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18/11/2008

国籍法3条1項を合憲限定解釈した件の最高裁判決の事例

 国籍法3条1項を合憲限定解釈した件の最高裁判決の原審判決を見て,この最高裁判決やこれを受けての国籍法改正が,どのような人の救済を図ったものか見てみることにしましょう。

 第一事件原告Aは,平成9年7月10日,フィリピン国籍の母Bの子として日本で出生し,日本で育った。原告Aは,日本国民であって,父である甲野太郎に対し,自らを認知することを求めて千葉地方裁判所館山支部に提訴したところ,その後,甲野太郎は,平成13年12月12日,原告Aを認知した。

 第二事件原告Cは,平成9年9月28日,フィリピン国籍の母Dの子として日本で出生し,日本で育った。原告Cの父であって,日本国民である乙山次郎は,平成10年11月4日,原告Cを認知した。

 第三事件原告Eは,平成6年1月18日,フィリピン国籍の母Fの子として日本で出生し,日本で育った。原告Eの父であって,日本国民である丙川三郎は,平成12年8月16日,原告Eを認知した。

 第四事件原告Gは,平成9年8月21日,フィリピン国籍の母Hの子として日本で出生し,日本で育った。千葉地方裁判所は,平成12年8月30日,原告Gが日本国民である丁木四郎の子であることを認知する旨の判決を言い渡し,同判決は,同年9月13日に確定した。

 第五事件原告Iは,平成8年10月10日,フィリピン国籍の母Jの子として日本で出生し,日本で育った。横浜地方裁判所相模原支部は,原告Iが日本国民である壬村冬男の子であることを認知する旨の判決を言い渡し,同判決は,平成13年7月26日に確定した。

 第六事件原告Kは,平成10年7月15日,フィリピン国籍の母Lの子として日本で出生し,日本で育った。水戸家庭裁判所土浦支部は,平成14年6月4日,原告Kが日本国民である戊谷五郎の子であることを認知する旨の審判をし,同審判は,平成14年6月27日に確定した。

 第七事件原告Mは,平成7年10月12日,フィリピン国籍の母Nの子として日本で出生し,日本で育った。原告Mの父であって,日本国民である己田春男は,平成15年3月20日,原告Mを認知した。

 第八事件原告Oは,平成6年1月27日,フィリピン国籍の母Pの子として日本で出生し,日本で育った。原告Oの父であって,日本国民である庚町夏男は,平成6年2月22日,原告Oを認知した。

 第九事件原告Qは,平成11年10月12日,フィリピン国籍の母Rの子として日本で出生し,日本で育った。東京家庭裁判所は,平成12年10月23日,原告Qが日本国民である辛浜秋男の子であることを認知する旨の審判をし,同審判は,平成12年11月7日に確定した。

 ということで,9人中,判決で認知されたのが2件,家裁の審判で認知されたのが3件,訴訟を提起された後に任意認知をしたのが1件,それ以外の任意認知が4件です。任意認知のうち,この出生後3カ月以内に認知がなされたのは第8事件のみです。

 現実感に乏しい妄想と闘う自分に酔いしれる前に,このような同胞の不始末により生じた子供達の困難を,我が国が,いかにして救えるかということに思いを至らせることができる人間になってもらいたいと思う今日この頃です。

 なお,念のため付言すると,今回の国籍法改正に反対される方には敗戦前の日本を高く評価されている方が多いようにお見受けされますが,敗戦前に適用されていた旧国籍法では,日本国民である男性が認知をしたら,出生前認知であろうと出生後認知であろうと,日本国籍を取れるようになっていたわけで,日本国民の血統を継承しない者が日本国籍を取得してしまうことよりも,日本国民の血統を継承する者が日本国籍を取得できなくなることを恐れていたということができます。

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