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février 2007

28/02/2007

2ちゃんねるとコメント承認制

 このブログのコメント欄を一時的に承認制にしたことに関連して、従来の粘着君からいくつかのコメントを頂いています。

 ただ、私は、弁護士という本業の傍らブログを開設しており、しかもコメント欄というのはその附属機能に過ぎないわけで、その管理のために24時間張り付いているわけにも行かないし、そのために人を雇用するわけにも行きません。それでも、私自身に対する誹謗中傷コメントはともかくとして、第三者の実名を明示しての誹謗中傷コメントがあれば、遅くとも数日以内には削除します。

 これに対して、2ちゃんねるの場合は、不特定多数人から投稿されたコメントを表示するというのがメインの機能ですし、また、直接西村さんのところに支払われる形式をとっているかどうかはともかくとして、莫大な広告収入が入っているわけですから、その管理のために必要な人員を雇うことができます。それでも、西村さん自身を攻撃するコメントはともかくとして、第三者の実名を明示しての誹謗中傷コメントがあっても、自主的に削除がなされることは希です。

 あるいは、「お前が自分のブログのコメント欄を管理しきれなかったのだから、それよりももっと巨大な2ちゃんねるに文句をつけるな」という批判に対しては、「西村さんも、現在の2ちゃんねるを管理しきれないのであれば、私と同様に、西村さんまたはそのスタッフが承認したコメントのみを掲示板に表示する仕様にしたらよいのではないですか」ということもできます。「2ちゃんねるに誹謗中傷コメントを投稿しても表示されない」ということになれば、無責任に誹謗中傷コメントを投稿してストレスの解消をしたり政敵や商売敵を追い落とすのに活用したいいう「一部の2ちゃんねらー」は立ち去っていくかも知れませんが、単に奥ゆかしくて実名を出したがらないだけの方々にとっては若干のレスポンスが悪くなるデメリットはあるものの、突然何らかの語句に触発された嫌韓厨がやってきて場を荒らしまくって去っていくみたいなケースが減少していくのであれば、却って「まったりとした議論」を続けるには好都合になっていくのではないかという気がしなくはありません。

 「それでは2ちゃんねるではない」という方もおられるかもしれませんが、そういう方々が期待している「2ちゃんねる」像というのは、現実社会と折り合うがつく範囲内のものであるのか、疑問だったりします。

27/02/2007

どこの誰だか分からない人のコメント

 これ以上コメント欄の管理に時間をとられるのも大変ですし(私に対する罵詈雑言だけなら、放置しておいても私が我慢すれば済むだけなのですけど、従前より、福田さんその他の方々に対する攻撃も陰惨なものでしたし。)、私に批判的な方からも「荒らし」コメントは削除した方がよいとのアドバイスを頂きましたので、どこの誰であるのかを私が認識している方からのコメント以外はがさっと削除してしまおうと思います(内容による規制をするともめる元なので、関係性による規制をしようと思います。)。コメント欄は当面承認システムにしようと思います。

 ニフティのシステムバージョンアップでコメントID認証制が採用されたときには、その仕様によってはどこの誰かという把握をニフティが代わりにして下さるということになりますので、そのときにはまた、自由にコメントを投稿できるようにしたいと思います。

 また、トラックバックは、トラックバックスパム以外は、従来どおり原則削除しないようにしておこうと思います。

専門家系ブログの受け皿としてのココログの適格性について

 それにしても、ココログのコメント欄管理機能の貧弱さというのは、もう何と言っていいのでしょうか、「あなた達も個人としてココログでコメント欄つきのブログを開設してご覧なさいよ」といいたくなるくらいひどいものです。ブログ主から料金を取っている商用サービスとしては、失格と言っていいくらいです。

 コメント欄のTypekeyIDないしNifty独自のIDによる認証オプションもないです(これらのIDによる認証システムがあれば「なりすまし」コメントを相当程度防止できますし、IDごとにコメント投稿を拒否できるシステムをこれとを組み合わせれば、「粘着君」を相当程度排除することができます(フリーメールで登録されたIDでのコメント投稿を拒否できるオプションも用意しておけば、コメント投稿を禁止されるたびに新たなはてなIDを取得して低レベルのコメントを投稿し続けた町山さんのところの粘着君のケースにも対応できます。)。しかし、ココログにはそのような機能など望むべくもありません。

 また、ココログでは、各利用者側で「.htaccess」等をいじることができませんので、例えば、「jpドメインを用いてアクセスしてきた人だけコメント投稿可」などの設定をすることができません。もちろん、匿名プロクシ経由のコメント投稿を禁止するオプションもありません。コメントスパム対策としてブラックリストを作ることが可能であるように、「粘着君」対策として匿名プロクシのブラックリストを作ることはNiftyくらいの規模ならば十分可能だと思いますが、Niftyは簡単にできそうなことすらしようとしないようです。

 炎上・粘着対策をしないブログサービスのもとでコメント欄つきのブログを開設することはコメント欄の管理に無駄に時間をとられることに繋がりますので、内容的にレベルが高く、それ故その内容を十分に理解できない素人さんたちから不要な反発や嫉妬を招きかねないエントリーをアップロードできそうな専門家系ブログは、そのようなブログサービスのもとでは開設すべきではないということになりそうです。

 Winnyシンポの帰りに高木さんから、「サーバを借りて自分で作ってしまった方が早い」という趣旨のアドバイスは受けたので、WordPress等で私が考えている仕様のものができるのであれば、それはそれで一つの考えかなあとは思うのですが、とりあえず通常業務のほかに、仕上げなければならない原稿がだいぶたまっているので、システム構築にあまり時間をとりたくないし、難しいところです。

「成りすまし」か否かを判別する方法

 名誉毀損や侮辱の場合、その殆どは問題とされている文章自体で判断が可能です。これは、壇先生の情報ネットワーク法学会等での発表等でも明らかにされていますが、実務的には、発信者情報開示請求すら、摘示事実の真実性を争点とするまでもなく、公益目的等が認められない等として、あっさり認められているようです。

 これに対して、「成りすまし」かどうかというのは、少々難しいです。もちろん、文章の内容から見て明らかに「成りすまし」であろうと判断しうる場合はあります(例えば、実在の女性の実名を用いて匿名電子掲示板に「私をレイプして下さい」云々という書き込みがあった場合など)。ただし、文章の内容や文体が、その実在の人物が語りそうなものである場合には、文章だけから「成りすまし」かどうかを判断することは困難です。

 尤も、実在の人物がネット以外の通信手段を用いて連絡することが可能な程度に特定されている場合は、その者と連絡を取り合うことによって、「成りすまし」の有無を判断することが一応可能です(私のように日ごろから実名を用いている場合はもちろん、吉田望さんのように普段はハンドル名を用いる方であっても、実名と現実空間での所属等を明らかにされている方であれば、同様の処理が可能です。)。もちろん、実際にその実在の人物が投稿したコメントについて「成りすまされた」ことにしてその削除を求めてくる可能性が理論的にないわけではありませんが、コメントを投稿した本人がそのコメントの削除を求めるのであれば、これを削除すること自体に問題は生じません。

 特定のハンドルを用いてコメントを投稿している方であっても、いわゆる黒木ルール的な顕名を行っている方の場合は、「母体」であるブログの方にアクセスして、ブログ主宛に確認のメールを送ることにより、問題のコメントが成りすましによるものかどうかを確認することができます。

 黒木ルールにすら基づいていない仮名投稿者については、「成りすまし」か否かを判断する合理的な方法というのはなかなかないですね。

 「成りすまされ」ることなく安心して複数のブログにコメントを投稿できるようになるためにも、「共通ID」システムの導入は有益かと存じます。

26/02/2007

そんなありそうもないケースを想定する必要はないでしょう。

  高野善通さんは、

さて、この構図で恐ろしいのは、もしも企業Xと雑誌社Mが、Aさんを陥れることを画策してウラでは結託していたとすれば・・・?このような訴訟が勝敗以前に成立してしまえば、こんなケースが考えられます。しかも、Xとしての結託相手は雑誌社Mでなくてもよく、個人ブログNに書かれた記事でも良いのですから、企業XはNと結託してAさんを訴訟の被告に陥れるというケースさえ考えられるのです。
 もっと恐ろしいケースもあります。それは、企業Xがウラで国家権力と結託していたら・・・?すなわち、国家権力は直接民間を訴えられないので、国策に反する活動をする勢力を押さえ込むために、国家と結託した民間団体が民事訴訟を起こすという形を取るわけです。
仰るのですが、裁判費用及び賠償金をAさんが最終的にいくら負担するのかは、Xが誰を被告に選定するかではなく、MとAとの間でどのような費用分担の約定になっているのかによるわけですから、あまり意味のある議論とも思えません。

 雑誌社Mが企業Xや国家権力と結託してAさんを訴訟の被告に陥れるというケースってどういうことを想定されているのかそもそもよくわからないのですが(例えば、企業Xの不正をかぎ回っているフリージャーナリストAが邪魔なので、Aに対して民事訴訟を提起してAを黙らせるするために、雑誌社Mと結託して、Aに企業Xについての真実性の抗弁の要件を欠く記事を書かせて雑誌社Mの発行する雑誌に掲載してしまうということですか?)、そのようなありそうにない事態をさらに確実に回避しようと思ったら、「フリージャーナリストのいうことを掲載している限りは、企業は、そのフリージャーナリストに対してもこれを掲載した雑誌社・出版社に対しても、名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を提起することは許されない」ということでもしないといけないわけですが、そうなると雑誌社としては、「フリージャーナリストのいうことを掲載している」という形を取っておけばどんなデマであろうとも載せたい放題で被害企業はただただ泣き寝入りという事態を招致してしまうわけで、なんだか「報道被害」対策なんか一切するなといわれているような気になってしまいます。

25/02/2007

紙は必要

 Umetenさん曰く

報道がいらないわけではない、紙がいらないだけである
とのことですが、新聞が「紙」で供給されているからこそ通勤電車の中で1〜2紙読み流すことができているのであって、現在の東京23区内のネット環境ですら、ネット&端末で同様のことをするのは困難です。したがって、当面「紙」は必要です。

 なお、

ネットに対する敵視政策をやめる
といわれても、新聞は特にネットを敵視しているわけではないと思うのですが。実際にネットにはそれなりに問題点があるわけですから、それを新聞が取り上げることは自然です。取り上げ方にしても、他の事象に関する批判記事と比べて特に感情的というわけではないし、ネット上で行われる匿名さんの集団による批判コンテンツと比べるとよほど冷静です。このような現状で、
ネットに対する敵視政策をやめる
といわれても、「それって、ネットの問題点には目を瞑れってこと? ネットは新聞を批判しても構わないけど、新聞はネットを批判してはいけないってこと?」と思われて終わってしまうような気がします。

匿名ネットワーカーが背負う『われわれ』はいったい誰なのか

 佐々木俊尚さんの「新聞が背負う『われわれ』はいったい誰なのか」というエントリーが注目を集めているようです。

 ただ、それをいうのであれば、同様に、「匿名ネットワーカーが背負う『われわれ』はいったい誰なのか」という問いかけもすべきではないかと思いました。祭りや炎上を仕掛けている側はしばしば自分たちの見解の方が正しい、あるいは一般市民の自然な感情に合致しているかのように振る舞っておきながら、祭りや炎上を仕掛けている側の見解の方がむしろ常識や一般市民の自然な感情から大いに乖離している等という例は枚挙に暇がないわけだし、「さくらちゃん騒動」というのはまさにそういう例だったのではないかという視点が、佐々木さんの一連の「ネットよいしょ」には欠けているようです。

 がんだるふ氏やがんだるふ氏と一緒になってさくらちゃんの両親を攻撃し続けた人たちは、さくらちゃんやその両親に、現実社会における不幸を押し付けようとしたわけです。ネット上でのイデオロギー闘争とはわけが違うのです。それなのに、攻撃を仕掛けた側は、ハンドル名で表されるネット上での人格についての評価を引き下げるだけでお茶を濁そうとしているわけではないですか。がんだるふ氏は、そのハンドル名を長きにわたって使っているかも知れないけれども、ネット人格たる「がんだるふ」氏の評判がいかに地に落ちようとも、現実空間では何事もなかったように社会生活が営めるわけではないですか。仮にさくらちゃんの両親ががんだるふ氏らの攻撃に負けてさくらちゃんの人生を「自然の摂理」に委ねることにした場合にも、そのことにより必然的に生ずる不幸な結末について、がんだるふ氏は、現実空間では自分には何にも関係がないこととして振る舞って生きていくことができるわけではないですか。

 彼は結局、自分の言動が現実空間の他人の生命等に影響を及ぼすことを望む一方、自分の言動が現実空間の自分の名誉・評判等に影響を及ぼすことには耐えられなかったわけではないですか。それは、現実社会で生活している一般社会の常識の元では「卑怯」であったり「身勝手」であったりという評価を受けるべき行為ではないですか。

 他人を不幸にするためにネットを活用することが横行しているときに、そういう負の側面を既存メディアが取り上げることって、そんなに問題ですか?既存メディアは、ネットを「アンタッチャブルな存在」と位置づけ、その暴君ぶりに目を閉じていなければいけないですか?それとも、ネットの匿名さんたちが掲げる身勝手な「俺様ルール」も公平に取り上げてあげないといけないですか?

24/02/2007

実名って何かが嬉しくて使用するものではないのでは?

 「実名を名乗ることで何が嬉しいんだろう」という疑問を持つ方々がおられるようですが、私たちは普段から、何かが嬉しくて実名を名乗るというより、当たり前のこととして実名を名乗って生きているのではないかという気がします。私の認識では、弁護士や大学教員等のような特殊な職業の人のみが実名を名乗っているというより、ほとんどの職業の人や学生さんたちも実名を名乗って生きているようです。もちろん、原則源氏名を用いる職業もあるとは思いますが、その方が特殊だと認識しています。

 実名を名乗ることを「私的制裁や逆恨みによる逆犯罪などをどうやって抑止するかを考えないで自己責任以上のもの」といってしまうというのは、現実社会でどのように暮らしているのでしょうか。

 私たちは社会生活を営む上で実名や所属、住所等の個人情報を、様々なレベルの関係性を有する人々(ときには自分とは特段の関係を有しない人にも)に晒して生きています(大人の世界では、最初は「実名+所属」という形で個人を同定するための個人情報を示しつつ(ビジネスマンの名刺に記載されているのは大抵このパターンです。)、親しくなるに連れて住所等の情報をも示すというのが多いとは思いますが、特にフリーで活動されている方や学生等(一人暮らしの女子学生を含む。)の場合、最初から名刺に実名とともに自宅の住所まで刷り込んでいる例が少なくありません。といいますか、私も、司法修習生のときの名刺はそうでしたし、今でも消費者として個人を同定する必要がある場合には実名及び自宅住所を偽りなく登録します。また、最近区役所に行きました児童の習字(「電子投票」の4字が課題だったようです。)及び税に関する作文が張り出されていましたが、そこでは所属する学校名、学年と実名が堂々と掲載されており、作文に至っては、児童の顔写真まで掲載されていました。調べたわけではありませんが、学校で課題の習字を作成するときに「実名を書くと危ないですから登録済みの仮名を書いておきなさい」という指導がなされているという話は聞いたことがありませんので、おそらくあそこにでていたのはその児童の実名なのではないかと思います。)。このように、特に実名に関して言えば、かなり関係性の薄い人々、あるいは不特定の人に対してすら、特に偽らずに名乗るというのは、我が国では一般的です。大抵の場合、「私的制裁や逆恨みによる逆犯罪などをどうやって抑止するか」なんてことは考えられていませんが。

 企業にしても学校にしても、「銀行口座と同じくらいの精度で本人確認をして利用登録をするくらいの仕組みで十分である」から実名を名乗らなくとも仮名で済むようにせよ、会社や学校で実名を名乗らせるのは、「私的制裁や逆恨みによる逆犯罪などをどうやって抑止するかを考えないで自己責任以上のものを」従業員や生徒に「求めるのであれば、それは極端に言うと『(犯罪的行動をしてなくても)道端で襲われても自己責任、その覚悟が無い奴は一切会社や学校に来るな』と言っているのと大して変わりがない」と言われても、きっとどこまで真剣に相手にしていいものかとまどってしまうのではないでしょうか。

 あの人たちは、現実空間でも、「私的制裁や逆恨みによる逆犯罪など」を怖れて、実名とは異なる名称を名乗り、自分がどこの誰であるのかを第三者に知られないようにびくびくして生きているのでしょうか。私たち弁護士の場合、家族が逆恨みされて殺されるという事件が起こってから、一般向けにも配布する弁護士会名簿に原則自宅住所を載せることはなくなりましたが、希少姓の方を含めて、原則実名を名乗るという運用は変えていません。仕事の性質上「逆恨みによる犯罪」に遭う危険はそこそこ高いのですし、それを抑止する対策なんか講じようはないのですが、「『(犯罪的活動をしてなくても)道端で襲われても自己責任、その覚悟が無い奴は弁護士業務をするな』と言っているのと大して変わりがない」等と思い詰めている人はどうもいないようです。

22/02/2007

ソフトウェア紛争の裁判外紛争解決手段

 ソフトウェア情報センター(SOFTIC)が、経済産業省の委託事業の一環として、ソフトウェア紛争に関する裁判外紛争解決手続き(ADR)に関するセミナー(「模擬仲裁」の上映を中心に、適宜パネルディスカッション等を盛り込んだもの)を、平成19年3月23日に行います(詳細はこちら)。

 医療紛争の裁判外紛争解決手段を模索している方々も参加されると参考になる点が多々あるのではないかという気がします。医療紛争とソフトウェア紛争には、裁判官の専門性への当事者の不信等共通する点がありますので。

 他方、私が最近多方面に声をかけている「発信者情報開示請求紛争のオンラインADR」についていえば、裁判ではなくADRであるべき理由が異なるように思います(むしろ、ドメイン紛争のオンラインADRとの共通性が高いというべきでしょう。)。

21/02/2007

さくらちゃんと烏賀陽さん

 オリコンvs烏賀陽弘道事件につき、訴訟費用と生活費を支援する募金活動が行われているようです。

 さくらちゃん事件のときにあれほど元気だった「募金を募る前にまず家を売れ」系の方々がこの件に関しては静かにしているということはとても興味深いです(烏賀陽さんも、資産や収入を公開した上でカンパを募っているわけではなさそうですが。)。

 まあ、わざわざ嫌がらせを繰り返してこの募金活動により実現しようという行為(ex.オリコンからの訴え提起に対する有能な弁護士による対応)を断念させてもせいぜいオリコンを利することにしかならないのに対し、さくらちゃん事件においてはその募金活動により実現しようという行為(ex.渡米して臓器移植を受けさせる)を断念させれば幼い命を短く終わらせることができるという違いが大きいのでしょうか。

柳田さんの問題提起

 あるサービスによって得られる収益が、そのサービスにより第三者に与える損害及び第三者に与える損害を抑制するための費用の合計を大きく下回り、かつ、その状況が改善される見込みがない場合、そのサービスは終焉すべきなのであって、第三者に損害を押し付けることによってそのサービスを存続させるというのは間違っているように思ったりします。

 もっとも、そのサービスに金銭では推し量ることができない利益を感じている人が、自らの出捐にて第三者が被った損害を塡補してやることでそのサービスを存続させるというのはあり得るとは思うのですが、第三者に与える損害を抑制するためのシステムを構築するのにはコストがかかるのでそのようなシステムは構築しなくて構わない、被害者が被害を甘受すれば済むことだという議論は成り立たないかなという気がします。

 柳田さんがネットの負の部分を「公害」に喩えたことについてネット上ではこれを批判する声が大きいようですが、「ネットの負の部分」をクローズアップすることを非難する理由として「ネットの正の部分」の大きさを持ち出す方々は、重化学工業の「負の部分」に目をつぶった人々と同じ間違いをしているように思います。

20/02/2007

身代金要求ツール

 CNet Japanの記事によれば、

電子メールのアドレスを相手に知られることなく送信でき、受信者は送信先のアドレスが分からなくても返信できる「匿名通信手法」を、電気通信大学情報通信工学科の國廣昇・助教授と同大大学院学生の鳥山浩氏らが開発した

とのことです。

 これまで誘拐犯は、身代金の要求等をするときに逆探知を受けるなどして身元がばれてしまい検挙されることが多かったわけですが、國廣先生のおかげで近い将来このリスクを回避することができそうです。もちろん、殺害予告等を行う際にも有効そうです。そこまで行かなくとも、嫌がらせ目的でメールを執拗に送りつけたり、特定人を貶める目的でデマメールを流すにはもってこいっぽいです。

 もちろん、表向きは、匿名性を保障して犯罪を助長することによって一儲けしようだなんて言わずに、

現在、発信者のアドレスが受信者に分かってしまうが、アドレスを隠すことができるため、「いじめなどの相談を生徒が先生にしたり、組織の内部告発をする場合に役立つのでは」(鳥山氏)としている

ようですが、もう「組織の内部告発に活用」ということを金科玉条のように掲げて不特定人に犯罪の手段を提供することを正当化しようとするのはいい加減止めてほしいものです。Winnyや2ちゃんねるの匿名性がどのように活用されたのかを見れば、「いじめなどの相談を生徒が先生にしたり、組織の内部告発をする」手段としてはより悪用されにくいものを用意するべきだと思いますし、そもそも「組織の内部告発」だけならばフリーメール系で十分ではないかと思います。

16/02/2007

ふざけたハンドル名を名乗る理由

 (捨て)ハンドルの名称やコメント自体の文体などから「いかにも真面目に議論をする気がなさそう」と思わせることを選択するコメント投稿者の方々というのは、結局、何がしたいのでしょうか。

 ブログ主と真摯な議論がしたいのであれば、いかにもおふざけですよという雰囲気をハンドル名等から醸し出してしまうのは、デメリットしかないように思うのですが。ブログ主から適切に反論をされてグーの根も出なくなったときに「ネタにマジレス、格好悪い」と言い放てるように最初からおふざけモードを装っているということなのでしょうか。それとも、ブログ主が呆れて反論せずにスルーしてくれることをお望みなのでしょうか。

15/02/2007

主たる違法行為に対する倫理的なスタンス

 著作権関係団体の方々はともかくとして、YouTubeが比較的好意的に見られているのは、良くも悪くもこれを利用して主に行われている違法行為が著作権や著作隣接権等の侵害行為だからであろうということは想像に難くありません。著作権者等の許諾を得ることなく著作物等を公衆送信することをそれほど倫理的に悪いとは正直思っていないからこそ、少なくとも日本では主に著作権等を侵害する目的で利用されているYouTubeに対するSympathyが広く共有されているのでしょう。

 では、仮にYouTubeが、倫理的にとても問題があると広く認識されていることに主に活用されていたらどうだったかというと、社会の反応は違っていたのではないかという気がしなくはありません。例えば、日本からYouTubeにアップロードされる動画の大半が児童ポルノ動画(特にレイプ系)だったりした場合に、YouTubeが「指摘されたら削除するけれども指摘されるまでは放置する」という方針を貫いたときには、むしろ、「米国政府に働きかけてYouTubeの経営者たちを刑事裁判にかけさせろ」という声が高まるかも知れません。吉田望さんだって、児童ポルノ画像ががんがんに掲載されている画像掲示板の管理者に関して、「被害者から削除要請があったときに削除をすればいいのであって、自主的に巡回して違法画像を削除する必要などない。」とは言わないのではないかと思うのです。実際、児童ポルノ画像が投稿された画像掲示板の管理者に有罪判決が下されても、Winnyの開発者が有罪とされたこととは異なり、さほど非難の声が上がらないというのは、多くに人々にとって、児童ポルノに対する倫理的なスタンスと著作権侵害に対する倫理的なスタンスとに大きな差異があるからではないかと思います。

 ネット上の執拗な誹謗中傷問題についての私と吉田さんとのスタンスの違いというのは、結局、この種の誹謗中傷をどの程度倫理的に悪しきものととらえているのかという捉え方の違いに起因しているのではないかなあという気がしています。私は、被害者の方々から相談を受ける立場なので、この種の誹謗中傷により本当に精神的にまいってしまっている方々を何人も見ており、これが人の精神を本当に傷つけるものだという認識でいます。それ故、そのような執拗な誹謗中傷というのは、児童ポルノに負けず劣らず反倫理的であり、その取締りのために関係各位は相当の資源を用いるのもやむなしと思っています。「問題のある被害者に対しては執拗に誹謗中傷してもそんなに悪くはない」というスタンスですと、「誹謗中傷対策のために資源を用いるのはけしからん、被害者が我慢をすればよい」みたいなところに落ち着いてしまうのだろうなあと思います。

14/02/2007

それはあなたの「本音」ではなかろう

 「匿名だからこそ本音が言える」という人たちがいます。しかし、匿名の陰に隠れた個人攻撃がネット上で行われているとき、それって彼らの「本音」の発露なんだろうかということが疑問として生じてきます。

 そこで語られていることというのは、「匿名で無責任に語れる場があるか否かにかかわらず言いたくてたまらなかったこと」ではなく、「匿名で無責任に語れる場があるか否かにかかわらず内心そう思っていた」ことでもなく、「匿名で無責任に語れる場があるからこそ言いたくなったこと」なのではないかと思うのです。つまり、彼らはもともとそこまで醜い人格をもっているのではなく、「匿名で無責任に語れる場」があるからこそ、そこまで醜くなったのではないかと思うのです。

 というのも、その種の発言って「読む人に不快感を与える」という以上の意味がないことがほとんどであり、このような内容を「匿名で無責任に語れる場があるか否かにかかわらず言いたくてたまらな」い人がいるとは想定しがたいからです。例えば、あるボクシングの試合に感動したと言うだけでモーグルのトッププレイヤーがアスリートとして失格だと本気で思った人は実際にはいないのではないでしょうか。また、難病の娘を抱えたNHK職員はまず無一文になるべきだと本気で思った人はいないのではないでしょうか。これらは、他人を罵り、他人を不快にさせる「ネタ」として用いられただけなのではないでしょうか。また、ネット右翼さんたちはしばしば「自分たちはアンチサヨクにすぎない」と自称するわけですが、それは結局、彼らは、「匿名の陰に隠れることによって安全な場所から他人に不快感を与えることができる」という場の誘惑に抗うことができなかった弱い人間であるということを自白しているようなものです。

 「安全な場所から他人に不快感を与える」ことの快感を覚えて「匿名での個人攻撃」という誘惑に勝てずどんどん醜くなっていく一部の日本人にとって、「匿名性が高度に保障された言論の場」というのは精神を蝕む一種の麻薬としての機能をも有していると言えそうです。

実験は失敗した。

 ウェブ上で表現者の匿名性を保障していくとそこに何が生まれるのかという実験は、少なくとも日本語環境においていえば、あまり芳しい結果を残しませんでした。そういってしまうと「『電車男』が生み出されたではないか」という反論もあるかもしれませんが、「電車男」程度の作品しか生み出されなかったとも言い得ます。あのレベルの作品は、表現者の匿名性を保障しなくとも次々と生み出されているのであって、匿名性を保障した成果があの程度では高が知れています。

 むしろ、誹謗中傷や嫌がらせ等を安心して行えるようにした結果、ウェブ上での議論に参加できる人の範囲を大幅に限定してしまいました。ウェブ上の言論というのが、絶え間ない誹謗中傷が直接襲いかかってくるということに精神的に耐えられる人にのみ許されたものである限りにおいて、繊細な精神の持ち主がこれに参加できなくなることはやむを得ません。特に、高い見識を持っているとの評価を勝ち得ている人たちは、そのような誹謗中傷に耐えてまでウェブ上の議論に参加する必要がないので、その多くが、そもそも自己の見識をウェブ上で公表しないか、または、自己の見識をウェブ上で公表したとしてもこれについての公衆の意見を受け付けないようになっていきました。実際、法学系では、せいぜい面白い議論は閉鎖型のメーリングリストで行うにとどめるというのが主流になってしまい、専門家同士の高度の議論を学生を含む一般の方々に見て頂くということが一般化しませんでし、その議論に一般の方々にも参加して頂くということは本当に希有になってしまいました。

 結局、匿名表現の自由を認められ、匿名表現者に自制心をさして求めてこなかった結果、日本のウェブ、特に公衆が自由にその意見を投稿できるCGM系における、レベルの高い議論を排斥する形での、低いレベルでのフラット化を推し進めることになってしまいました。

 で、今の日本に、ネットをそんなに非生産的な、低レベルなお遊びの道具にとどめておく余裕なんかあるのかということをつい考えてしまいます。

13/02/2007

犯罪の温床となってしまった場の提供者

 また、匿名だと居丈高なコメントを投稿できる方々が元気にコメント欄にコメントを投稿されているようです。

 ただ、現実にあまたの犯罪の温床となっている場所を提供している人や企業が、その場で行われる犯罪の数を少なくするための複数の方策を、互いに矛盾しあるいは効果を打ち消し合わない限り、同時並行的に講ずるというのは、そんなに無理な話ではないので、ある手段が対策としてある程度有効であるということは、他の対策を講じなくともよいということには繋がりません。

 十分な理性を発達させられないままに、「ネットで匿名の陰に隠れて誹謗中傷を行ったり、執拗にネガティブコメントを投稿し続けたり、根拠薄弱なデマを流したりすれば、法的な責任を負うどころか、そういうことを行う人間として周囲から後ろ指を指される心配もなく、他人の権利を侵害しまたは他人に結えなく不快感を与えることができ、うまくすれば他人の権利を妨げまたは義務なきことを行わせることができる(場合によっては、救われるべき命を救われないようにすることすらできる可能性すらある)」ということを知ってしまうと、「悪」に心を奪われる人も少なからず出てしまう(現に、そういう人が少なからず現れているからこそ、2ちゃんねるが問題視されている。)ので、被害者を救うためだけでなく、加害者に身を落としてしまっている人や落とそうとしている人々の精神を救うためにも、ネット上にもあまねく「法の支配」を及ぼすことは必要であり、そのためには「場の提供者」も相応のコストを支払う必要があるといえるのでしょう。

 簡潔にまとめると、2ちゃんねる問題というのは、「法の支配」の及ばない場をネット上に作ることの是非という問題に帰着するわけです。

12/02/2007

必要な人海

 最初は個人が始めたサービスであっても、また、それが未だに十分事業化できていないサービスであっても、それが外部に相当な損害を与え続けているのであれば、損害を与えないようにするために工夫を凝らすというのは当然のことです。しかも、それが人海戦術で何とかなる類のものであるならば、何とかすべきであるとも言えます。

 2ちゃんねるの場合、例えば、その日のうちにコメントのあるスレッドが200あり、そのうち1スレッドあたりのコメント数が1日平均10個程度だとすると、1板平均2000個のコメントが投稿されることになります。監視担当者は1秒に10個程度のコメントを視認することができ、このうち5%程度存在する問題コメントについて削除マークを付けるのに1つあたり1秒かかるとすると、結局、平均して20個のコメントを3秒で処理することとなりますから、1板あたりの処理に係る時間は、2000÷20×3=300秒=6分ということになります。すると、約650の板の管理に必要な時間は6分×650=65×60分=65時間ということになります。すると1日8時間労働の従業員が9人いれば十分回転していくことになります。1スレッドあたりの1日平均のコメント投稿数が平均20個としても130時間で処理できますから、1日8時間労働のスタッフが17人もいれば十分管理できます。まあ、当初は誹謗中傷コメントの割合が高いままであることも予想されるので、派遣会社からオペレーターを派遣して貰って30人体制で監視体制を敷くとしても、2ちゃんねるが「誹謗中傷コメントを投稿してもすぐに削除される場所」との評判を勝ち得ていけば、誹謗中傷コメントの割合自体が減っていくことが予想されますので、監視スタッフの数は徐々に減らすことができると思われます。さらに、人数が必要だということであれば、大連あたりの事業者に監視作業をアウトソーシングして、100人規模で監視作業をすることだって可能です。

 これに対しては、「祭り」などが発生すると、「1日平均20コメント」では済まなくなるという反論があるかもしれません。しかし、「祭り」発生時には特定の対象に対する誹謗中傷コメントの割合及び絶対的な個数が大きくなりますから、十分な人数をその監視に割り当てることができないのであれば、「祭り」を発生させない、あるいは急速に終焉させることが必要となります。例えば、スレッドを立ち上げる権限をスタッフに一本化した上で、同じ板の中で同一の話題に関するスレッドは、前スレッドが1000コメントを使い切ったとしても、その日のうちには立ち上げないこととする等の措置を講ずることなどが考えられます。また、誹謗中傷コメントの投稿するユーザーについては、アクセスプロバイダー経由で警告等をしてもらう、IPアドレスの開示請求には原則応ずるなどの措置を講ずれば、従前のようには、気軽に「祭り」もできなくなるでしょう。

マスメディアが新人弁護士を雇って下さい

 新人弁護士の就職先がどうもなさそうと言う件ですが、テレビ局や新聞社などのマスメディアの方々が、せめて司法担当記者だけでも、弁護士資格を有している者を採用して頂けると、多少は就職難の解消に繋がるのではないかと思います。

 もちろん、「弁護士が足りない、足りない」とさしたる根拠もなしに煽り続けてきた罪滅ぼしをして頂くという意味もある(法科大学院制度を決めたときよりは日本経済が良くなっているにもかかわらず、法科大学院の1期生から就職難だなんて、そもそも「弁護士不足」との認識及び増員の幅の設定に間違いがあったとしかいいようがないでしょう。)のですが、それ以上に、「話題になっている事件について取材を受けるときに、実体法や手続き法の基礎からレクチャーしなければならない」という状態を早く解消して頂きたいという 「取材を受ける立場」としての要望もあります。といいますか、その事件に関する質問に答えている事件より、手続法の一般論について答えている時間の方が長いという取材を受けているとがっくり来てしまいます。

 特に、新聞社やテレビ局の給与水準は高いので、現状でも、特に資格手当など付けなくても、新人弁護士が喜んで飛びつくような給与を出すことができるのですから、真剣にお考え頂けると嬉しいです。

09/02/2007

「後は野となれ山となれ」路線を貫く法科大学院

 司法試験に合格して07年中に弁護士事務所への就職を目指す2200人前後の司法修習生のうち、最悪の場合400〜500人が就職先を確保出来ない恐れがあることが、日本弁護士連合会の調査などで分かった。
との報道が法曹関係者の間で話題になっています。

 とはいえ、既存の法律事務所にそれほど新人弁護士吸収能力がないことは最初からわかっていましたから、企業や国・地方公共団体が大量に新人弁護士を雇わない時点でこうなることはわかっていたのであり、3000人前倒し論とか、9000人前倒し論を声高に唱えていた財界人や研究者の方々は、弁護士資格を持った失業者が大量に出るのをそんなに待ち望んでいたのかなあと、その真意の程を訝ってしまいます(「値段さえ安ければ、20年来のつきあいのベテラン弁護士との顧問契約を解約して、いきなり独立開業した新人弁護士と顧問契約を結びますよ」という企業がたくさんいないと、価格競争にすらなりやしないのに。)。

 この期に及んでも「自校の卒業生はこんなに優秀なんだ」というアピールを法律事務所向けにしてこない、また、「自校の卒業生を法務スタッフとして雇うとこんなにお得」というアピールを企業経営者ないし人事担当者向けにしない法科大学院の態度というのは全く不可解です。まあ、ブランド力が飛び抜けている数校はいいにしても、そうでないところは、少ない採用枠に自校の卒業生を如何に押し込むかという競争に勝たないと、「あの法科大学院は、新司法試験合格率は高くても、そのほとんどが1年目から独立開業して程なくして廃業しているのよ」みたいな評判が立って、結局、生徒も2世、3世な方々以外集まらなくなってしまいそうな気がするのですが、「新司法試験さえ通してしまえば、そこから先はどうなろうとも実務家どもの責任だ。後は野となれ山となれ」路線を貫き通そうというあたり、剛毅といえば剛毅です。

「健全な希望」の障害

 「若い人たちの中に、結婚をして子供を2人以上持ちたいという人たちが多い」という結果が世論調査等から出てきた場合に、「にもかかわらず、そのような希望を持つ若い人たちがその希望を果たせずにいるのはなぜなのか」ということを分析した上で、その障害となっているものを取り除くのが厚生労働大臣の職責なのでしょう。その障害が取り除かれなければ、「結婚をして子供を2人以上持ちたい」という考え方を政府ご推奨の「健全な考え方」として認定することでさらなる若者に「結婚をして子供を2人以上持ちたい」という考えを抱かせたところで、それが実際に「結婚をして子供を2人以上持つ」という行動に移させることはできないので、「少子化対策」としてはさしたる効果がないということになります。

 厚生労働大臣ができることとしては、労働時間と所得の分散化を図り、「収入があっても時間がない」という問題と「時間はあっても収入がない」という問題を解決すべく、むしろ労働者保護法制を厳格に適用していくこと等が考えられると思うのですが、厚生労働大臣は、奥谷禮子さんを労働政策審議会に入れてむしろ労働者保護をゆるめようとしているようで、若者の「健全な」希望を叶えさせない方向に進もうとしているともいうことができます。

08/02/2007

烏賀陽さんは、なぜコメント内容の正しさをアピールしようとしないのか。

  オーマイニュースの記事によれば、

烏賀陽さんは、8日記者会見をした烏賀陽氏は、「裁判というのは、起こされれば応訴するだけで700万円以上かかる。個人が簡単に負担できる額ではない。司法の形を借りた脅迫行為だ」と主張。
とのことです。

 烏賀陽さんは、いつまで、「裁判というのは、起こされれば応訴するだけで700万円以上かかる。」という誇張表現を続ける気なのでしょうか。訴えを提起された直後ならばともかく、現在に至ってもこういうことを言い続けている烏賀陽さんに対しては、どうしても不信感を持たざるを得ません。

 なお、

「オリコンは予約枚数もカウントに入れている。予約だけ入れておいて後で解約するカラ予約が入っている可能性が高いのです」
との点について、いかなる資料に基づいてそれが真実であると信じたかを烏賀陽さんが積極的にネット上で公開してその正当性を訴えることはできるはずなのに、それをしないで、オリコン側に圧力を加えて訴えを取り下げさせる方向に動いているように見えることもまた、私に不信感を抱かせるものです。

開示請求の対象

 昨日は、某所で発信者情報開示の研究会がありました。

 壇先生もわざわざ大阪からお越しでした。

 私は、なんだかんだ言っても摘示事実が真実か否かが争点となってもよいものをピックアップする傾向がある(そのため、依頼者が本当にむかついている発言を開示請求の対処から外すことが少なくないのです。)のですが、言葉遣いといいますか言い回しに問題がある場合には、真実性の有無につき判断するまでもなく発信者情報開示が裁判所で認められているとのことなので、もう開示請求の対象のピックアップ作業をもう少しラフにやってもよいのかなあと思いました。

06/02/2007

管理できる範囲内でサービスを提供するのが常道

 匿名電子掲示板を運営するとしばしば誹謗中傷等の違法行為に利用されることはわかっているのですから、掲示板の管理責任者は、その管理を全うするのに必要な人数のスタッフを雇い入れることが求められます。あるいは、売上げとの関係からあまりたくさんのスタッフを雇い入れることができないというのであれば、システムを再構築して、少ないスタッフ数でも管理しやすくする等の措置を講ずることが求められます。つまり、「人手が足りないから管理しきれない。だから管理できなくともやむを得ない。被害者が泣き寝入りすればいいのだ」というのは、単なる甘えであるといえます。

05/02/2007

裁判員制度はまだ希望がもてるが。

 落合先生のブログや岡口裁判官のダイヤリーのコメント欄には、「とにかくアンチ裁判員制度」な方が多数コメントを投稿されますが、裁判員制度なんて、平成の司法改革の中では、「現状よりましになるかも知れない」という期待が持てるという意味では、まだましな部類だと思います。

 平成版司法改革のあと2本の柱、すなわち「法テラス」システムの導入及び法曹養成制度改革については、もはやこれが我が国の司法制度を「現状よりまし」なものにすると本気で信じている人は、プロの中にはほとんどいないのではないかと思われます。

 なんたって、ただでさえ貧弱だった司法関連予算が、「現業部門」以外のところに割り振られることにより、「現業部門」が従前以上に予算不足に陥ってしまったのですから。その結果、ただでさえ採算割れしていた国選弁護人への弁護報酬は引き下げられ、また、法曹になるためには、大学卒業後、法科大学院2年+新司法試験受験期間1年+司法研修所1年の「無給期間」を経なければならなくなったのです。

 法曹資格を得るための勉強をしている間低廉な授業料+給付型奨学金による生活費の補助→さほど高くない所得というローコスト・ローリターン型のドイツ型でもなく、高額な授業料+ローン型奨学金による学費・生活費の補助→初年度から高い所得が見込めるハイコスト・ハイリターン型のアメリカ型でもなく、高額な授業料+ローン型奨学金による学費・生活費の補助→さほど高くない所得というハイコスト・ローリターン型を選択した日本の法曹養成制度の劣悪さに比べたら、裁判員制度なんて、よほど希望に満ちあふれているといえます。

04/02/2007

「個人対大企業」という構図に持ち込んで自分たちを「untouchable」な存在に仕立て上げようとしていないか?

My News Japanが三宅勝久さんのインタビュー記事を掲載しています。 その中に、

三宅 同業者が力を合わせて「カネも影響力も絶大にもっている大企業が一個人の発言に対して裁判を起こすとはひどいではないか」と、訴えることです。

 記事が正しいからいい。正しくないからダメ、という次元で議論すべきではありません。

 カネも権力もある企業が「裁判所で決着をつけよう」と個人を訴えるのは、最初から立場が対等ではないんです。

 大企業は、わざわざカネをかけて裁判しなくてもいくらでも反論することができます。経済効率のいい名誉回復の手段も持っているんですから、まず言葉で反論すべきです。

 「捏造」なり、「事実無根」なり、記事がおかしいと思うのなら、きちんと反論する。メディアの側も反論の機会を提供する。こうやって議論が交わされていくことで、読者はより真相に近づくことができる。つまり世の中のために貢献できるし、会社や消費者の利益にもなる。

 記事が嘘なら、企業は名誉を守ることができるし、書かれた企業の方に問題があれば、その事実を読者の前に示し、会社は問題を改めるきっかけになる。いいことずくめじゃないですか。

 大企業など公的な立場にあるものは、批判に寛容でなければいけないと思います。批判があったからといって、突然裁判を起こすのは「口封じ」目的の暴力です。

とあります。

 しかし、これには賛同できません。これは逆にいえば、「フリージャーナリストは、大企業相手であれば、捏造なり事実無根なりの記事を書いても、法的な責任を負わされるべきではない」といっているのとほぼ同義です。そりゃ、フリージャーナリストにとって都合の良すぎる話です。いやまあ、そうなってくれれば、フリージャーナリストの方々は、2ちゃんねるあたりで適当にうわさ話を探してきて、まことしやかに記事を作り上げて、メディアに原稿を送りつけていっちょ上がりで、原稿料貰って、うっほうほの生活を送ることができるので、彼らの党派的にはそうなんだろうとは思うのですが。

 「『捏造』なり、『事実無根』なり、記事がおかしいと思うのなら、きちんと反論する」といわれても、「捏造」や「事実無根」に対して「反論」で対処するのは多くの場合困難です。例えば、最近騒がれている大相撲の八百長疑惑だって、「事情聴取した結果、誰も八百長を認めなかった」という以上の反論は日本相撲協会にはできないでしょう。日本相撲協会として八百長疑惑を晴らすためには、八百長疑惑を報じた側に、何を根拠にそのように信ずるに至ったのかを開示させた上で、それらの根拠から八百長疑惑ありと信じたことがいかに妥当ではないかを主張していくより他ありません。

 もちろん、それは「訴訟」の場でなければできないわけではありません。ただし、フリージャーナリストの側が、訴訟前に、その記事で摘示した事実を真実であると信じるに至った資料を包み隠さず開示し、かつ、資料又はその読み込みの不十分さを指摘され反論ができなくなったときにフリージャーナリストが素直に自分の誤りを認めその記事により毀損された名誉を回復するための実効的な手段を講ずる場合にほぼ限られます。しかし、私も、虚偽報道に対して訴訟前に内容証明等を代理人として送ったことは何度もありますが、「厳正なる取材の結果であり、報道内容が真実であると確信しております」的な紋切り型の回答が返ってくることはあっても、その「厳正なる取材」によりどのような資料を収集した結果その報道内容を真実であると信ずるに至ったのかをきちんと説明したところはありませんでした。これでは、虚偽報道をされた側は、泣き寝入りをするか、訴訟を提起するかの二者択一を迫られることになります。

 「大企業は、わざわざカネをかけて裁判しなくてもいくらでも反論することができます」っていわれても、では、「大企業は、フリージャーナリストから何を書かれても、訴訟をしてはならない。許されるのは反論のみだ」という仕組みにしてしまうと、例えば、相撲協会がテレビの放送枠や新聞の紙面を借りて「八百長はしていません」と述べれば、かたや「フリージャーナリストは大企業が相手であれば何を書いても許される」ということであることないことがんがん書きまくる、「匿名」の元力士の「証言」はもちろん、そのうち現役力士の「証言」を捏造してまでも、がんがん「八百長疑惑」を追及していく。これに対して、「我々は、八百長なんかしていません。○○に掲載されていた××のインタビュー記事は全くの捏造です」みたいなことを、新聞やテレビで意見広告として載せていくと(で、それは、反論広告の掲載料はただではありませんし、また、反論のために充てた人件費だってただではありません。)。で、それで、どこまでやったら、一度毀損された名誉は回復するんですか?

 その間、そのフリージャーナリストは原稿料がっぽり、その原稿を掲載したメディアも購読者の増大でがっぽり儲ける。フリージャーナリストとしては、むしろ、大企業が思わず反論したくなるような、その企業にとっては致命的な、それでいて真実ではないネタを、証言を捏造するなどして、いかにも真実であるかのごとく記事を作り上げることがビッグなビジネスチャンスに繋がるという、フリージャーナリストにとってはパラダイスのような社会ですが、それが社会全体にとって理想的かというと、そうではないような気がします。

 

 ジャーナリストだって、主観的にはともかく、客観的には間違う場合があり、それが特定の人や企業の名誉や信頼を損ないかねないような事実摘示等を含んでいた場合にはその人や企業に不当な損害を与えることになるのだから、その記事の根拠を問われたらこれをすぐに開示できるような準備をしておけばいいのではないかと思うのです。取材メモを含めた資料をコンピュータで管理しておくことは今やそんなに難しいことでもないわけですし。それができないジャーナリストは、特定の人や企業を不当に害するおそれのある記事は書くべきではないのではないかと思ったりはします。

01/02/2007

ブロードバンド化と退会処分の強制力

 ダイヤルアップが中心だった時代は、インターネットにアクセスしようと思ってもアクセスポイントが込みすぎていてアクセスできないと言うことも多かったせいか、1人で複数のISPと契約している人は希ではなかったですし、また、既存の電話回線+ユーザーが自己調達するモデムでアクセスができましたので、ISPを乗り換えることも容易でした。

 しかし、ブロードバンドが普及していくと、ISPを乗り換えるのも容易ではなくなってきました。というのも、ADSLや光回線でインターネットにアクセスするのに必要な機械の提供を受けたり、回線を自宅まで引き込みなどの作業を受けたりしているからです。また、同居の家族全体で1契約という例も多く、その場合、家族の1人の意向のみでは、ISPを乗り換えることはできません。

 したがって、たとえば「2ちゃんねる」等で誹謗中傷発言を繰り返しているユーザーが現れたときに、運営者側で、そのユーザーのアクセスプロバイダに連絡をして、当該ユーザーに対し、今後同じような誹謗中傷発言を行わないように警告してもらい、それでもさらに繰り返すときにはアクセスプロバイダに連絡をしてそのユーザーを退会処分としてもらうことができれば、誹謗中傷コメントはかなり減少することが期待できます。

 とくに、その人が一人暮らしでない場合には、家族全体を巻き込むことになりますので、そこで家族による精神的なケア等がなされることをある程度期待できます。

欧文による抄録

 前回の情報ネットワーク法学会の定期大会で発表した「Anonymity Provider の法的責任」について、同学会用のローレビュー紙に掲載すべき原稿を、何とか学会事務局に送信しました。

 何が困るって、「欧文による抄録」までつけろと指示されているところです。このように指示されてしまうと、邦文による抄録を、欧文でかける範囲に合わせざるを得ません。

 (私の母校である早稲田大学法学部では、英文を読むことは入試で求められても、英文を書くことまでは求められていないのです。)

被告人に有利な証拠を握りつぶす権限

 日本の刑事裁判において有罪率が極めて高い原因の1つに、「検察には、被告人に有利な証拠を握りつぶす権限が事実上認められており、検察はしばしばこれを行使する」ということがあります。

 検察側と被告人側とでは、証拠収集能力に明らかに差があるので、「当事者主義」を形式的に適用して「被告人に有利な証拠は被告人側で独自に収集すべきであって、検察側の手持ちの証拠を見てそこから被告人に有利な証拠をピックアップしようというのは怪しからん」なんてことをいってみたって始まらないのです。

 例えば、この事件では、「指紋の鑑定結果」の開示が問題となっていますが、「犯行現場にどんな指紋が残っていたか」ということに関する証拠を被告人側が独自に収集するなどというのは実際問題として不可能です(仮に「犯行現場に被告人の指紋はなく、むしろ被告人の指紋とは異なる指紋が重要な箇所に残っていた」場合に、これを秘匿しきってその被告人を有罪にしたところで、それが「社会正義の実現」に繋がるとは思いにくいのですが、それでも被告人に有利な証拠は開示せずに握りつぶしを図るのが今の日本の検察です。)

 ですから、諸外国では、検察に手持ち証拠の全面開示義務を負わせた立法例も少なからずあるわけですが、日本の司法改革というのは、こういうところには及ばないのです。

 さらに、供述証拠の同意・不同意制度も「被告人に有利な証拠を握りつぶす」ために活用されています。

 検察側が提出した供述証拠に弁護側が「不同意」という意見を付す場合、その供述者が証人として採用されることを覚悟しています。つまり、弁護側は、反対尋問をしたいが故に、「不同意」という意見を付すのです。しかし、弁護側が提出した証拠に検察側が「不同意」という意見を付す場合は違います。その供述者について弁護側が証人申請をし、「どうぞ、反対尋問して下さい」といっても、検察官はその供述者を証人として採用しないように裁判所に意見をします。裁判所が検察官の意見を受け入れてその供述者を証人として採用しない場合はどうなるのかというと、その供述者の知見ないし認識というのは、その裁判の中では、なかったことになります(例えば、痴漢事件などで、「以前、この『被害者』から痴漢をされたと言いがかりを付けられ、『黙ってほしかったら有り金一切よこしな』といわれた」という人を弁護側が捜し当てたとしても、検察はそのような事実をなかったことにできます。)。つまり、検察は、供述証拠の同意・不同意制度を、「被告人に有利な証拠を握りつぶす」手段として活用できるということになります。

 日本の司法改革では、この点も改まりませんでした。

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