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24/06/2007

コメント欄におけるネガティブコメントの正当性の基準

 ブログのコメント欄におけるネガティブコメントが「正当な批判」でなくなるのはどういうときでしょうか。

 そのこととの関係で思い出すのは、私が司法修習生だったときに司法研修所の大講堂で聴いた平井宜雄先生の「良い法律論」についての講演です。要旨を一言で言ってしまうと、「反論可能性のある議論が良い議論だ」ということになります。逆にいうと、「反論可能性を与えない議論は悪い議論だ」ということになります。講演では、どのような法律論が反論可能性を欠く法律論なのかを具体論を交えて説明してくださった記憶があります。

 ブログのコメント欄におけるネガティブコメントが「正当な批判」の範囲にとどまっているかを考えるにあたっても、この「反論可能性」という考え方は参考になるような気がします。但し、「反論が可能か否か」を考えるにあたっては、論理的に反論が可能かだけではなく、物理的または心理的に反論が可能かということを考えないといけないし、さらにいうと物理面または心理面に関していえば反論の容易性の程度も斟酌しないといけないのかなという気がします。

 従って、前回のエントリーで取り上げた、名前欄に「異議あり」としか書き込めなかった匿名さんのコメントのように、ブログ主に非常に高い立証のハードルを課すことによって再反論を封じるようなコメントは「正当な批判」とは言えないということになります。

 また、社会人は限られた時間の中でブログを開設していますので、それに答えたり再反論をしたりするためには過度の時間や労力がかかるような質問や批判というのは正当な範囲を超えることになりがちです。ですから、短期間に沢山のネガティブコメントを特定のブログ主に投げつけるコメントスクラムは、その内容にかかわらず、批判としての正当性を失うことになります。

 また、同様にブログ主の時間には限りがありますから、沢山の質問や批判を投げつけられても、これらすべてに答えることは困難です。従って、ネガティブコメントの分量が多くなっていけばなるほど、批判としての正当性は薄れていきます。

 他方、礼儀正しさを欠く質問や批判に対して、まともに回答したり再反論したりという意欲を失うのは、人間の感情としては自然です。そういう意味では、「正当な批判」を行うためには、心理的な反論容易性を確保するという意味で、文体というのは重要です。従って、いかにもブログ主を馬鹿にしたような文体や、ブログ主に対する敵意剥き出しの文体だと、内容の如何を問わず、「正当な批判」の枠内にとどまらなくなる可能性が高いと言えます。同様に、ブログ主を本人が名乗っているとおりの名前で呼ばなかったり、あるいは、一見してふざけた捨てハンドルを名前欄に記入したりというのも、ブログ主からまともに反論する意欲を失わせますから、批判としては正当ではなくなる可能性が高まります。

 いろいろ言い出すときりがないのですが、抽象的にまとめていうと、「ブログ主の見解が間違っていた」という以外の理由でブログ主が質問に回答したり批判に答えたりということを回避してしまうような状況を作り出すネガティブコメントは、「正当な批判」とは言えなくなっていくということです。

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