適法な行為を圧殺する「淘汰圧」に価値はあるのか。
「これはやらない方がいい,ということをわきまえていればいじめは起きない。そういった情報をもっとみんなで共有するといいんじゃないか。例えばリーダー格の生徒の命令に逆らう,いじめられている子をかばうとか。そういうことをしちゃいけいないというわけじゃなく,そういうことをする自由はあるんだけど,やるのなら覚悟したほうがいい。」ということをいじめを放置している学校の教頭先生が公言している場合,それは,その学校の姿勢として,リーダー格の生徒の命令には従え,いじめられている子はかばうな,といっているのとほぼ同意義なのではないでしょうか。その結果,多くの生徒が,いじめられたくないばかりに,リーダー格の生徒の命令には,それが如何に理不尽なものであっても従わざるを得なくなり,また,目の前で他の生徒がいじめられているのを見かけても見て無ぬふりをするようになったとしても,それは「淘汰圧」の結果であって,好ましいものと見るべきなのでしょうか。
その学校で「いじめられたくない人のためのいじめられないためのガイドライン」をつくって,
「一,リーダー格の生徒の命令には,それがどんな者であっても逆らわないこと
一つ,いじめられている子を見つけても決してかばわないこと」
とやれば,それはその学校のポリシーとして,リーダー格の生徒の命令には全て従うこと,いじめられている生徒を見つけても決してかばわないことを命じているものと見るべきであって,単に命令に違反した場合の制裁を学校として直接下すのではなく,いじめ集団を通じて間接的に下すこととしているにすぎないと見るべきでしょう。
そしてそれは,その「いじめ」が物理的な有形力を伴わない集団的な誹謗中傷や人格攻撃であっても同様でしょう。そしてそれは,学校という子供たちの集団に限った話ではありません。
「これはやらない方がいい,ということをわきまえていれば社内いじめは起きない。そういった情報をもっとみんなで共有するといいんじゃないか。例えば,社長からのホテルへのお誘いを拒むとか,上司から胸を触られたくらいで騒ぐとか。そういうことをしちゃいけいないというわけじゃなく,そういうことをする自由はあるんだけど,やるのなら覚悟したほうがいい。」「覚悟して戦う強さを自分が持っていると思えば,拒めばいい。そうではなく自分が傷つきたくない,批判されたくないという人は,社長からのお誘いは受け入れれば良いんじゃないかな」ということを取締役が公言する会社においては,従業員の性的自己決定権は制約されていると言うべきだと思うのです。実際にそのようなことをすると,社内で執拗に攻撃され,それについて上司が見て見ぬふりをする環境ではなおさらです。その結果,この会社においてどのような人間が淘汰されるのかは,法が介入しなければ,予想するに難くありませんが,Lhankor_Mhyさんにとっては,「社長からのホテルへのお誘いは断ってはいけない」というコンセンサスがその会社内でできあがることは人類にとって価値があることということになるのでしょう。
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» 小倉先生、無駄ですよ [東方不敗の幻想]
適法な行為を圧殺する「淘汰圧」に価値はあるのか。
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2008/05/post_a4ab.html
炎上を淘汰圧とかいってる人間に対して、抽象的に「そりゃおかしいだろ」と言っても無駄です。たとえ話ではダメです。さらに実例をあげて、じゃーてめぇイラク人質事件の自己責任論大合唱もあれも淘汰圧かコラと問い詰めても、「はいそうです」という答えしか返ってきません。自分が被害に遭うか、被害を間近で目にする以外、決して人は被害者に... [Lire la suite]
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