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mai 2008

29/05/2008

不足を補う方法

 森永卓郎さんのエントリーが反響を呼んでいます。

 細部については大げさな部分が多々ありますが、医師が偏在しているのではなく、医師の数が絶対的に不足しているのだとすれば、対策としては、医師を大量に促成するか、医師に任せる仕事を少なくするしかないわけです(医師の偏在が問題なのであれば保険点数の配分を変更するとか、注意義務の内容を変更するなどの手法も選択肢としてあり得るのでしょうが、そのような手法は絶対数が不足している場合には無意味です。)。後者については、必ずしも医師でなくてもそれなりにできる仕事については医師以外の者も業として行えるようにするということも選択肢に含まれるというべきでしょう。

 そして、後者については、従前医師が行っていた業務の一部について、それのみを行い得る資格というのを新規に創設するということも含まれます。現在、医師は、どの科も扱えるジェネラリストとして養成され、資格が与えられているわけですが、そのうちの特定の範囲の仕事のみを行えるようにするということであれば、その養成に必要な期間も短縮されるし、必要とされる知識や技量も、医師について必要とされる知識や技量よりも少なく済む可能性があります。

 具体的には、コンタクトレンズの処方であれば医師がこれを行う必要は必ずしもないように思われますし、麻酔の施術についても、それ専門の教育を受けたとして一定の資格を付与された者がこれを行いうるようにするという方法があり得るようにも思えます。ジェネラリストとしての養成を受けずともスペシャリストとしての養成を受ければ十分にこれを行い得る仕事としてどのようなものがあるのかについては専門的な知識があるわけではないですが、諸外国における実践等も考慮した上で、従前医師のみが行えた仕事の一部を医師以外の者に委ねることを真剣に検討すべきように思います。

26/05/2008

「別の観点からのデータ」が必要であるというのであれば、これをもっている人が提示して議論を先に進める方が、それを出さないことを非難して議論を押しつぶそうとするより、効率的である。

 自分のブログのエントリーを批判しているエントリーにコメント欄を投稿したところ、これに批判的なコメントやら揚げ足取りなコメントや些末的なデータの提出を求めるコメントやらがわあっと送られてきたのでその一部についてコメントを付けたところ、その全てに回答を付さなかったことについて非難をされると同時に、その多くをカバーするようにコメントを付したことについて非難されたりするわけですが、両方の要請を同時に満たすことはあり得ないので、まあ、結局のところ、匿名さんたちによるいちゃもんについては「ご無理ごもっとも」で平身低頭する以外はネット上では許されないのだということが言いたいのでしょう。

 平均と平均を比較することに意味がないということは現実の社会では存在しないのであり、単に、メジアンとメジアンを比べたり、両者の正規分布表を比べたりできればより有益だというのにすぎないのであって、平均と平均を比較するよりも、このようなデータ同士を比較した方が実態がより鮮明に浮き上がるというのであれば、そのように思う方がそのようなデータを提示したらよいのであって、平均と平均を比較した人が標準偏差を出さないのはけしからんという話には一般的にはならないのです。まあ、ネット上では匿名さんは自分たちは対実名ブロガーとの関係では一種の「神様」として取り扱われるべき存在であると思っておられるので、匿名さんが望むデータは全て実名ブロガーがどこかから調達して(あるいは時間とコストをかけて自分で調査等を繰り広げて)提示しなければけしからんという話になりがちなのですが、それは結局のところ、都合の悪い議論を押しつぶす結果にしかなり得ないということができます。

 あくまで趣味の範疇として議論を行うことがブロガーに許されている以上は、より詳細なデータや観点の異なるデータはそれをもっている人が提示をすれば良いだけのことであって、相手が特定のデータを提示しないことをもって「あいつはソースを出さない」云々と執着するのは、いわば「為にする議論」であるというべきでしょう。

25/05/2008

医療系匿名さんの言い草に関するとりあえずの一まとめ

 国民1人あたりの医師の数を計算してそれが諸外国と比べて少ないから医師不足なんだ、みたいな議論って、意味が乏しいですね。そんなことを言い出したら、日本は未だに弁護士不足なはずなんだけど、実際には今年新たに資格を取得する新人さんの働き口が大量に不足している!と会内で問題となるくらい、現実には既に供給過多状態にあるわけですし(偏在があるが故に不足している分野はありますが。)。

 実際のところ、歯科医師が既に供給過剰状態にあることは既に知られているし、皆保険制度がない獣医業界も大変ですし、開業医の倒産件数も徐々に増えています。病院の勤務医や一部の診察科目については医師不足が問題となっていますが、それは医師内部の待遇格差等に基づく偏在の問題であって、医師全体の数が不足しているということの裏付けにはなっていません(これも、弁護士過疎地が存在するということが、弁護士全体の数が不足していることの証拠にならないのと同様に考えることができます。)。また、医師の需要自体は、医師でなければ行い得ない「医行為」の範囲をどうするかによっても変ってきます。例えば、「Doctor of Optometry」のような制度を導入すれば、「使い捨てコンタクトレンズの処方」等の需要を満たすために医師資源を消費せずに済むようになります。あるいは、病院内での雑務を医師以外の者が行うようにすることでも、医師の需要を減らすことができます。

 医師の所得についての国際比較をすると、米国・英国の勤務医こそ日本の勤務医よりも平均値において所得水準が高いものの(ただし、物価高のイギリスにおいて購買力平価で計算するとどっこいどっこいになります。)、仏・独等の欧州諸国においてはこの円安・ユーロ高の現状でも日本より相当低く、米国でも家庭医の所得水準は日本の開業医よりも相当に低いというのが、ネットで手に入る統計から見て分かる事実です。もちろん、皆保険制度が崩壊したときに日本の医師の多くが米国の大病院から勤務医として迎え入れてもらえる状況にあるのならばいいのですが、言葉の壁がある分、かなり腕が良い方以外は難しいのではないかという気がします(そんなに大量の医師が米国の勤務医市場に参入すると、その給与水準も低下するでしょうし。)。

 皆保険制度が崩壊し、価格設定が自由になると、皆保険制度に基づく国庫助成の消失に伴う需要の減少を補えるほどの価格の上昇を見込めるのかということについては、実際にその診療を受けなければ命が危ないことになるが保険の適用はなく高額の治療費が自己負担となるケースである「子供についての海外での臓器移植」に関して、募金等によりその費用が概ね捻出できた後でなければほとんどの親はこれに踏み切れていない現実を前にすると、かなり絶望的なのではないかという気がします。

 臓器移植ではなく美容整形等を例に考えろという方もいますが、あれは不要不急の贅沢サービスであって、生活に余裕がある人が受けるものですから、皆保険制度が崩壊した場合に医師たちが患者の弱みにつけ込んでどんどんと報酬額を引き上げていった場合資力の十分ではない中間層等がどのように行動するのかを考える上での資料にはならないように思ったりします。

22/05/2008

とりあえず、平均値で比較してみる。

 医療系コメントスクラムな方々からは、医師の働き場所は日本国内には限られないという捨て台詞もしばしば聞かれます。そうはいっても、どうしても多くの日本人には言葉の壁がありますから、仮に海外で通用する資格を持っていたとしても実際に海外に移住してそこで仕事をするのは大変だと思うのですが、それはともかく、海外の医師の生活というのはそんなにバラ色なのでしょうか。

 BMJによれば、2003〜4年の病院に勤める医師の給料の平均は、イギリスで8万ポンド強、その他の仏独西伊で4〜5万ポンド程度とのことです(1ポンドは約200円)。これに対し、愛知県保険医協会によれば、医療法人等の一般病院に勤務する医師の平均年収が1421万円ということですから、日本の勤務医の平均年収は英国に比べると低いが、大陸諸国と比べると相当に高いと言えそうです。

 米国の病院勤務の医師の平均所得は更に高い(といっても、桁は違いません。さらに、下げ基調だそうです。また、家庭医の所得水準は大分低いです。)のですが、でもその分、米国の医師は常に高額の医療過誤訴訟リスクに絶えず晒されます。医療過誤訴訟が時折起こされること自体を「医療崩壊」の原因の一つにする医療系コメントスクラムな方には耐えられない世界でしょう(一晩入院するだけで何十万円も請求される社会では、期待通りの結果が得られなかったら、そりゃ、容赦はされないでしょう。)。

 ネット上では、平均値で比較するとあのデータが足りない、このデータが足りないと「為にする」批判が飛び交うのですが、とりあえず平均値で見る限り、日本の勤務医の所得水準が海外のそれに比べて著しく低いということはなさそうです。

21/05/2008

健康保険制度が崩壊して困るのは患者のみか,医師も困るのか。

 医療系ブロガーさんたちはしばしば,保険医療制度が崩壊しても困るのは患者たちであって,医師は困らないみたいな捨て台詞を吐きます。まあ,確かに患者は困るとは思いますが,医師も困るのではないかという気がします。

 法律サービスの場合,国民皆保険のような制度はないので,普通の市民が弁護士等による法律サービスを受けるためには,原則として,弁護士等に支払うべき報酬額等を全額自費で捻出しなければなりません。すると,本来弁護士等による法律サービスを受けることが望ましい人の多くが,その費用を捻出できないために,これを受けられないということになります。弁護士の数が増えて,一般市民向けの法律サービスの時間単価が低下すれば,弁護士等に支払うべき報酬額等が自費で捻出できる範囲内で収まる場合も増えてくるとは思いますが,それが生業として位置づけられる限りにおいては時間単価を引き下げるにも限界はありますから,その限界的な単価で計算した報酬額等ですら支払えない人は弁護士等による法律サービスを受けられないということになります。

 これは,逆に言えば,国民皆保険のような制度があり,国民が弁護士に支払うべき報酬等の一部が保険から支払われる制度のもとであれば存在した「需要」が,そのような制度がないが為に消失しているということになります。

 健康保険制度が崩壊するということは,健康保険制度が存在したとするならば存在していたであろう「需要」が消失するということになります。その場合,健康保険制度の存在を前提として現在ある医療システムは,供給過多の状態に追い込まれることになり,結果的に医師の所得水準の低下を招くことになります。

 もちろん,現在でも健康保険制度を利用しない医師というのは,歯科医や美容整形等の分野では少なからず存在してはいます。しかし,彼らの市場は非常に小さい(費用の心配をせずに診療を受けられる国民というのは,数が極めて限られます。)ので,この分野に転換する医師が増加をすると,たちまちのうちに供給過多に陥ります。

 健康保険制度がなくなれば,医師は従前よりも高い時間単価で仕事をすることができ,したがって従来よりも少ない仕事時間で優雅な生活を送れるようになると期待しているとすれば,それは甘いといわざるを得ません。健康保険制度がなくなった場合,医療機関側が患者から受け取る時間単価が同じでも,患者が支払う単価は3.3倍です。医師側の受け取る客単価を高めるためには,患者側はそれ以上の負担増を甘受しなければならないわけですが,それに耐えられる人がどれだけいるというのかということです。

 確かに米国では娘の手術代を確保するために数千万円の借金をする人も少なからずいますが,それは,娘の親権を勝ち取るために数千万円の借金をして弁護士に報酬を支払う人が珍しくない社会でのお話です。わが国とは,専門家に高額の報酬を支払うということに対する感覚が根本的に違っており,恐らくは参考にはならないと考えるべきでしょう。

19/05/2008

炎上させるための基地を提供するiza!のネット戦略

 何はともあれ,自分とは相容れない意見を封殺するために特定のブログを「炎上」させるように呼び掛けることは表現の自由の濫用だと思うので,このエントリーは問題ではないかと,iza!のスタッフにはメールで連絡しておいたのですが,一向に善処されていないところを見ると,他のブログを炎上させるように呼び掛けることは,少なくとも右から左方向へのものである場合には,iza!としてはOKということなのだろうと判断せざるを得ません。

もちろん,政治家は個別事案について責任を負えるものではないが

 楠さんは,そのエントリーの中で次のように述べています。

個々の保護者の判断が正しいかは本人にも分からないだろうが、仮に首相や教育再生会議の面々が個々の保護者よりも適切な判断ができると考えているとすれば随分と傲慢な話ではないか。保護者は子どもの行く末に対してそれなりの責任を負うが、政治家であれ官僚であれ有識者であれ、何ら個々の児童に対して責任を負える立場にはない。

 それは,楠さんの周りにいる「標準よりは相当賢い大人たち」しか視野に入っていないご意見なのではないかという気がします。それは,楠さんに限らず,MIAUの方のご意見について,おしなべてそう感じたりします。

 でも,実際には,そういう特別に賢い人たちだけが子供を育ているわけではありません。首相や教育再生会議の面々が保護者たる楠さんよりも適切な判断ができると考えているとすれば随分と傲慢な話かもしれないですが,ある一定数の保護者よりは適切な判断ができると考える分には現状認識として特に間違っているわけではありません。政治家であれ官僚であれ有識者であれ、何ら個々の児童に対して責任を負える立場にはないにせよ,親たちの判断の過ちから子供を救うことに責任を果たすことはできるはずです。実際,様々な虐待等から子供たちを救うべく様々な規制が既に設けられ,また今後も設けられようとしています。

17/05/2008

ロビー活動する上ではマスコミの協力は有益

 団藤晴保さんがそのブログ

 ブログ側の問題としては、これほど林立し、読者を多数獲得している医師ブログを現実を変える力にすることです。医師ブログ側にあるマスコミ不信は強烈です。しかし、ブログの世界だけに止まって議論していて、行政まで変えられるはずがありません。メディアの力も借りてでも動かして行かねばならないことに早く気付いて欲しいと思っています。そして、その段階では匿名から実名に切り替わらねばなりません。私が扱っているオピニオンのページなど、新聞メディアで行政の無様さに対し真っ正面から発言をしていただくためには実名で登場してもらうしかないのです。

と書いたところ,医療系コメントスクラムが発生しました。

 レコード輸入権問題以来著作権法の改正等に関してちょこちょこロビー活動をしている私としては,如何にしてマスメディアにこちらの主張を載せてもらうのかということにどうしたって腐心せざるを得なかったし,そのためには仮想空間の人格ではなく現実社会の人格としてマスメディアの人間等と交流することが必要とされるのは当たり前ではないかという気がしてなりません。政策決定過程の要所にいる人々が何から情報を得ているのか,そして彼らは情報がどのような状態になっていることを好むのかということを考えれば,テレビや全国紙に掲載されるということはどうしたって重要になります。それらの人々が日々ネットサーフィンをして匿名さんの意見を吸い上げてくれるということは現実問題として期待しがたいし,敵意と侮蔑に満ちた大量の文章がメール等で投稿されても,彼らにはそれを丹念に読む時間はありません。

 そしてそのためには,自分はその意見を全国紙等に掲載されてしかるべき人物であることをアピールしていく必要があります。それを,現実社会での人格を隠蔽したまま行うのは,これを晒しつつ行うのと比べて,ハードルが高いということができます。匿名の陰に隠れた抽象的な人格の発言より,具体性をもった人格の発言の方が,アピールする力が強いのです(エイズ問題におけるフレディ・マーキュリー氏,薬害エイズ問題における川田龍平氏,薬害肝炎問題における福田衣里子氏の言葉の力を考えれば,そのことは明らかです。)。



【追記】

 その後,上記エントリーのコメント欄に,

 しかし大方の医者にしてみれば、本業はあくまでも目の前の患者を診ることであり、「言論」なんていうものは余分、世の中を変えるなんて世迷い言。
「藪医者はよくしゃべる」という諺があります(今作りました。多くの医者が頷くと思います)。
諺はウソとしても、弁護士と違って「テレビや全国紙に掲載される」医者は、決して尊敬されてこなかったのです。「そんなことしてる間に、ちゃんと患者を診ろよ」というのが医者の職業倫理からくる反応であります。

との投稿がなされました。しかし,医師に対して批判的なエントリーや,意思の責任を追及する立場の人のブログ等に,一斉に攻撃的なコメントを投稿して,コメント欄をいわば量的に「乗っ取って」しまうことの方が尊敬を失う度合いが高いし,それを匿名で行っていると,その悪いイメージは医師一般に跳ね返ってくるのではないかという危惧がないわけではありません。実際,弁護士系ブログが炎上しないためのポイントとしては,「政治について語らない」とか「芸能人の悪口を言わない」以前に,「医療過誤訴訟で原告側(患者側)に立っていることを表明しない」という暗黙の「ルール」が事実上成立してしまっていますし。

16/05/2008

DeNA方式

 ネットでの誹謗中傷規制のもう一つのあり方としては,モバゲータウンに関してDeNAがやろうとしているIT・人海戦術MIX方式というのがあり得ます(こちらを参照)。人海戦術だけですと,1000万会員を450名のスタッフで監視することは困難ですが,誹謗中傷等の人格権侵害行為で用いられる言葉はある程度共通性があるので,一定の条件に合致する文字列が含まれる投稿を機械的にピックアップしてこれを人海戦術的に目視することで,違法・有害なコンテンツを速やかに探し出して削除することが可能となります。加えて,ランダムな巡回を頻繁に行うことによって人格権侵害に用いられる新たな文字列の組み合わせを見つけ出し,ピックアッププログラムの中に取り入れることができます。

 では,それは膨大なコストがかかるのかというと,スタッフ1人あたりの人件費を年600万円としても,450人体制で27億円。利用者1000万人として,1人あたり年270円。IT部分のコストを計算に入れても,1人あたり年500円程度で済みそうです。利用者あたりの監視スタッフ数を倍にしても,1人あたり年1000円程度で済みそうです。

 監視スタッフに現実に目視されるまでは名誉毀損投稿等が残ってしまうという難点があるので,匿名性を制限することによる抑止力を用いるのと比べて被害者には優しくないですが,それでも,名誉毀損投稿等が放置される現状よりは遥かにましです。

 他人を誹謗中傷するために匿名性を利用している奴らと一緒にされたくないという匿名主義者さんたちこそ,ブログ事業者等にこのような監視システムの導入するように求めたらいいと思うのですが,実際には,そういう動きはないようです。

 このように著名人のブログを炎上させることを呼び掛けるエントリーを公開しても特に非難の対象とはならないことからも分かるとおり,「あいつらと一緒にするな」といいつつ,ネットの匿名性が現実社会の人間を不愉快にするために用いられることを,本音のところでは好ましく思っている方が匿名主義者さんには多いのではないかと思われます。

15/05/2008

オタクであるということは手段ではない

 novtanさんは,次のように述べています。

たとえば、オタク集団がアキバでコスプレして暴れたりパンツ撮ったり撮られたりして目に余るから規制される、というのはわかります。だって当事者ですものね。でも、それをもって「オタクすなわち悪、オタクという存在そのものが規制されるべき。世の中にオタクがいなければアキバは無条件に平和!」とか考えちゃう人はバカだと思われますよね。

 「オタクである」というのは,パンツを撮ったり撮られたりするための手段ではないから,「オタクである」ということを規制しても仕方がないですね。「オタク」であれば,パンツを撮ったり撮られたりしても摘発される危険が軽減されるということもありませんし。

 これに対し,ネット利用者に関していえば「匿名である」というのは,誹謗中傷を行うための手段としてしばしば用いられているわけです。この場合に,「誹謗中傷」を行うために手段である「匿名性」をネット利用者から排除することは,「誹謗中傷」を減少させる有力な方法となり得ます。

 この種の法規制って極めて一般的に行われているのであって,それが全てけしからんということになると,ある種の犯罪なり不法行為なりを未然に抑止する法制度というのがおおよそ維持できなくなります。もちろん,実際に犯罪なり不法行為を行った人に対してのみ制裁を加えればよいのであって,犯罪なり不法行為のみに用いられるというのでなければ,しばしば犯罪や不法行為に利用されるものや手段について一切の事前規制を行うべきではないという考え方もあり得なくはないのですが,しかし,それを貫くとなると,個人が匿名で青酸カリを購入し保有することすら規制できなくなるわけで,それが殺人等に用いられたときにはそれを用いた犯人が摘発された場合には死刑を含む重い制裁が下されるということがあるにせよ,非常に危険な社会になってしまうような気がします。

 ネット上で匿名でやりたい放題のことをしていたい,自分がそんな言動を行っていると現実社会の知り合いに知られたら恥ずかしい言動を思う存分行っていたいというだけのために,そのような危険な社会を将来することもやむなしというのも如何なものかなあと思います。

13/05/2008

攻撃的言辞による弊害って,被害者の側が「情報の取捨選択が出来」ても,何にも解決しない

 novtanさんは,

匿名言論が限界なんて言ってしまえるのは情報の取捨選択が出来ない人の言い訳ですよ。

仰るのですが,攻撃的言辞による弊害って,被害者の側が「情報の取捨選択が出来」ても,何にも解決しないのです。そういう訳の分からない啖呵って,匿名主義者さんたちからは喝采を浴びるかもしれないけれども,匿名言論により不当な攻撃を受けている人々から相談を受けている私たちからすると,全く無意味なリアクションです。

 それと,現実社会に様々な弊害をもたらすある行為を批判しそれを規制していこうとする行動のほとんどは,その種の行為をしない自分を相対的に偉くすることを狙ったものではなく,それはネット上での匿名言論に対する批判についても同様に言えることです。

12/05/2008

あらまほしき「寂しくないネット社会」

 hrkt0115311さんからトラックバックをいただきました。

「議論の限界」「寂しい生き方」ということですけれども、小倉さんが繰り返しエントリをお書きになっても「届かない」方たちが、全員読解力が低いはずないですよね。いったい何がネックになって理解しあえないのでしょうか?

とのご質問についてですが,「匿名の陰に隠れることで手に入れた,現実社会の人間や組織を一方的に攻撃できる地位」を一種の既得権と捉えているとすれば(ここでいう「攻撃」は,あからさまな「誹謗中傷」に限らず,自分のことを棚に上げて他人にやたら倫理的な負担を強いるものや,「上から目線」で他人を非難し又は他人に命令を下してみせるものを含むものとします。),その「既得権」を撤廃しようという意見はもちろん,その「既得権」による弊害の大きさを指摘する見解に対しても,感情的にこれを受け入れられないというのは,「よくある話」の部類にあたるように思います。また,ネット上の人格と現実社会での人格が結びつくことに対するある種の恐怖感は,現実社会での自分に自信がなくかつ現実社会に怯えて生きていることだけでなく,ネット上での自分にも自信がないことが伺わせます(ネット上の別人格で誹謗中傷ライフを満喫しているというわけでもない方々ですら,ネット上での人格と現実社会での人格とが結びついたら現実社会での自分やその周囲にネガティブな影響が及ぶのではないか,と気に病んでいるわけですから。)。

 

小倉さんが感じられている「限界」をとりはらい、「寂しい生き方」ではないネットでの振る舞い方を実現した場合、具体的にはどのようなネット社会になるのでしょうか?

とのことですが,「何を成し遂げ,何を語ったか」によって人が(ネット空間でのみならず現実空間でも)評価される「フラットな社会」が実現し,高く評価されるために,各人が比較優位をもっている領域について質の高い情報を提供するようになるのではないかと期待しています。誰でも,検閲を受けることなく,即時に,全世界に向けて,情報を発信できるというウェブという仕組みは,それが現実社会と結びつくときに最も,その才能を発掘し,照らし出す機能を発揮します。

 ekkenさんの比喩に即していうならば,上司が部下に注意しているシーンの後、注意された部下がアフター5にネット上で匿名でその上司や会社または全くの第三者を攻撃して憂さを晴らしているのが,ネットでの匿名言論の実情です。「アフター5に英会話教室で仲良くしている」姿を理想とするのであれば,ネット上で英語でチャットをする二人が現実社会では上司と部下の関係にあることをお互いに知りつつ,それでいて上司は部下を見下さず,部下も上司を敵視したり,自分の方が英語が上手であることを笠に着ない姿勢をとることが必要となることでしょう。

09/05/2008

適法な行為を圧殺する「淘汰圧」に価値はあるのか。

「これはやらない方がいい,ということをわきまえていればいじめは起きない。そういった情報をもっとみんなで共有するといいんじゃないか。例えばリーダー格の生徒の命令に逆らう,いじめられている子をかばうとか。そういうことをしちゃいけいないというわけじゃなく,そういうことをする自由はあるんだけど,やるのなら覚悟したほうがいい。」ということをいじめを放置している学校の教頭先生が公言している場合,それは,その学校の姿勢として,リーダー格の生徒の命令には従え,いじめられている子はかばうな,といっているのとほぼ同意義なのではないでしょうか。その結果,多くの生徒が,いじめられたくないばかりに,リーダー格の生徒の命令には,それが如何に理不尽なものであっても従わざるを得なくなり,また,目の前で他の生徒がいじめられているのを見かけても見て無ぬふりをするようになったとしても,それは「淘汰圧」の結果であって,好ましいものと見るべきなのでしょうか。

その学校で「いじめられたくない人のためのいじめられないためのガイドライン」をつくって,

「一,リーダー格の生徒の命令には,それがどんな者であっても逆らわないこと

 一つ,いじめられている子を見つけても決してかばわないこと」

とやれば,それはその学校のポリシーとして,リーダー格の生徒の命令には全て従うこと,いじめられている生徒を見つけても決してかばわないことを命じているものと見るべきであって,単に命令に違反した場合の制裁を学校として直接下すのではなく,いじめ集団を通じて間接的に下すこととしているにすぎないと見るべきでしょう。

そしてそれは,その「いじめ」が物理的な有形力を伴わない集団的な誹謗中傷や人格攻撃であっても同様でしょう。そしてそれは,学校という子供たちの集団に限った話ではありません。

「これはやらない方がいい,ということをわきまえていれば社内いじめは起きない。そういった情報をもっとみんなで共有するといいんじゃないか。例えば,社長からのホテルへのお誘いを拒むとか,上司から胸を触られたくらいで騒ぐとか。そういうことをしちゃいけいないというわけじゃなく,そういうことをする自由はあるんだけど,やるのなら覚悟したほうがいい。」「覚悟して戦う強さを自分が持っていると思えば,拒めばいい。そうではなく自分が傷つきたくない,批判されたくないという人は,社長からのお誘いは受け入れれば良いんじゃないかな」ということを取締役が公言する会社においては,従業員の性的自己決定権は制約されていると言うべきだと思うのです。実際にそのようなことをすると,社内で執拗に攻撃され,それについて上司が見て見ぬふりをする環境ではなおさらです。その結果,この会社においてどのような人間が淘汰されるのかは,法が介入しなければ,予想するに難くありませんが,Lhankor_Mhyさんにとっては,「社長からのホテルへのお誘いは断ってはいけない」というコンセンサスがその会社内でできあがることは人類にとって価値があることということになるのでしょう。

08/05/2008

中国共産党と梅田望夫さんが考える表現の自由

 「政治や宗教の話をしなければ制裁が加えられることはない」という現状を,「制裁が加えられるのがいやであれば政治や宗教の話をしなければ良いだけなので,何の問題もない」と考えるのが,おそらく中国共産党と梅田望夫さんなのでしょう。

 まあ,制裁の主体が国か私人か,そのこととの関係で制裁のレベルがどの程度のものであるのかに違いはあるにしても,です。

 「梅田望夫×まつもとゆきひろ対談 第2弾「ネットのエネルギーと個の幸福」(前編)」より,梅田さんの発言

これはやらない方がいい,ということをわきまえていれば炎上は起きない。そういった情報をもっとみんなで共有するといいんじゃないか。例えば政治について語る,イデオロギー,宗教について語る,アイドルをけなす,つまり誰かが信奉している人を批判するとか。そういうことをしちゃいけいないというわけじゃなく,そういうことをする自由はあるんだけど,やるのなら覚悟したほうがいい。

07/05/2008

はてブは今日も必死に実名等を表示できない自分を正当化するコメントで一杯

 昨日のエントリーに対するはてなブックマークコメントですが,匿名の問題を指摘し,あるいは実名の価値を肯定的に評価するエントリーに対してはネットの人はこれを貶めるのに必死すぎますね。

 「誰が言ったかではなく何を言ったかが重要だ」として匿名である自分を肯定してきた人々こそ,「誰が言ったか」を過剰に重視する「職場電凸」に抗議の声を上げるべきだったと思うのですが,そういう方は少なくて,実際には,要約すると「実名や肩書きを明示する奴らは邪な意図を持っているのだから,肩書きを明示したことに対する私的制裁を加えられるのは自業自得だ」というあたりで落ち着いてしまうところが,日本のネットの匿名さんたちの議論の限界かなという感じがします。まあ,匿名さんたちが職場電凸により実名・肩書きを明らかにすることのリスクを高めてくれれば「実名を明らかにできない」自分を自分の中で正当化するのに役立つのだから,この風潮に反対する理由などないと言われればそれまでなんでしょうけど,それも寂しい生き方です。

06/05/2008

発言者が氏名と肩書きを名乗るのって現実社会では常識なのですが

 novtanさんが,こんなことを仰っています。

 実名での,あるいは所属を明らかにした上での,組織の活動の一環としてではない言動について,これに怒った第三者が組織に嫌がらせをすることによってその言動者に思い懲罰を課すように仕向けることを肯定し,それはいやなのであれば,実名や所属は第三者に明らかにすべきではないというお話なのだと思うのですが,そんな現実社会では通用しないルールを押しつけられても困ってしまいます。

 書籍を執筆したり,雑誌に原稿を載せてもらったり,テレビのインタビューに応じたりする場合,通常は,実名と肩書きを明らかにすることが求められます。求められます,というより,そのようなものを載せることは当然の前提として,どのような肩書きを載せるかの確認をされるというのが実態です。

 その際,所属している組織の一員として執筆ないし発言しているという側面が強い場合を除けば,そこでの肩書きを明示するというのはその執筆者の人となりを示す表示の一つにすぎず,その執筆内容との距離を測る上での指標にすぎないということになります(そこに肩書きがあれば世間がみるのは肩書きですっていうけど,池田先生のご発言を「上武大学教授の発言だから」信用できるとか,mohnoさんの発言を「マイクロソフト(株)の従業員の発言だから」信用できるという人なんていないのではないですかね。ガ島の藤代さんにしたって,雑種路線の楠さんにしたって,所属組織の信頼性とは全く別個の信頼性を勝ち得ているではないですか。所属を明記している実名ブロガーの多くは,その所属組織の信頼度とは別個の信頼を勝ち得ており,または,その所属組織の信頼度とは無関係に信頼を失っているのではないかと思います。)。そして,そこでの言動が肩書きで表示された組織の公式見解とならないことはもちろんのことであり,それ故,多くの組織では,その構成員なり従業員なりが,私的に書籍を発行したりインタビューに応じたりすることについて,事前の承諾を要求していなかったりします。

 novtanルールに従うならば,書籍や雑誌等を発行するにあたっても,執筆者の氏名及び肩書きは伏せるべきであり,これを掲載したが為に,その記載内容に不満を持つ一群の人々によってその所属組織が執拗な嫌がらせを受けた場合にその責任は書籍・雑誌等にその氏名・肩書き等を掲載した執筆者の側にあるということになるのでしょう(まさか,ネットでの発言に限定した俺様ルールではないですよね。)。「第62代横綱・大乃国の全国スイーツ巡業」なんて許されざる所業であって,「名無しさんによるスイーツ巡り」とでもせよ,もしこの本の記述に怒って日本相撲協会に執拗に抗議の電話を架けてくる人が現れたらその責任はひとえに芝田山親方にあるということになるのかもしれません。

 novtanルールの先にあるのは,何とも無味乾燥な,殺伐とした世界です。

現実社会を敵視するネット利用者

 マスメディアに代表される既得権者がネットを敵視している云々という言い方をするとネットでは受けが良いのだと思いますが,実際のところ,マスメディアやコンテンツ産業のライツ部門以外の人々でネットを特に敵視している人というのは,実際にはそうそう見かけるものではありません。

 むしろ,ネットの側からの現実社会への敵意があまりに強いので,現実社会は,これとどう付き合っていこうか考えあぐねているというのが実情に近いように思います。

 瀬尾准教授の一件だって,実名と所属を明らかにしていたが故に「現実社会の側の人間」と認識されたが故に,「打ち倒すべき敵」扱いをされてしまったわけであって,あの程度の不謹慎な発言が匿名掲示板や匿名ブログに投稿されていたとすれば,むしろその削除等を申請したりする側が攻撃されかねないのが実情でしょう(といいますか,実際,2ちゃんねるの投稿に関して侮辱ないし名誉毀損として訴訟が提起されたケースではあれよりも更に酷い言い方がされていたわけですが,被害者側が訴訟等の手段に出たことで更にバッシングを受けることが横行していたわけですから。)。

 有害情報規制にしたところで,まじめにやっている楠さんには申し訳ないですけど,「ネットは現実社会に配慮したりなどしない。現実社会がネットに跪けばいいのだ」という話の方が圧倒的に盛り上がるじゃないですか(「受け手が情報リタラシーを身につければいい」云々という表現は要はそういうことでしょう。)。

 でも,現実社会は,ある程度はネットの側に配慮するにしても,ネットに跪いて現実社会の人々の暮らしや幸せを犠牲にするわけにはいかないわけですから,ネットの側も現実社会を敵視することをやめて,もう少し妥協的な振る舞いをしたらいいと思うのです。

04/05/2008

WIDEの声明に対して

WIDEの声明について,逐語的にコメントを付けていくことにします。

1 政府が何が有害な情報であるかの基準を設け、行政命令権を持つことの問題

情報の意味は、情報の受け手との相互作用により決まります。政府が一意に情報の意味を決定し、一様にアクセス手段を制限するという法案は、情報空間における多様な可能性を排除することに繋がり、情報社会の健全な発展を阻みます。

 例えば,女子小中学生に対する,裸の写真を送るように要求したり,援助交際の申し入れをするような情報を考えたときに,これを単なる「ゴミ」として受け流すか,この要求に応じてしまうかは,「受け手との相互作用により」決まるとは思うのですが,何パーセントかの,あるいはコンマ何パーセントかの小中学生はこれに応えてくれるという可能性を排除することが「情報社会の健全な発展を阻」むといわれると,私には違和感があります。

2 「有害情報」の削除義務を設けることの問題

情報の共有や交換の場を管理する者に、政府基準に基づく「有害情報」を削除する義務があるとすれば、有害と言われる情報に関して、国民が例をあげて議論することさえままならない状況を生むでしょう。それは国民の主権を揺るがす事態であるとさえ言えます。

 少なくとも,アクセスできる人の範囲を「18歳以上」に限定すれば削除義務の対象としない今回の法案等に関していえば,その心配はありません。

また、セキュリティ管理の観点からは、新たな攻撃手段を攻撃者に与えることにもなります。攻撃の対象となるサイトに、執拗に「有害情報」を書き込めば、管理者がその対応に追われたり、対応を怠った場合には罰則が適用されることにより、攻撃者が当該サイトの運営や管理者の生活の自由を奪うことが可能になるためです。

 それは,「どのような情報につき」削除義務を負わせるかではなく,「どのような内容の」削除義務を負わせるのかによって決まってきます。現在だって,著作権を侵害する内容の投稿や児童ポルノ写真等が多数投稿されれば,管理者はその対応に負われることになりますし,対応を行った場合には罰則が適用されることになります。

3 サービスプロバイダにフィルタリングが義務づけられることの問題

 我々が経験から学んでいることですが、フィルタリングに対しては、ユーザによる柔軟な操作を可能にしなければなりません。

 現在、広く活用されているフィルタリング技術に、迷惑メールをふるい分けるスパムフィルタがあります。

 日本語や英語などの自然言語には多義性がありますが、現在のフィルタリング技術は、言語のこの性質に完全に対応できるほどには高度ではなく、日々、大量の有益な情報がスパムフィルタによりフィルタリングされ、必要としている相手に届かないという問題が発生しています。

 法案が、携帯電話会社にフィルタリングサービスを義務づけることは、この種の問題の拡大を招く恐れがあります。

 スパムフィルタの場合,大量かつ瞬時に判断しなければならずかつその判断は1回的なものであるという特徴故に,テキストに特定の文字列が含まれるということがスパムチェックの大きな要素となっているとは思いますが,青少年保護のための有害コンテンツフィルタの場合は,ホワイトリスト方式を採用するにせよ,ブラックリスト方式を採用するにせよ,人海戦術的な要素を相当入れなければならないわけで,それは高市私案が可決されたとしても,これを遵守するための作業についても同様に言えることです。

 情報の取捨選択を自動化し、人間個人の生産性を向上させる上でフィルタリングは重要かつ有用な技術ですが、ユーザの手元でフィルタリングの有無を状況に応じて切り換えたり、フィルタリングされた情報に適宜アクセスすることを許さなければ、いざ問題が起こったときに適切に対応することができず、生産性はかえって低下するのです。

 フィルタリングの有無を状況に応じて切り換えたり、フィルタリングされた情報に適宜アクセスしていざ問題が起こったときに適切に対応できるようにせよ,といってみても,そんな大それたことを小中学生に期待する方が間違っているように思います。

デジタル技術の健全な社会応用に向けて


インターネットは、デジタル技術の基盤性をフルに活用し、多くのコンピュータや種々の機器が接続できることに加え、様々な個人や団体が主体として参加できる、工学的にも社会的にも分散したシステムとして発展してきました。この分散システムにおける様々な問題には、分散的に取り組むのがよく、もし、中央が一様なやり方で事に当たるとすれば、デジタル技術や分散システムの利点自体が失われることに繋がりかねません。

 どのような情報については受け手の年齢を問わず違法とし,どのような情報については未成年者に届けることのみを違法とするのかの基準は,ある程度中央で決まる方が健全だと思いますが,そのような基準作りすら「分散的に取り組む」というのはどういうことを想定しているのでしょうか。

青少年の身の回りで起こる問題は、その現場で解決していかなければ、青少年自身が成長することも望めません。

 これまで現場が解決してこなかったから,法律による解決が求められているのです。

 中央が情報を遮断することにより、青少年へのインプットを方向づけ、それにより健全な育成が行われると考えるのなら、それは、家庭の力を、教育の力を、そして産業の力を、軽視あるいは無視していると言えるでしょう。そのようなことが現実に行われれば、日本の家庭や教育、産業の力は失われていく一方でしょう。

 家庭の力を、教育の力を、そして産業の力を「直視している」というべきでしょう。ネット事業者たちが,「もっと儲けたい,そのためには青少年がどうなろうと知ったことか」とばかりに問題を放置し続け,それどころか,他人に害を為すような利用をしてきたユーザーをかばい続けてきたからこそ,現在の日本のネット社会がこんなものになってしまったわけではないですか。

 ネットいじめを放置しなければ,学校裏サイトを放置しなければ,小児性愛者がSNS等で子供たちに援助交際やら何やらを持ちかけることを放置しなければ,「日本の家庭や教育、産業の力は失われていく」のですか。子供たちが訪れるサイトに,性風俗産業へのバナーリンクを貼ることを放置しなければ,「日本の家庭や教育、産業の力は失われていく」のですか。どれだけ,日本のネット産業は,青少年の安全と引き替えでなければ維持できない構造を作り上げてしまったのですか。

問題は、問題が生じる現場で解決していく。

このことが徹底される以外に、21世紀の、目まぐるしく変化する地球環境の中で、日本国の国民が問題解決能力を育て、世界の中で競争力をもって、生き延びていくことはできません。

 そういうのは問題が生ずる現場で問題を解決することにネット事業者たちがきちんと協力し,現場で問題を解決できるようになってからいってもらいたいものです。ネットを用いた犯罪や不法行為の被害者から助けを求められた法律実務家であれば,ネット事業者たちが如何に「問題が生ずる現場で問題を解決する」ことに消極的かを肌で知っています。違法な情報を流通させている連中を精一杯隠し続けているくせに,「現場で解決せよ!」ですって!偉そうなことはいっても,結局,悪いやつにネットを自由に使わせることでその利益のおこぼれをもらい続けたいだけなのではないでしょうか。

 それに,問題を自分で解決する力を付けることを小中学生に求めるのは酷というものではないですか。日々有害情報を悪い大人たちから送りつけられて,それに適切に対処できずに悪い大人たちの餌食になってしまったら,その子供たちにはそもそも21世紀を生き延びる資格がなかったのだといって,馬鹿にして終わりですか。

02/05/2008

純粋に「民間」に任せるとどうなるのかという一事例

 「携帯向け“健全”サイト認定機関EMAが初総会,審査料は100万円前後に」という記事に勢いよくはてなブックマークがついています。

 有害情報のフィルタリングを純粋に「民間」の仕事としてしまうということは,その価格について国がコントロールすることもできないし,基準についても国は手出しをすることができないということです。したがって,フィルタリングで一儲けを企もうと思ったら,むしろ,完全に「民間」の自由にさせてもらった方がありがたいということができます。

 特殊な宗教的倫理観に基づいてフィルタリングを行おうと思ったら,純粋な「民間」の仕事として行う方が圧倒的に楽です。国からの委託事業としてフィルタリングを行うのと比べて裁量の幅が圧倒的に広いので,「不当にフィルタリングされた」と感じた側がその不当性を争うのは圧倒的に難しくなります。

 そういう意味では,この組織の委員となったエイベックスの岸博幸取締役や慶応大学の中村伊知哉教授が,「think-filtering」として,日本のデジタル社会を潰す「ネット有害情報規制法案」に反対するなんてことを言っていたのは,ある意味象徴的です。

 それに,

基準策定委員会の委員としては,虹の橋法律事務所の岩崎政孝弁護士,主婦連合会の木村たま代氏,有限責任中間法人ECネットワークの沢田登志子理事,國學院大學の高橋信行准教授,慶應義塾大学の中村伊知哉教授,イプシ・マーケティング研究所の野原佐和子社長,金沢星稜大学の村井万寿夫教授を選任。

というあたりも,国会同意人事で5人専門家を選んでいただいた方がよほどましなのではないかという気がしてなりません。個々人が人間として劣るという意味ではないのですが,何がどの程度子供たちにとって危険かということについて特段の知見を表明できそうなのってせいぜい岩崎先生くらいだし,その岩崎先生のポジションだって,奥村先生には全然敵わないわけだし(って,この種の基準作りをするのであれば,まず三顧の礼をもって奥村先生にご参加いただくのが筋ってものだと思いますけどね。堕落してしまった子供たちを相手にしてきた場数が断トツなんですから。),それ以前に児童の精神的な発達過程に関する専門家が1人も入っていないではないかというあたりがいやはやなんともです。

【追記】


 この種の審査の対象って,CGMを含まないものについては申請段階でアップロードされているコンテンツを全て閲覧して行うだけの話だし,CGM系の場合は,年齢等にかかわらずアクセスできる領域への有害情報の投稿を予防するシステム及びそれをすり抜けて有害情報が投稿されたときにこれを発見して削除し又は青少年でないことが明らかな者しかアクセスできないようにするシステムの設計及び運用について審査するだけですから,プライバシーマークの取得に比べて審査対象が相当狭いと思うのですけどね。

01/05/2008

「ネット」による弾圧から表現の自由を守る

 産経新聞の記事によれば

学内での言論が脅迫などの対象となったことについて、デューク大学のデービッド・パレッツ教授(政治学)は、「大学で言論の自由が得られないなら、一体どこで得られるというのか。インターネットの登場によって、言論の自由に対する対価は高くつき始めている」と懸念を示した。

とのことです。

 昨今の青山学院大学の件を見ても,日本でも「インターネットの登場によって、言論の自由に対する対価は高くつき始めている」ように思います。「有害情報」を青少年に送りつけることを「表現の自由」の名の下にこれを保護すべきだという声を上げる団体はMIAUを含めて少なからずあるのですが,「ネット」による「弾圧」から「表現の自由」を守れという声はなかなか上がらないのが残念なところです。

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