一人の少女を不幸から救い出す手助けができるのであれば、過去の言動との整合性などどうでもよいではないか
音羽さんの件でもそうだし、松永さんの件でもそうなのですが、匿名の陰に隠れないと言いたいことも言えない人たちは、どうも他人の過去にこだわりすぎなのではないかと思えてなりません。「誰が言ったかは重要ではない。内容が重要なのだ」というのならば、それを語った人の過去の発言やら過去の行動などというものを重視するのはおかしいと言うことになります。さらにいうならば、その人が同時並行的に別の場所で語っていることすらその発言を評価する上での要素に加えることはおかしいとすら言えます。
私たちは、人間らしく生きていこうとすれば、言動の一貫性にそれほど拘ってなどいられません。私たちは、誤りも犯すし、成長もする。抽象的な理念を犠牲にしても実現を目指さなければならない現実だってある。現実社会の中で、現実社会をよりよくしていくために具体的に活動しようと思えば、君子豹変しなければならないのです。
翻って、ネット上で他人の悪口や揚げ足取りに終始している役立たずさんたちの目から見れば、そりゃ、「ツッコミどころ満載」と見えるかも知れないし、どんな些細なものであれ過去の言動等との矛盾を突きつければ「論破」だというルールの下では「論破」が可能かも知れません。が、彼らがいくら「論破」「論破」と言ってみても言われた方に「論破された」感がないのは、彼らが重視しているほどには私たちは「言動の一貫性」を重視していない、といいますか、そんなことよりも大切なものがあることを知っているからなのではないかとも思ったりします。
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Voici les sites qui parlent de: 一人の少女を不幸から救い出す手助けができるのであれば、過去の言動との整合性などどうでもよいではないか:
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いい大人が、しかも現役の弁護士がこういう発言をするのは問題があるような気がするなあ。釣りですか?
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一人の少女を不幸から救い出す手助けができるのであれば、過去の言動との整合性などどうでもよいではないか
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2006/11/post_88aa.html
私たちは、人間らしく生きていこう... [Lire la suite]
> もう大学生なのだから、文章表現はある程度礼儀正しいものにした方がよいとは思います。>音羽さん。
まあ、今後は心がけます。
Rédigé par: トニオ(音羽理史) | 01/12/2006 04:09
「相手に勝つ」というよりは、その時々に応じてもっとも妥当な結論を導くことを目指すことこそが重要なのです。現実社会で立派に生きてみせるとはそういうことです。
そういう意味で、過去の言動の片言節句を捉えて、「矛盾」だの「論破」だの言って騒いでいる人達は、お気の毒だと思います。彼らの努力というのは、何の役にも立たず、対象に対する悪意を共有していない人々からは、何ら肯定的に評価されない(むしろ、気味悪がられるのが関の山だ)からです。
Rédigé par: 小倉秀夫 | 29/11/2006 22:23
もう大学生なのだから、文章表現はある程度礼儀正しいものにした方がよいとは思います。>音羽さん。
一般に「馬鹿」という言葉は、相手の特定の言動に対する評価ではなく、相手の人格や知的能力それ自体についての評価になってしまう場合が多いので、特定の言動を連体修飾する形で用いる(この場合、当該言動に限定して非難をしていることになる。)以外の用法では用いるべきではないし、特定の言動を連体修飾する形で用いる用法にしても、「馬鹿」という言葉は批判の方向が必ずしもはっきりとしない言葉なので、できるだけ回避した方がよいとは思います。
Rédigé par: 小倉秀夫 | 29/11/2006 19:29
そうですね、こう並べるのは大変おこがましいですが、松永さんにオウム時代からの連続性があると思うんですが、ぼくにも2ちゃんねらー時代からの連続性があって、ある種の断絶というか転向があったんですが、その経緯が自分にとって結構問題になっているような気はします。
やっぱり松永さんとは比べ物にならないような矮小な経緯ですけど。
ブログにこう書いたりしたんですが。
http://d.hatena.ne.jp/gerling/20061126#1164572170
「暴言」云々に関しては、公正な論評の自由の権利だと考えています。
馬鹿に馬鹿といってなにが悪い。
Rédigé par: トニオ(音羽理史) | 29/11/2006 14:44
Aという論点についてBという事件においてCという見解を主張していた弁護士がDという事件においてEという見解を主張したとしても、別に問題視されることはありませんし、Bという事件においてCという見解を述べたことについての謝罪を求められることもありませんし、そのこと自体は、Dという事件においてEという見解に基づく解決を裁判所が行う上の障害には何らならないのですが。
このあたりは、ネット上で他人の揚げ足をとってストレスの発散をする程度のことしかできない方々には了解不可能かもしれませんが、数行で記述可能な単純な論理を一貫させて妥当な解決が図れるほど、現実の問題は単純ではないということです。
Rédigé par: 小倉秀夫 | 29/11/2006 13:30
複数の場面での論理一貫性に拘るあまり、善のなすことを躊躇しあるいは悪を容認するようでは、本末転倒です。
また、匿名さんたちが、他人に対しては論旨の一貫性を求めるなんていうのはとても滑稽です。現実空間での振る舞いとネット上での言論の一貫性すら保っているかそもそも疑問ですし。
Rédigé par: 小倉秀夫 | 29/11/2006 08:55