることになります。

 この場合において、「学校(≒業者)が利用者(≒生徒)の起こしたもめ事に首を突っ込めってこと」とか「学校に登校するってのは、肯定的でも否定的でもなんでも来いや、何時でも誰の挑戦でも受ける、ってことはないのかしらん」なんて疑問は出てこないわけです。

 もちろん、学校等で他人と接触して生きていく上では常に肯定的な言葉をかけてもらえるとは限らず、他人から批判的な言葉をかけられることはあると思うし、ある程度はそれを受忍することも必要でしょう。しかし、否定的な言葉の内容、具体的な表現態様、分量、頻度、継続期間によっては受忍限度を超えることになります。人間の心なんてそんなに強いものではありません。だから、学校内において言葉によるいじめが放置されれば、しばしば悲劇的な結末を迎えることになるし、だからこそ学校は生徒同士でいじめが行われていないかを常に中止し、これを防止または中止することが求められています。

 また、高校以上は義務教育ではないし、中学以下だって生徒に登校義務があるのではなく、生徒を登校させる義務が保護者にあるにすぎませんから、学校において執拗な嫌がらせを受けるのがいやならばその生徒が学校に来ないということは法的には可能なのですが、だからといって、「自分は学校に登校したいが執拗な嫌がらせは受けたくないから、執拗な嫌がらせをやめさせてくれというのはわがままだ。その生徒に嫌がらせをしてその生徒を排除したいと思っている他の生徒の思想良心の自由はどうなるのだ」とかそういうことを真顔でいえる人には会ったことがありません。

 ここではとりあえず学校の例を出していますが、人と人とが接触する場を提供する事業者(国・地方公共団体等が運営するものを含む)は、その提供する場において、執拗な嫌がらせが行われていることを知りまたは知り得べきだったのにこれを放置した場合には、そのことに起因する損害について責任を負わされる危険が十分にあります。

 で、ネット事業者だけがその種の責任から解放される合理的な理由はありません。「コメントやトラックバックを受け付けてるってのは、肯定的でも否定的でもなんでも来いや、何時でも誰の挑戦でも受ける、ってことじゃないのかしらん。」というご意見もあるようですが、コメント欄つきのブログを開設する一般ユーザーのうち、通常人の受忍限度を超えるような執拗な嫌がらせや誹謗中傷でもなんでも自分は受けて立つのだというほどの認識を持っている人がどれだけいるのかというと、実はあまりいないのではないかと思います。あるいは、「炎上は炎上される側に責任があるのだ」というネット上に流れるデマを信じて、「自分は問題のある発言はしないから、その種の嫌がらせを受けることはない」と信じているだけなのかもしれません。まさか、亀田選手の世界タイトルマッチを観戦して感動した旨を表明しただけで執拗な嫌がらせを受けるとは普通は予測していないと思いますし。

 ブログ事業者は、自社が提供するブログにおいては「コメントやトラックバックを受け付けてるってのは、肯定的でも否定的でもなんでも来いや、何時でも誰の挑戦でも受ける、ってこと」にするのであれば、その旨を予め表示しておくべきなのではないかというのが、前回のエントリーの趣旨です。「コメント欄つきのブログを開設した以上は、一般社会では受忍限度を超えるとされるような執拗な嫌がらせや誹謗中傷をコメント欄で受けてもこれを甘受しなければいけない」ということは一般のブログ開設者には必ずしも共有されていないのだから、ブログ事業者として、そういうローカルルールを設定するのであれば、予めその旨を登録時にわかりやすく説明しておきましょうという話であって、何故その程度のことに反対する人がいるのかは理解しがたいところです。利用者にある種の不利益が発生する蓋然性のあるサービスを提供する際にその不利益に関する説明を予めしておくなんて、現代の経済社会の中では当たり前のことではないですか。

 そういう説明をわかりやすくした上であれば、その会社が提供するブログサービスにおいては、「コメントやトラックバックを受け付けてるってのは、肯定的でも否定的でもなんでも来いや、何時でも誰の挑戦でも受ける、ってこと」であって、通常人の受忍限度を超えるような執拗な嫌がらせや誹謗中傷を受けても我慢せよということができるのかもしれない(まあ、それでも、人格に関することだからそうはならないかもしれませんが)ですが、実際には、私が登録手続をしたブログサービスにおいては一つも、「コメントを受け付ける以上は、どのような執拗な嫌がらせや誹謗中傷を受けても甘受して下さい」と書いてあるものはなかったし、一般論としても、「コメント欄つきのブログを開設した以上はそのコメント欄においてなされる執拗な嫌がらせや誹謗中傷について高度の受忍義務を負う」という見解は、少なくとも法律関係者の中では、ほとんど支持されていません(「対抗言論の法理」自体時代遅れの感がありますし、その他、ブログのコメント欄を治外法権の場にすべき理由はありませんし。)。

 それはそれで、そこのブログでは、自分が体験したこと、実際に取り組もうとしていること、あるいは研究の成果等を正直に表明するということは危険だということになりますから、そういうことをしたい人は他のブログサービスを選択すればよいということになります。

 まあ、だいたい「コメントやトラックバックを受け付けてるってのは、肯定的でも否定的でもなんでも来いや、何時でも誰の挑戦でも受ける、ってこと」なんてことを言い出す人に限って、「特定の発言を公言するってのは、その発言を公言したことによる倫理的、法的責任を甘受する、ってこと」ってことには耐えられず、匿名でその種の発言をしていたりするわけで、自分が甘受できないこと以上のことを他人に甘受するように身勝手に要求しているにすぎない人だったりするのは結構滑稽です。

21/10/2006

ブログ事業者がなすべき事前説明

 ネットイナゴさんや粘着君からブログ主を守る気がさらさらないブログ事業者は、入会登録時に、「当社のブログサービスを利用してブログを開設した場合、匿名の者による悪意のコメントに継続反復的に晒され、ときには精神的に傷つけられて社会との交流を断ったり自殺に追い込まれることもありますことを予めご承知おき下さい。当社のサービスにおいては、利用者が「匿名でなければいえない」ような誹謗中傷が多数浴びせかけられますように、悪意のコメント投稿者の匿名性を手厚く保障することとしております。匿名の者の執拗な誹謗中傷コメントにより精神的な苦痛を味わいたくない方は、当社のブログサービスのご利用をご遠慮下さいますようお願いいたします。」くらいの注意書きを大きめのフォントで表示した上で、「あなたは、匿名の者による執拗な誹謗中傷を受けて精神的な苦痛を味わいたいですか? Yes/no」というダイヤログで「Yes」ボタンをクリックした人だけがブログサービスを受けられるようにすべきではないかと思わなくはありません。

 ネットイナゴさんや粘着君からブログ主を守る気がさらさらないブログ事業者が、そういうリスク表示をしっかりしないというのは、消費者保護の観点からもまずそうな気がします。

19/10/2006

同格の「の」

 「メディア・リタラシー」という言葉がネットではしばしば用いられます。しかし、イナゴさんや粘着君たちを見ていると、それ以前に、一般的なリタラシー(読解力)が不足しているように思われてなりません。

 例えば、「Anonymous coward」の訳語として私がしばしば用いる「匿名の卑怯者」という表現について、ここで用いられている「の」は「同格の『の』」であり、したがって、「匿名の卑怯者」という語を用いる者は、「匿名」のもの全てが「卑怯者」といっているのだという人々がいます。しかし、どういう国語教育を受けてきたらそのように解釈できるのかというのはとても不思議です。

 「同格」というのは、「文法で、一つの文の中において、語あるいは文節が他の語あるいは文節と、文の構成上の機能が同一の関係にあること」をいいます。したがって、「同格の『の』」の前後の語または文節は、当然「=」ではないものとなります(「同格の『の』」の場合、「〜であって」というふうに置き換えられるのです。)。「同格の『の』」の用例として最も有名なものの一つに「大きなる柑子の木、枝もたわわになりたるが」という徒然草の一節がありますが、もちろん吉田兼好は、「大きなる柑子の木」は全て「枝もたわわになりたる」のだと言っているわけではありません。

 「匿名の卑怯者」の「の」場合、「匿名であって卑怯な者」という意味を表す「同格の『の』」としても意味は通ずるようにも見えますが、普通に「性質・状態」を表す連体修飾格としての格助詞ということで言いように思います。

 もっとも、国文法以前に、「匿名の○○」という表現によって「匿名は全て○○だ」という意味を表す用例を見たことがあるのか考えてみたらよいのではないかと思います。

ニュースジャパンで、サイバーいじめが取り上げられた

 今日のニュースジャパンで、サイバーいじめが取り上げられていました。

 滝川さんも、サイバーいじめを「思想良心の自由」として擁護しようというお考えはないようです。

 やはり、匿名の陰に隠れて他人に不快感を与える喜びを知ってしまった中毒患者さんたちや、その中毒患者さんたちの活動を利用して一儲けたくらむ事業者と、一般人の感覚の乖離というのは大きいようです。

被害者からのクレームを受け付けない特定電気通信役務提供者とプロバイダ責任制限法第3条第1項の免責

 誹謗中傷等の被害者からのクレームを受け付けない特定電気通信役務提供者、あるいは、クレームの内容自体は一般に公開するとすることにより被害者にクレームを躊躇させようとする特定電気通信役務提供者についてまで、問題の特定電気通信がその特定電気通信設備を介して流通していることを知らなかったからといって、プロバイダ責任制限法第3条第1項を適用して損害賠償責任を免責することは妥当でしょうか。

 

 プロバイダ責任制限法第3条第1項の文言を文理解釈すると、特定電気通信役務提供者は、その提供する特定電気通信設備を介してどのような特定電気通信が流通しているのかを知らなければ、それを知らない理由にかかわらず、同項の適用により、当該特定電気通信の流通により第三者が被った損害について、賠償責任を負わないかのように読めます。ただ、そうだとすると、自分が公衆に提供する電子掲示板等の特定電気通信設備においてどのような内容の情報が流通しているのかを知らされないようにことさら画策しておけば、誹謗中傷発言をしてもなかなか削除されない「匿名の卑怯者たちのパラダイス」をリーガルリスクなしで提供できるということになってしまいます。

 

 プロバイダ責任制限法第3条第1項の趣旨は、特定電子通信役務提供者は、その提供する特定電気通信役務の利用者がこれを第三者の権利を違法に侵害する情報の流通に用いた場合に、利用者による権利侵害行為を物理的に可能又は容易にしており、かつ、そのことをある程度の確率をもって予見していた(又は予見できた)といいうることから、幇助者としての共同不法行為責任を負わされる危険があるところ、この危険を回避するためにはその提供する特定電気通信設備を介して流通する特定電気通信を常時監視して、第三者の権利を違法に侵害するおそれのあるものを事前に排除する等の措置を講じなければならないことになるが、それは特定電気通信役務提供者には過大な負担となることから、その特定電気通信設備を用いて流通する全ての特定電気通信設備についてこれが不特定の者に向けて送信される前に内容を確認して違法な権利侵害情報を排除することまでは求めないとする点にあります。したがって、このような立法趣旨からすれば、プロバイダ責任制限法第3条1項によって免責されるのは特定電気通信役務の提供に必然的に伴う物理的な違法行為への関与についての幇助者としての責任に限られるのであって、第三者の権利を侵害するような違法な特定電気通信を発信しようという意思を強化させるような管理・運営をしている特定電気通信役務提供者の、心因的な幇助を行ったということについての共同不法行為責任については、プロバイダ責任制限法第3条第1項により免責すべきではないと言いうるように思います。解釈論としては、同条項において「権利を侵害した情報の不特定の者に対する送信を防止する措置を講ずることが技術的に可能な場合であって」とあるところから、同条項の適用対象は、「送信を防止する措置を講ずることが技術的に可能であったのにそのような措置を講じなかった」(が故に、権利侵害情報が不特定人に送信されてしまった)ことについての損害賠償責任に限定されると読み込むことになるのでしょうか。あるいは、同条項は、権利侵害情報の「流通」による損害を対象としているのであって、権利侵害情報の「発信」については同条項の射程範囲外であると読み込むのでしょうか。

 

 そして、いかなる場合に特定電気通信役務提供者が権利侵害情報の発信を心因的に幇助したのかといいうるのかということが次に問題となりますが、現在の標準的なシステムを前提としてプロバイダ責任制限法第4条第1項の発信者情報開示手続きを考えた場合に自らがなすべき役割を敢えて果たさないこととし、法の趣旨に反して権利侵害情報の発信者の匿名性を高めた場合には、そのことを知った利用者が行った権利侵害情報の発信について心因的な幇助を行ったと見ることができるのではないか(そして、当該特定電気通信役務提供者がそのようにして権利侵害情報の発信者の匿名性を高めていることが不特定人が容易に知りうる状態に置かれている場合には、当該権利侵害情報の発信者はそのことを知っていたという事実上の事実推定を一応してもいいのではないか)と思ったりします。また、権利侵害情報の削除に著しく消極的な特定電気通信役務提供者についても、そのような方針の下で運営されればこそ、長期間にわたって第三者の権利を侵害し続けられるということで、権利侵害情報を発信しようという意欲が増すという意味では心因的な幇助をしているといいうるのではないかと思います。

 したがって、誹謗中傷等の被害者からのクレームを受け付けない特定電気通信役務提供者は、問題の特定電気通信がその特定電気通信設備を介して流通していることを知らなかったとしても、誹謗中傷の幇助者として共同不法行為責任を負うと解することになろうかと思います。

17/10/2006

寓話

 寓話の寓意を素直に受け取るまいと必死にねじ曲げてみせる人の姿を見るのは悲しいことです。

 寓話の寓意を作者に問いただす野暮な人の姿を見るのもまた悲しいことです。

 「所詮、匿名だ」という安心感が人々から小粋な行動を取ろうとする意欲を減退させているとすれば、それもまた悲しいことです。

北風と太陽

 「北風と太陽」の寓話は、既に人口に膾炙しています。

 これから述べるのは、その後日譚です。


 北風と太陽の前を、また外套を着た旅人が通りかかりました。

 北風は、性懲りもなく、旅人に冷たい風を吹き付けて外套を吹き飛ばそうとしました。旅人は案の定外套を吹き飛ばされまいと、しっかりと腕をくみ上げました。

 見かねた太陽は、旅人に暖かい光を浴びせかけて、旅人が自分から外套を脱ぐように仕向けようとしました。が、いくら暖かい光を浴びせかけても、旅人は身を固くして、一向に外套を脱ごうとはしません。

 太陽は、おかしいなあと思って振り返って北風を見ると、今度は、太陽が旅人に暖かい光を浴びせかけている間も、北風は旅人に冷たい風を吹き付けるのを止めません。なるほど、これでは、旅人が自分から外套を脱ぐことはあり得ません

 太陽は北風に言いました。

 「君が冷たい風を吹き付けるのを止めれば、そしてしばらく君が冷たい風を吹き付けることはないと旅人が信頼すれば、旅人は自分から外套を脱ぐから、すこし冷たい風を吹き付けるのを控えてくれないか」

 しかし、北風は太陽にこう答えました。

 「君はさっきから暖かい光を旅人に浴びせかけていたようだが、旅人は外套を脱ごうとしないではないか。君の軟弱な作戦は失敗したのだ。君こそもう私の邪魔をしないでくれ」

 そう答えると、北風は、前にも増して冷たく、強い風を旅人に吹き付けました。

 旅人は、外套を吹き飛ばされたら自分は凍え死んでしまうとばかりに、必死に抵抗を続けました。

 その間、旅人の横を通りかかった犬は吹き飛ばされ、馬も吹き飛ばされ、街路樹はぼきっと折れました。北風は、旅人が苦しそうな顔をするのが楽しいのか、太陽が心配そうな顔をするのが嬉しいのか、景気よく勇ましく冷たい風を旅人に吹き付け続けました。ついには旅人ごと吹き飛ばされてしまいました。旅人は体中が傷だらけになってしまいました。しかし、旅人は、必死の形相で外套を離すまいと抵抗しました。旅人は、ついに岩陰を見つけ、北風が吹きすさぶのを止めるまで、そこに隠れることにしました。

 しばらくたって、北風もさすがに疲れたのか飽きたのか、冷たく強い風を旅人に吹き付けるのを止めました。すかさず、太陽が、岩陰に隠れる旅人の背後から暖かい光を浴びせかけました。

 旅人は、少し様子を見ていましたが、もう冷たい強い風はしばらく吹かなそうだと確信したのか、冷たい風に晒されて冷え切ったからだが暖まってきたのか、最初は外套のボタンを上の方から外していき、次第に、自分から外套を脱ぎ始めました。

16/10/2006

ブログ検索

 ブログ用検索サービスとして一番のお勧めって何なのでしょうか。

 私は最近は何となく、日本語系にはgooのブログ検索を、英文系にはBlogger.comのBlog searchを使っているのですが、「これはいいよ」ってところはありますでしょうか。

  •  検索結果が最終更新日時が新しい順で表示されること、
  •  できるだけ網羅的に検索がなされること、
  •  ブログの標題に検索語が含まれる場合には最新のエントリーのみが表示されること

等の条件を満たしていることがブログ検索には求められると私は思っています。

13/10/2006

記憶の作業を深めること

 「外国の立法」229号92頁以下の高山直也「フランスの植民地支配を肯定する法律とその第4条第2項の廃止について」という論文は、「フランス人引揚者に対する国民の感情及び国民の負担に関する2005年2月23日の法律第2005-158号」(以下、「2005年引揚者法」といいます。)という法律が制定され、そしてその第4条第2項が廃止されるに至る経緯を説明した論文です。

 引揚者法第4条は、次のような条文です(高山氏の訳による)

第4条1 大学の研究科目は、海外、特に北アフリカにおけるフランスの存在の歴史に対し、それにふさわしい位置づけを与える。
2 学校の教科は、海外、特に北アフリカにおけるフランスの存在の肯定的役割を特に認め、これらの領土出身のフランス軍兵士の歴史及び犠牲に対し、当然与えられるべき際だった位置づけを与える。
3 フランス及び外国で利用できる文字及び音声資料のネットワーク化を可能とする相互協力を推進する。

 この法律自体は、アルジェリア独立戦争の際に、現地でフランス軍に雇われたムスリムの補充兵(アルキ)及びその子孫の待遇改善を図ることが主たる目的だったのですが、「海外、特に北アフリカにおけるフランスの存在の肯定的役割を特に認め」というあたりがフランスの過去の植民地政策全般を肯定するものと誤解されてサルコジ内相は西インド諸島のアンティル諸島を訪問する予定だったのにアンティル諸島側から受け入れを拒否されたり、アルジェリアからは友好条約の締結を拒否されるは大変な目にあったわけです。まあ、国内的にも(ってアンティル諸島は国内ですが)、「学校教育の中立性と思想の自由に反して、公定の歴史を押し付けることになる」(高山・前掲)等の批判を浴びてこの法律(特に第4条)の廃止を求める署名活動が起こされてしまったりなんかしたわけです。とはいえ、この法案を廃止しようとすると、UMPやUDF等の右派政党の反対にあって否決されてしまうというまさに手詰まり状態に陥ってしまったわけで、結局、憲法評議会に付託して「学校の教科内容は本率で定める分野には属さない」との判断をもらった上でシラク大統領の命令で第4条第2項についてやっとの事で廃止するに至ったのです。

 この「2005年引揚者法」問題は、日本における敗戦直前の歴史問題との関連でも極めて示唆的です。もちろん、ジダンが何と戦ってきたのかを理解する上でも、フランスとアルジェリアの関係を理解することは有益であり、そのためには「2005年引揚者法」を巡る一連の論争を押さえておくことは望ましいことだといえそうです。

12/10/2006

早く目覚めて

 さくらちゃんとご両親を攻撃している人たちは、さくらちゃんのご両親がその執拗な攻撃にまいってしまって「もう募金は集めません。さくらの手術は望みません」ってことになって、さくらちゃんが移植手術を受けることなく短い一生を終えることになったら、「私たちは、匿名での言論活動によって、これだけのことを成し遂げた」ということで充実感に溢れた人生を送ることができるのでしょうか。

 ネットの匿名性を精一杯活用して、余暇時間を一生懸命活用して、一人の子供を、そしてその子供を支える一つの家族を不幸のどん底に落とそうとするその精神構造に私は付いていくことができません。

 ネットで何かに目覚めた人々は、早くネットの夢から覚めて、人間性に目覚めてほしいものです。

09/10/2006

往生際と保釈不許可事由

 スポーツ報知は、

 東京地裁は5日、一度は植草被告の保釈を許可したものの、東京地検が決定を不服として申し立てた準抗告を認めた。植草被告は4日に起訴されているが、起訴事実を否認している。それだけでなく、現行犯逮捕にもかかわらず「事件は警察のでっち上げ」「電車が揺れて手が触れ、勘違いされたのでは」などと往生際が悪い供述に終始していることが今回の逆転裁定の原因とみられる。
報じていますが、我が国の刑事訴訟法は「往生際が悪い供述に終始している」ことは保釈不許可事由に含めていません(迷惑防止条例違反なら、本来権利保釈の範囲内ですし。)。

 「往生際が悪い」と裁判官が判断してしまうほどその弁解が荒唐無稽であるのならば保釈をしても「罪証隠滅」の虞がないわけですから、むしろさっさと保釈をしましょうという話に繋がるべきではないかとも思います。

 なお、スポーツ報知の記者は「現行犯逮捕にかかわらず」という言い方をして暗に「現行犯逮捕されている以上無実であるわけがないのだから、それにもかかわらずあれこれ弁解するのは往生際が悪い」という感覚を持っているが故にこういう記事を何の疑問も持たずに書いたのでしょうが、痴漢の場合、過去に無罪判決がなされた例だって基本的に「現行犯逮捕」だったりするわけで、現行犯逮捕だから無実であるわけがないとはいえない類型の一つだったりします。

 報道各社は、司法担当記者をレベルアップするべきでしょう。

08/10/2006

諸外国での国歌の取扱い

 右の方の方々の議論を見ていると、日本以外の国々では国民は式典等において自国の国歌を敬意をもって歌っている、それがグローバルスタンダードであるかのように感じられてしまいがちなのですが、ところがその点については必ずしも十分なソースが示されていないように思われます。で、英語の勉強もかねて(休日はできるだけ英文サイトを読むように心がけています。)ちょこちょこと調べてみると、どうもそうは簡単にいえないように思います。


 この記事によると、マレーシアでも国歌を歌わない人が増えているようです。ジンバブエでも「国歌なんて歌えない」という悲痛な叫びがあります(この叫びは、私たちの近未来を暗示しているようで身につまされます。)。

 この記事によると、フランスの教師が「La Marseillais」は人種差別的であるとしてこれを子供たちに教えることのを拒否したり、オーストリアでは保守政党出身の大臣が、国歌において男女が平等に扱われていないとして歌詞の変更を具体的に提案したりしているようです。

  この記事によると、スイス人の3分の1はスイス国歌を知らないし、歌詞を暗記している人はほんの少ししかいないのだそうです。

 この記事を見ると、イギリスでも「God Save The Queen」の評判はぼろぼろです。「most of England's players keep their mouths resolutely shut during the pre-match singing of the national anthem」だそうで、君が代を歌わなかっただけでバッシングされた中田選手がかわいそうになってしまいます。

 米国は米国で、国歌を何語で歌うべきか(英語で歌わないといけないのか)で結構大もめだったりします。ブッシュ大統領は国歌は英語で歌われるべきだと考えているようですが、そうすると、国歌を歌えないアメリカ国民が結構な数に上りそうです。

「黙示の利用許諾」を排除しないで

 中島聡さんの「ネット時代のデジタルライフスタイル」で「時代にマッチした『サイト利用規約』を作ってみた」とのエントリーを立ち上げておられます。その中に、次のような条項があります。

1.当ウェブサイトに記載されている内容(コンテンツ)の著作権は、特に明示していない限り○○○に帰属します。著作権法で定められた「私的使用のための複製」および「引用」以外の目的で、複製・転記などをする場合には○○○の使用許諾が必要です。

 これは、実はちょっと危険です。「私的使用のための複製」の範囲を極めて狭く(業務の一環としての複製だと、その複製物を自分だけがあるいは数人でのみ使用する目的であっても、「私的使用のための複製」にあたらないとする)解釈し、しかも現行の著作権法の解釈として「フェアユース」を認めない通説のもとでは、インターネットに関連して日常的に行われているコンテンツの利用の多くを、「黙示の利用許諾」で処理しています(例えば、仕事に役立てるためにウェブページプリントアウトするとか、検索ロボットがウェブデータをサーバに取り込むとか。)。このため、「著作権法で定められた「私的使用のための複製」および「引用」以外の目的で、複製・転記などをする場合には○○○の使用許諾が必要です。」といわれてしまうと、「黙示の利用許諾」が使いにくくなってしまいます。自分のウェブページはお仕事に役立ててもらいたくないとか、ロボット型検索エンジンに取り込んでもらいたくないとかという固い意思があるのならばともかく、そうでないのならば、こういう文言は入れないのが無難でしょう。

オーマイニュース日本版一ヶ月後のアクセス数

 音羽理史さんの「「死ぬ死ぬ詐欺・まとめサイト」の卑劣さを考える/特定のネットワーク上でしか通用しない「真理」」が掲載されたのが、2006-10-05 07:59。で、「「死ぬ死ぬ詐欺」記事の反響に答える/自分たちの言葉に懸け得るもの」によると、「10月6日午前0時30分現在、アクセス数が 1万3573回でコメント数が73回である。」ということです。このデータから見ると、オーマイニュース日本版のアクセス数というのはかなりのものだなあというのが正直な感想です(これだけのアクセスを集めるというのは音羽さんの記事の力の成果でもあるし、あるいは一覧性に乏しいコメントシステムの成果も多分に含まれているかもしれないのですが、それにしても、1エントリーで1万アクセスくるというのは結構すごいなあと正直思います。しかも超短期間のうちに。)。

市場経済においては「社会のために身をささげようという」人材はいないものと思え

 市場経済のもとでは、それ相応の処遇をしなければ優秀な人材は確保できません。もちろん、「それ相応の処遇」の中には、短期的な収入を高くする(飛び抜けて高くなる現実的な可能性を付与することを含む。)とか、緩やかな収入の上昇を含む安定雇用を保障するとか、次の高収入に繋がる経験を付与する等が含まれます。

 

 「100年に1度の大改革」と専ら関係者によって評されることがある昨今の司法改革においては、弁護士によるリーガルサービスの配分方法として、競争を制限し供給者に超過利潤を与える一方採算を度外視したサービスの提供を供給者に求める「プロフェッションモデル」を止め、市場経済モデルを導入することとなりました。その結果、過当競争による脱落者を作ることを目的として、現在人数の1割程度を増員する法曹養成制度を導入しました。もちろん、自分たちと同程度の所得水準を維持する職業集団が存在することを基本的に許さない大手新聞社等は、過当競争による脱落者を作ることを専ら目的とするこの大幅増員論に賛同しました。

 

 で、10月8日付の讀賣新聞の社説は、次のような嘆きから始まります。

社会のために身をささげようという弁護士は、そうそう多くないということか。

 この社説を書いた人たちは、市場経済というものをおそらく理解していないのでしょう。市場経済においては、供給者が「社会のために身をささげよう」として採算を度外視したサービスを継続的に供給するということは基本的に期待するべきではないのであって、「社会のために身をささげよう」いう人材がたくさんになければ成り立たないシステムというのは維持できないのですから、「社会のために身をささげようという弁護士は、そうそう多くないということか」と嘆いてみせるのは単なる偽善であって、むしろ優秀な人材を確保できるだけの処遇を付与しなかったシステムの側を批判するのが筋であるといえます。

 法テラスのスタッフ弁護士は、任期は3〜5年で最長でも9年で雇い止めされる短期雇用であり、かつそこでの経験は次の高収入には繋がりません(法テラスのスタッフ弁護士の職務を考えると、いわゆる「街弁」系との親和性はそこそこありますが、残念ながら「街弁」市場においては、「他の事務所等で豊富な経験を積んだ人材を好待遇で迎え入れる」という慣行がありません。)。しかも、その間の所得水準は低い(「同期の裁判官・検察官と同等の給与が支給されることが想定されます。」と説明されていますが、「裁判官・検察官」等は長期安定雇用を前提とした年功序列型賃金であり、かつ官舎その他のフリンジベネフィットが前提となっています。)ときているわけです。有り体に言えば、法テラスのスタッフ弁護士になどなると、任期終了後のお先が真っ暗なわけです。

 そういう実情を無視して、「センターの事業には年間約200億円の国費が投じられる。法曹界の責任において、必要な人材を確保し、十分なサービスの実現を図らなければならない。」といわれても、「じゃあ、任期終了後のスタッフ弁護士を司法担当記者としてちゃんと読売新聞社と日本テレビで本社社員として正規雇用してよ」というくらいしかありません。

07/10/2006

my believes and positions, which I never and will not ever exchange for money

 国歌に敬意を表して起立することを拒んだためにみすみす約1億円の賞金をもらい損なったお嬢さんに関する話題がこちらに掲載されています。

 言うも言ったり、「my believes and positions, which I never and will not ever exchange for money」。現実空間では理不尽に抵抗することなど怖くてできず、できることと言えばせいぜいネットで匿名で他者にイチャモンをつけることくらいという軟弱な一部の日本人とは人間としての格が違う感じがします。

 もちろん、Abeer Qibtiさんはアラブ系の市民であり、仮に「国籍」がイスラエルにあったとしても、「ユダヤ国家イスラエル」の国歌になど敬意を表する気になれないのはさほど不自然なことではありません。ただ、それを言い出すと、民主主義を強く支持する日本国民が君主制の永続を願う歌に敬意を表する気になれなかったとしてもさほど不思議ではないのであって、そういう意味では、「日本とは事情が違う」みたいに言ってしまうのは不正確かなという気がします。

06/10/2006

Aux Arme et Caetera

 iTunes Store for Japanで購入可能なフランス音楽の数が知らない間に増えていました。私は、CCCDでないilonaを購入するためだけにAmazon.deに登録しましたが(Amazon.frからはなぜか日本向けには売ってくれなかったので。)、とりあえずシングルカットされた3曲についてはもはやiTSJでダウンロードできます。

 新たにその楽曲がダウンロードできるようになったアーティストに、Serge Gainsbourgがいます。Gainsbourgの「Aux Arme et Caetera」は、フランスの国歌である「La Marseillaise」をレゲー風にパロった作品として有名です。どこの国にも、国旗だとか国歌だとかのことになると他人に「自由」を認めることができなくなる人はいるもので、Serge Gainsbourgもまた、「Aux Arme et Caetera」を発表した後は、その種の人に脅されたり、コンサート会場に押し寄せられたり大変だったようです。

 でも、Gainsbourgの「Aux Arme et Caetera」、今聞いても格好いいんですよ。そして、国歌の取扱いに関してGainsbourgを非難した数多の人々より、Gainsbourgはフランスに対する諸外国のイメージを向上させているようです。

05/10/2006

鶏と卵

 愛・蔵太さんによると、「左寄りの人しか反対していない、国旗・国歌に関する論争に疑問を抱く。」とのことですが、むしろ、「国旗・国歌の押し付けに反対する人」を勝手に「左寄り」と決めてかかっているだけだったりするような気がします。

 教員について最も重要視されるべき資質を「入学式や卒業式で上手に国歌を斉唱できること」においていない人々にとっては、その最も重要視されるべき資質を有する教員が「入学式や卒業式で上手に国歌を斉唱でき」ないために処分されあるいはそもそも公立学校の教員とならない道を選択し、その分、「入学式や卒業式で上手に国歌を斉唱できる」が「教員について最も重要視されるべき資質」については前者より落ちる人々がこれに置き換わるということは、得策ではないという、ある意味厚生経済的な観点からの反対論も十分にあり得るところです。

01/10/2006

反共さんの大富豪

 逆に、反共主義者さんたちが「大富豪」ゲームを行うときは、「革命」ルールなしで、配札の運と札切りの妙だけで序列の逆転を狙っていくのでしょうか。

 cf. http://d.hatena.ne.jp/umeten/20060925/p3

あれは、革命ルールがあった方が、「大富豪になったからといって、「3」とか「4」とかを大貧民に押しつけていると、「革命」を起こされて大変なことになるよという教訓にもなってよいのではないかという気もします。

« septembre 2006 | Accueil | novembre 2006 »

octobre 2017
dim. lun. mar. mer. jeu. ven. sam.
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31