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02/12/2007

近頃の裁判員制度亡国論と「世間の風」について

 裁判員制度に対する批判のうち、既に参審制が採用されている諸外国においてクリアできている問題について、それらの国の制度や社会環境と日本の制度や社会環境との違いから論理的な道筋をつけることなく、日本の裁判員制度ではクリアすることができないと大騒ぎするものについては、さすがに最近はうんざり気味です。「一般市民から無作為抽選で選ばれた人々が職業裁判官と一緒に刑事被告人を裁く」という制度が世界で初めて日本で導入されるというのであれば、そのような手続きに参加することによる一般市民の経済的ないし心理的な影響がいかなるものになるか全く分からないという恐怖を持つのはある程度理解できるのですが、そのような制度は他の民主主義諸国において少なからず既に導入済みであり、それらの国々においては裁判員制度反対論者が予言するような致命的な弊害は発生していないのですから、特段の事情がない限り、そのような致命的な弊害は発生しないであろうと考えるのが穏当だろうと思います(もちろん、政府としては、反対論者が掲げる問題点につき、参審制が導入されている諸外国においてはどう対処されているかについて、FAQのような形で広報した方がよいとは思いますが。)。

 量刑についていえば、裁判員に量刑判断もさせる制度を採用した以上、従前の職業裁判官らによる判断の積み重ねにより形成されてきた「量刑相場」とは異なる量刑が下されるのは当然織り込み済みだというより他ありません。より詳細にいうならば、従前の「量刑相場」が世間の量刑感覚と一致していれば裁判員制度のもとで形成される量刑相場も同じような水準に収束していくでしょうし、従前の「量刑相場」が世間の量刑感覚と乖離していれば、職業裁判官が従前の「量刑相場」に収束させるべく裁判員を強引に誘導しない限り、裁判員制度のもとで形成される量刑相場は世間の量刑感覚と近いところで収束していくだけの話です。それが良いことなのか悪いことなのかは一概には言えませんが、それが許されないというのであれば、裁判員による判断事項を、罪となるべき事実の認定までに限定すればよいだけのことです。

 ただ、近年は「世間」の量刑感覚よりも軽い量刑が下されることを目指して弁護活動を行うことが被害者の人権を損なうものであって許されないとする声が非常に高まっているのであり、そうだとすると、弁護人は「世間」の量刑感覚に従わなければいけない注1のに、実際に判決で下される量刑は世間の量刑感覚に従わない方がよいとするのは、むしろ倒錯しているのではないかという気がしてなりません。そういう意味では、光市母子殺人事件について、被告人を死刑に処さないという第1審及び第2審の判断及び被告人が死刑に処せられることを目指して弁護活動を行う弁護人を許せないという人々は、量刑相場を「世間」の量刑感覚に近づけることができる可能性のある裁判員制度が近々導入されることを諸手を挙げて賛同すべきなのではないかと思ったりします。

 

注1 これに反すると、執拗な嫌がらせを受けたり、場合によっては讀賣テレビの煽動のもと大量の懲戒請求にお付き合いしなければならないなどの制裁を加えられることになる虞があります。

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