裁判所との感覚の齟齬と不見識との関係
ライブドア事件について落合先生は、
特に、重い意味があるのは、問題となった犯罪が、まだ1審とはいえ、裁判所によって、懲役2年6月の実刑という判断が示されるだけの「重大な犯罪」であった、ということだと思います。「この程度のことで検察庁が動くのはおかしい」などと言っていた人々は、自らの不見識を多少は反省したほうが良いでしょう。と仰っています。
そうはいっても、裁判所が下した量刑と自分の感覚とに齟齬が生ずることを「不見識」であるとするためには、裁判所の量刑が検察官の求刑にむやみに引き摺られることがないということが前提となろうかという気がしますが、日本の刑事裁判において概ねそのようなことがいえるのかというと、どうかなあと思ったりはします。また、その後発覚した同種案件についての取扱いを見る限り、属人的な要素を度外視したときになおも起訴価値があるとの認識が検察内部にすらあるのかは多分に疑問だったりはします。
こういう判決を目にすると、いろいろな問題点はあるにしても、裁判員制度の下で「判決の形成過程」に市民が関与することに一縷の希望を見出したくなってしまいます。
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