« janvier 2009 | Accueil | mars 2009 »

février 2009

28/02/2009

あるものを「ない」と言い始めるようでは

 池田信夫先生はこのように仰っています。

あるものを「ない」と言い始めるようでは、心の病をもつ人と議論するのと同じ。

 マルクスより先に「Capitalism」ないし「Capitalist」という言葉を使った人として英語版wikiで紹介された人の中には「ゾンバルト(Werner Sombart)」なんてどこにも出ないのですが。

 ところで,池田先生のご発言はこういうものでした。

これはもちろん間違いである。マルクスのテキストに資本主義(Kapitalismus) という言葉は一度も出てこない。これを初めて使ったのはゾンバルトである(Wikipediaにも書いてある)

 こちらこちらを見る限り,マルクスのテキストに資本主義(Kapitalismus) という言葉は出てくるようです。  「あるものを「ない」と言い始めるようでは」云々ということなのでしょうか。

歴史はむしろ,資本家の欲望を規制することこそ経済の持続的発展を促すことを示している。

 池田信夫先生の昨日のエントリーの結論部分にも言及してみましょう。

むしろマルクスとハイエクがともに依拠した西欧的な市民社会の概念が、どこまで普遍的なモデルなのかが問題だ。歴史的には市民社会が普遍的ではないことは自明であり、「欲望の体系」が人々の感情を逆なでする不自然なシステムであることも、ヘーゲルが指摘した通りだ。しかしそれが西欧文化圏の奇蹟的な成長を可能にし、それ以外のモデルがすべて失敗に終わったことも事実である。マルクスは、階級対立を生み出さない純粋な市民社会としてのコミュニズムが可能だと考えたが、それは間違いだった。欲望を解放する市民社会は、必然的に富の蓄積によって不平等な資本主義を生み出すのである。
つまりわれわれは「不自然で不平等な市民社会が、物質的な富を実現する上ではもっとも効率的だ」という居心地の悪いパラドックスに直面しているのだ。これを拒否するか受け入れるかは、ある意味で歴史的な選択である。「新自由主義」を否定して、政府が不況で困った個人や企業をすべて救済し、それによる財政赤字をまかなうために税率を70%ぐらいに引き上げる国家社会主義も、一つの政策だろう。そうやってゆっくり衰退してゆくことが、日本にとって現実的に可能な唯一の選択肢であるような気もする。

 しかし,歴史はまた,欲望を完全に解放し,富の蓄積に伴う不平等を修正せずに放置することが,物質的な富を実現する上で障害となることも示しています。例えば,農地解放がなされ,労働三法が制定された戦後日本,そう「日本国の歴史を愛してやまない」といって憚らない自称愛国者が唯一忌み嫌う戦後日本こそが,奇跡的な経済発展を果たしたわけです。そして,不平等を拡大する方針に転換して以降の日本は,経済成長が鈍化しています。むしろ歴史は,欲望を自制することを知らない企業や富裕層にある種の足かせをはめる方が,経済の持続的発展をもたらすことを示しています。結局のところ,「労働者は,生産の主体であると同時に,消費の主体でもある」という,新自由主義者たちが認めたがらない事実がある以上,消費性向の高い中低所得者層にお金が還流するようなシステムを採用することが持続的な経済成長のために不可欠であることは否定しがたいのです。新自由主義的な経済システムは,国外の「市場」だけで供給に対応する需要が存する場合には機能する場合もあり得るのですが,それは様々な意味で長続きしないのです(市場を確保するために,帝国主義的な戦争でも始めるおつもりでしょうか?)。

池田先生のwikipediaは特別?

 池田信夫先生がまた変わったことを仰っています。

小倉氏のブログは、あいかわらずネタの宝庫なので、枕に使わせてもらう。きのうの記事では、こう書く:
マルクスは資本主義の研究者としては一流だったので,資本主義社会を分析するにあたっては,マルクスが開発した諸概念を用いることは有益ですから(そもそも"Capitalism"(資本主義)自体,マルクスの造語ですし。),当然のことなのですが。

これはもちろん間違いである。マルクスのテキストに資本主義(Kapitalismus) という言葉は一度も出てこない。これを初めて使ったのはゾンバルトである(Wikipediaにも書いてある)。これは経済史の常識であり、こんないい加減な知識で、わかりもしない「階級闘争」を語るのはやめてほしいものだ。

 しかし,リンク先の英文Wikipediaにはそのようなことは書いてありません。Wikipediaの記載はこのようになっています。

 

According to the Oxford English Dictionary,[45] capitalism was first used by novelist William Makepeace Thackeray in 1854, by which he meant by having ownership of capital. Arthur Young[45] first used the term capitalist of his economic surveys in his work Travels in France (1792).[46] Samuel Taylor Coleridge,[45] an English poet, used capitalist in his work Table Talk (1823),[47] and Benjamin Disraeli[45] used capitalist in the 1845 work Sybil.

Pierre-Joseph Proudhon used capitalist is his first work What is Property? (1840) to refer to the owners of capital. Karl Marx and Friedrich Engels also used capitalist (Kapitalist) as a private owner of capital in The Communist Manifesto (1848), and referred the capitalistic system (kapitalistischen System)[48][49] to the capitalist mode of production (kapitalistische Produktionsform) in Das Kapital (1867).[50] Marx's notion of the capitalist mode of production is characterised as a system of primarily private ownership of the means of production in a mainly market economy, with a legal framework on commerce and a physical infrastructure provided by the state.[51]

 ゾンバルト(Werner Sombart)なんてどこにも出てきません。Wikipediaのドイツ語版ですと,

das Wort „Kapitalismus“ wird dagegen nur einmal in der erst 1905 bis 1910 erschienenen Ausgabe der 1863 verfassten Theorien über den Mehrwert (1863) genannt,[10] sowie einmal im zweiten Bande seines Hauptwerks Das Kapital (1885)

とあります。私はドイツ語はよくわからないのですが,機械翻訳をかけて読む限りにおいては,„Kapitalismus“ という言葉はマルクスの著書の中にも出てくるようです。

『資本論』における資本主義概念は「資本主義 Kapitalismus 」ではなくて「資本制生産 kapitalistische Produktion 」と「資本制生産様式 kapitalistische Produktionweise 」である
という意見はあるようですけど,それはマルクス研究家の中では重要な話かもしれませんが,一般的には些末的な話のように思われます。

27/02/2009

口頭弁論終結後の裁判長の交代及び逝去

 判決言渡期日の10日前に裁判長が玉突き人事で交代になり,判決言渡期日の2日前に新裁判長が急逝してしまった場合,判決言渡しはどうなるのでしょうか。

 いまのところ,言渡期日を変更する云々という連絡はないのですが。

Working Class Hero

 John Lennonの代表曲の一つに,「Working Class Hero」という曲があります(→John Lennon - John Lennon / Plastic Ono Band (2000 Remaster) - Working Class Hero)。最近,Green Dayがカバーした,あれです。その歌詞を構成するフレーズの一つ一つが,上から目線で「弱者」を叩き「強者」にシンパシーを示してみせるネットサディストさんたちの登場を予言しているようで,今となってはとても興味深いです。

 例えば,Keep you doped with religion and sex and TV/And you think you're so clever and classless and freeというフレーズがあるのですが,「sex」という単語を「net」に置き換えれば,まさにネットサディストさんたちそのままという気がします。新自由主義という「神頼み」の経済学を一種の「religion」と見立てるわけですが,それはそれであながち外れてもいないようには思います。教義と現実に齟齬が生じても,それは未だに社会が教義通りになっていないからであって,教義が間違っているわけではない,と思いこめるあたり,或いはそれを信奉してみても,現世での御利益に授かれるのはほんの一握りで,大半の信者は物質的な豊かさを享受できないあたり,ある種の新興宗教との共通点が多いようにも思いますし。

26/02/2009

Class Warfare

 日本の新自由主義者がどう言おうと,英文サイトを見る限り,"class warfare"(階級闘争)という言葉が大流行です。それも,発展途上国の話ではなく,米国等の先進国のお話としてです。"class divide"(階級格差)という言葉も普通に使われています。まあ,マルクスは資本主義の研究者としては一流だったので,資本主義社会を分析するにあたっては,マルクスが開発した諸概念を用いることは有益ですから(そもそも"Capitalism"(資本主義)自体,マルクスの造語ですし。),当然のことなのですが。

 もちろん,池田信夫先生より経済学者として高く評価されているクルーグマン教授はブッシュの富裕層優遇政策を「class warfare」と評価していたわけですが,ここへ来て,オバマ大統領の経済政策に関して,逆の意味で「class warfare」との評価が生じているようです。同時に,「Soak the Rich」(金持ちに重税を課せ)という言葉も英文サイトで大量に検出されるようです。

 「規制を緩和して,もっと富を一握りの人に集中させて,その他大勢を貧しくさせよう」という時代は米国では終わりつつあるようです。なにせ,msnbcですら,"30-year deregulation era dies a sudden death"(30年にわたる規制緩和時代が突然死を迎える)みたいな文章を掲載してしまうくらいですから。日本では,そういう現実に目を閉ざし,世代間対立を煽って目くらましするのが,一部の経済学者とそのファンの間で流行っているようですが。

25/02/2009

神頼み経済学

 結局のところ,今回の不況というのは,「新自由主義」という一種の「神頼み経済学」がもたらした惨禍だということができそうです。「目の前に苦しむ人々がいても,政府はこれに手を差し伸べず,手の見えない神に委ねれば全てうまくいく」ということ自体が神懸かりですが,それにも増して,「供給の効率性さえ高めれば消費の原資は神様が天から贈って下さる」ことを前提に,「企業活動による生産活動の成果を賃金という形で労働者→家計へと移転させなくとも,内需は増加する」との預言をして回るあたりが神懸かりです。

 もちろん,神様が全知全能なんてことは東洋の伝統やギリシャ神話の世界観からいったらあり得ないのであって,手の見えない神は富の多くをごく一握りの「お気に入り」に偏頗分配することでその多くを死蔵させ,また,消費の原資を降らせてくれなかったので,生産活動の成果物の家計への移転が先細るに従って国内需要も先細っていったわけです。

 どの世界にも神を気取るペテン師というのはいるものであって,様々なトリックを使って「奇蹟」もどきを見せてまわるわけですが,「新自由主義」という「神頼み経済学」にとってのトリックが,「サブプライムローン」に代表される「消費のための借金の容易化」により,賃金ではなく融資により,消費の原資を降らせてみせることだったわけですが,「消費者向けローン」というのはいずれなくなる泡のようなものだったので,泡が消えた瞬間に,「消費の原資がない」という現実に引き戻されてしまったのです。

 日本では未だに,「新自由主義は終わった」との考えが日本の一部でしか共有されていないかのように読者を欺く研究者が大手をふるっているようですが,Google等で「End of neoliberalism」で検索すると多数のページが検出されることからも,これが実態に合致していないことがわかります。何にせよ,未だに「神頼み経済学」を布教している宣教師たちが「で,消費の原資はどこから沸いて出てくるの?」という質問には口をつぐんだままだというあたりに,この一種の宗教のいかがわしさが如実に表れています。

24/02/2009

「手抜きをせよ,依頼者を裏切れ,サボタージュせよ」という外野の絶え間ない要求

 思えば,ネット上では,「手抜きをせよ,依頼者を裏切れ,サボタージュせよ」という要求に絶えず弁護士は晒されています。

 光市母子殺害事件では,刑事弁護人としての職務を全うした弁護人たちが囂々たる非難を受けました。医療問題では,患者側代理人として難事件を勝訴に持ち込んだ弁護士のブログがコメントスクラムに襲われ,その後も矢部弁護士のブログの常連コメンテーターを中心に,法律家どもは医療問題から手をひけとの要求が盛んに突きつけられました。また,池田信夫氏のブログでは,高利貸しからの借金の返済に苦しむ消費者を救うために頑張ってきた弁護士たちが,「一段階論理の正義」云々と揶揄されて攻撃を受けました。新自由主義者たちの「二段階論理の正義」に従って利息制限法の上限での再計算やその結果としての過払い金請求を拒否しつづけなかった実務法曹は,新自由主義者から,「官製不況」の戦犯にさせられました。

 これは,現代の日本にのみ見られる希有な現象です。権力にたてつく弁護士を権力の側が弾圧する,という図式なら古今東西いくらでもあるのですが,弁護士を攻撃する主体がそれとは異なります。例えば4大公害病訴訟の結果,企業が有害物質の河川等への垂れ流しができなくなり,有害物質除去装置の装備等のコスト増を余儀なくされたときは,公害病患者のために闘った弁護士たちを経済学者たちが「一段階論理の正義」などと揶揄することはありませんでした。

 平成の司法改革は「法化社会」の実現を目指して始まったわけですが,ここではむしろ,「法律は引っ込め,弱者は強者に跪け」ということが公然と要求されル用になってきています。そして,弁護士がその職務を全うして弱者を救ってしまったことに対するいわば「制裁」として,弁護士資格を無意味化していこうという提言がなされたりするようになっているのです。

23/02/2009

隗さんはいずこ?

 それにしても,文科省の許認可行政により新規参入や定員の増減等が規制され,かつ,経費の一定割合を公的資金からの補助金に頼っている「大学」という安定した組織において,いったん就任してしまうとよほどの不祥事を引き起こさない限り無能であっても解雇されたり降格されたりすることにない「教授」という地位に収まってぬくぬくとしている人たちから,「お前らはリスクをとらなさすぎる。お前らは,まだ恵まれすぎている。もっと,もっと競争だ。」みたいなことを言われて糾弾される一般の日本国民って,本当に哀れな存在に思えてきます。

 中には,「大学院での学位取得により、新税理士法に基づいた税理士試験の税法に関する科目の一部免除を受けられるように」してもらうことにより,教育内容で学生を引きつけるのではなく,国家試験で公然と「下駄」をはかせることをうたい文句にして学生を引きつけようとしている大学において自分は教授としてぬくぬくと生きていながら,一般の労働者に対してはやたらマッチョなことを押しつけようとしている方もおられるようです。

新自由主義者の見立てだと,住宅について今も需要過多だってことなのでしょうか

 住宅新規着工件数の減少というのは,建築基準法改正という供給側の要因によってのみ引き起こされるものではありません。昨年についていえば,途中までは,空前の原油高および北京五輪直前の各種資材高という供給側の阻害要因はありましたし,また,景気は既に下降局面にあり,かつ,マイホーム取得を考え始める年齢層にいわゆる「ロスジェネ」層が入ってきていますから,住宅等に関しては需要側にも減少要因があります。従って,リーマンショック以前においても,住宅新規着工件数が減少基調にあることは想定の範囲内です。ただ,建築基準法改正という供給側の要因によって引き起こされたと思われる大幅な新規着工件数の減少からは概ね回復しているということです。ひょっとして,新自由主義者さんたちは,住宅に関して,建築基準法の改正によりいまでも需要過多・供給過小状態にあると信じておられるのでしょうか。

 それにしても,新自由主義者の皆様は,人命尊重のための建築基準法改正により住宅新規着工件数が減少することには「官製不況」だなんだと平然と罵る割に,多くの労働者が長期ローンを組んでのマイホーム取得を断念せざるをえないところに追い込むことにより住宅新規着工件数の減少に繋がる可能性の高い解雇規制の撤廃にはあっさりと賛同されるのだから,面白い人たちです。同じ「住宅新規着工件数の減少」でも,一般労働者の貧困化によりもたらされるものであれば賛同できるのに,人命が尊重された結果としてもたらされるものであれば許せないわけです。

22/02/2009

建設業者の手続コスト等を人命より優先させる人々

 池田信夫さんが次のように述べています。

よくこれで弁護士をやってるね。私がどこで「人命に特段の価値を見出さない」と書いたのか、と反論されたら、訴訟なら終わりだ。

 池田さんの頭の中にある「訴訟」っていうのは,きっと厳格な直接証拠主義なのでしょう。今時一般的なシステムとしてそのようなものを採用しているところはないと思いますが。その割には,池田さん自身は,他人の意見を歪めずに要約することがとても不得手のようです。

何度も書いたように、リスク管理の目的はリスクをゼロにすることではない。人命が他のすべてに無条件に優先するのなら、まず自動車を禁止すべきだ。重要なのは、リスクと便益のトレードオフの中で何を選ぶかという目的関数の設定である。

 「重要なのは、リスクと便益のトレードオフの中で何を選ぶかという目的関数の設定である」としても,「阪神淡路大地震クラスの大地震にあった場合に建物が崩壊して人命が損なわれるリスク」に目を瞑ってまで選択すべき「便益」があることを,池田さんは説得的に主張し切れていません。建築基準法の改正により「官製不況」になったとしてこの改正を批判する人々は,「景気」を「人命」に優先させているということであり,より具体的にいえば,建設業者の設計コストや建築コスト,手続コスト等を人命に優先させているというだけのことです。これに対し,我が国の立法府は,建設業者の手続コスト等を軽減させることよりも人命を重視したということですし,世論も概ねそうだったということです。

 そして,この問題に関して,「リスクとリターン」という観点から話をすると,建設業者は,建設業者の手続コスト等を低く抑えることにより利潤の増大というリターンを受ける反面,当該建物の崩壊による死傷というリスクを原則として負わないで済みます。このリスクを負うのは,大地震発生時に当該建物の中や周囲に居合わせた人であり,彼らのほとんどは,建設業者の手続コスト等を軽減されることによって特段の利益を得ることはありません。このような場合には,リスク軽減のために特定の措置を高ずることを法的に義務づけることが必要となります。しかも,ことは人命の関することなので,「果たして震度6以上の地震が起きて建物が崩壊して死傷者が出たときには多額の賠償金を支払えばいい」というものでもないのです。従って,事後規制では不十分であって,相当の事前規制を敷くことが望まれます。実際,既に紹介したとおり,建物の建築に関しては,安全性を確保するために様々な事前規制を課すというのが先進国では標準的となっています。

人命と企業利益とどちらをより重視するかの差

 新自由主義って,人命に特段の価値を見出しません。ですから,人命を守るために企業活動の自由を制約するというのは,新自由主義者から見ると好ましくないということになります。そういう意味では,池田信夫先生が建築基準法改正を目の敵にするというのは想像の範囲内といえるでしょう。建築基準法を正しく理解していないから建築基準法に不満があるというより(まあ,正しく理解していないことも事実ですが,池田先生に法律を正しく理解することを望む方が無理というものですし。),そもそもたかだか人命のために企業活動が制約されるということが池田先生には許せないのだと思います。「人命と,建築業界の収益とどちらが大切なんだ」と問われて,法律家は人命だと答え,経済学者は建築業界の収益だと答える。だから,法律家が,経済学者のお眼鏡にかなうことってないと思います。

 建築物に限らず,大方の商品は,消費者や第三者の生命・身体の安全に配慮しなくとも良いということになれば,企業はより生産コストを引き下げることができます。そして,消費者は商品を購入するにあたってその安全性は考慮に入れないとの前提に立った場合には,企業は,なるべく安全性を犠牲にして製造コストを引き下げることこそが利潤の極大化に繋がるということになります。建築基準法の改正により「官製不況」が生じた云々と述べている人はこのレベルです。

 基準が形式的であることをも問題視されているようにも思うのですが,人命を守るための行為規制としては,想定される危険に対して人命を守るためには概ねどのような措置を講じておくことが必要なのかを抽出した上で,それを抽象的な基準として書き出してこれを形式的にクリアすることを義務づけ,またはその基準を完全には抽象化しきれないときは専門家による事前審査をクリアすることを義務づけるという形式をとるのは,極めて一般的な話であって,日本において特徴的というお話ではありません(諸外国の建築規制についてはこちらを参照)。

21/02/2009

新自由主義者に高く評価される司法とは

 新自由主義者に高く評価される司法というのは,一体どういうものなのでしょうか。

 利息制限法上の上限金利を超える金利のもとでお金を借りて,瞬く間にふくらんでいく金利の呆然となっている相談者に対し,「あなたはその金利をつけてお金を返す約束でお金を借りたのだから,利息を含めてきっちりそれを返さなければなりません。」と言って,生きている間は利息を返すだけの人生を過ごすことを覚悟させるのが,経済学者から望まれる司法ということでしょうか。あるいは,臓器斡旋コーディネーターや風俗産業等と提携して元金を返す機会を提供するのが,新自由主義者のお眼鏡にかなう司法のあり方ということになるのでしょうか。

 もちろん,「借りたお金が返せなくなった場合,貸し主に迷惑をかけないように,生命保険をかけてから自殺すること」とのアドバイスを全国のクレサラ相談センターで行うようにすれば,新自由主義者からは,「そうあってこそ,金融機関は安心して無審査で高利のお金を融資できるのだ。」とのお褒めの言葉をいただけるかもしれません(ただ,その場合,生保会社は約款を改正して,クレサラ業者等からの借入状況を告知義務の対象に含めるような気はしますが。)。できるだけ,経済に悪影響を与えない自殺方法なんかもアドバイスすると,「日本の法曹も,ようやく,『一段階論理の正義』を乗り越えて,何が経済学的に望ましいのかを考えて業務を遂行できるようになった」と高く評価いただけそうな気がします。

 ただ問題は,司法の側には,いわば鬼・悪魔の状態になりさがってまで,新自由主義者たちのお褒めにあずかるインセンティブがないということです。弁護士業務を一般に開放すれば,競争原理が働くではないかって?しかし,利息制限法上の上限金利を超える金利のもとでお金を借りて,瞬く間にふくらんでいく金利の呆然となっている相談者に対して,利息制限法の上限金利での再計算による債務額の圧縮や過払金請求等を行わずに,生命保険をかけてからの自殺を勧めるような弁護士って,いくら立派な大学院で経済学を教えておられる経済学博士らからお褒めの言葉を預かっても,繁盛しないように思えるのです。

20/02/2009

より深刻なのは,経済学者のレベルの低さではないでしょうか?

 池田先生が相変わらずおかしなことを述べています。

 

日本経済の沈没は止まらない。輸出が落ち込み、消費が低迷し、さらに企業が「コンプライアンス」で萎縮しているからだ。本書も指摘しているように、国会の参考人質問にまで発展した「耐震偽装」事件は結局、姉歯元建築士の個人的な犯罪だった。国交省がそれに過剰反応して建築基準法を改悪した結果、住宅着工が半減してGDPにも影響を及ぼした損害は計り知れない。

とのことですが,建築基準法の改正によりこれに対応するために住宅の着工が遅れるという事態は生じたかも知れません。しかし,これは一時的な話であって(改正建築基準法の施行日である2007年6月20日の直後である2007年8月及び9月こそ,前年同月比-43.3%,-44%と大幅に減少していますが,2008年に入ってからは前年同月比で,-5.7%,-5.0%,-15.6%,-8.7%,-6.5%,-16.7%と減少幅が小さくなっており,2008年7月以降はむしろ前年同月比+19.0%,+53.6%,+54.2%,+19.8%と大幅に増加しており,建築基準法の改正により新規着工が遅れた分は概ね元に戻っているということができます。

 また,ではあのときに建築基準法を改正せず,「粗悪な建築がなされ,大震災のときにはあっさり崩壊するような建物が建つかも知れないけど,それって自己責任だよね」ってことで放置しておいた場合に,「よくわかんないけど,地震で倒れたらその時に考えればいいや。数千万円から数億円の買い物で色々考えるのは面倒くさいから,買っちゃえ!」という消費者がそんなにたくさんいただろうかと考えると,それも楽観的にすぎるのではないかという気がします。

 その後,池田先生は,いくつかのお気に召さない裁判例を挙げて,「さらに深刻なのは、司法のレベルの低さである。」と述べています。しかし,裁判制度って,いくつかはおかしな判決が下されることを当然の前提としており(だから,上訴制度があります。),いくつかお気に召さない裁判例があるからって,「さらに深刻なのは、司法のレベルの低さである」とされても,司法の側は困ってしまいます。

 しかも,その対策として,

私は弁護士免許を廃止して司法試験を資格認定にするというフリードマンの提案のほうが大きな効果があると思う。

というのだから,目も当てられません。だって,池田先生のお気に召さない判断を下したのは「裁判官」であって「弁護士」ではないのです。「弁護士免許を廃止して司法試験を資格認定に」したからといって,新自由主義者のお気に召さない判断を下すような裁判官が法廷から排除されるようになるわけではありませんし,新自由主義者たちのお褒めに預かるために,制定法を無視した判決を書きまくるインセンティブも発生しません。

 経済学って,つくづく,実現しようという「目標」と全く関係のない「手段」を提案してしらっとしていられる学問領域なのだなあと思いました。

真のLibertarianか,お犬様か。

 自称Libertarianが真のLibertarianなのか,単なる我が儘な富裕者または彼らにしっぽを振るだけのお犬様なのかは,経済以外の分野における国家の介入に対してどのような態度をとっているのかを見るとかなり分かります。

 Libertarianは本来国家からの自由を重視するので,国家が個人の「道徳」に介入することを過度に嫌います。従って,国家が「愛国心教育」に邁進すること等に積極的に反対するのが正しいLibertarianです(シカゴ学派はともかく,オーストリア学派は,基本的にAnti-Naziですし。だから,ブッシュ前大統領や安倍元首相は,新自由主義者であっても,Libertarianではありません。)。米国においては,さらに10代の未婚カップルの性交渉や同性愛,人工中絶を国家が弾圧等しようとすることやに積極的に反対するかどうかもLibertarianか否かを推し量る重要な指標になるのですが,わが国ではキリスト教右派は統一教会系を除けばそれほど強い力を持っていないので,さほど使い勝手の良い手法ではありません。まあ,首相等の靖国公式参拝に対する態度などはある程度指標になりそうな気はします。

 もっとも,日本の場合,単なるネットサディストたちが,上から目線で弱者を叩くツールとして,新自由主義的な見解が借用される傾向がありますので,彼らの場合,「我が儘な富裕者にしっぽを振るだけのおいぬ様」との評価があたるのか,難しいところではあります。

19/02/2009

1789年のlibertarianismは現代の新自由主義とは全くの別物

 池田先生がまた不思議なことを述べています。

Neoliberalismという言葉が使われるようになった最初はHarvey "A Brief History of Neoliberalism"(2005)で、さかのぼると1996年にメキシコで開かれた「反グローバリズム」集会が最初のようだ。これに対してlibertarianismの最初は1789年。どっちがオリジナルかは議論の余地もない。

 池田先生が「libertarianismの最初は1789年」とする出典は,「merriam-webster」のようですが,それでいうならば,「neoliberalism」の初出は1945年ということになります。従って,「neoliberalism逆輸出説」は実際と合致していないといえそうです。

 さらにいうと,「merriam-webster」の初出年情報は,当該単語が最初に用いられた年を表示してくれるのですが,それがそのときにどのような意味で用いられたのかまでは表示してくれません。従って,「libertarianism」という単語の初出が「neoliberalism」という単語の初出よりも早かったとしても,それが今日「neoliberalism」という語で表される意味で用いられていなければ,「libertarianism」の方がオリジナルだということにはなりません。

 で,英語版のwikipediaをみると,「libertarianism」との語を最初に用いたWilliam Belshamは,"necessitarian" に反対する概念としてこの語が用いられていたことがわかります。経済学的な意味で「libertarianism」という言葉が用いられるようになったのはそれよりもずっと後のようで,英語版のwikipediaによると,1940年代に入ってから,Leonard Readが自分のことを「Libertarian」と呼ぶようになったと記載されており,Dean Russellが「Foundation for Economic Education magazine 」の中で,"Let those of us who love liberty trademark and reserve for our own use the good and honorable word "libertarian.""と記載したのは1955年とのことです。

 なお,日本の新自由主義者たちは,むしろ,アダム・スミスが批判した重商主義的な「低賃金経済論」に近づいていますから,自分たちの考え方を「ヒュームやスミス以来の古典的自由主義であ」るかのように述べるのは如何なものかなあと思ったりはします。

18/02/2009

新自由主義という言葉はlibertarianismの訳語ではない

 そういえば,池田先生が次のように述べているそうです。

新自由主義という言葉はlibertarianismの訳語でしょう。これはliberalismという言葉が、アメリカでは「大きな政府」を求める人々をさすようになったため、古典的自由主義をそれとは区別するためにつくられた英語で、新自由主義と訳したのは西山千明氏だそうです。

 普通は,「neoliberalism」の訳語だと考えると思うのですが,池田先生は「neoliberalism」という言葉が用いられている英語文献をお読みになったことがないのでしょうか(「neoliberalism」でググっていただければ,おびただしい量のサイトが検出されると思いますが。)。

 「libertarianism」を信奉するのであれば,私有財産制を保障する以外の政府の介入を極度に嫌うはずですから(真正のlibertarianは,名誉権もプライバシー権も認めません。),はてブで罵られたくらいで裁判制度の力を借りようだなんて発想は出てこないはずです。

「格差社会」の象徴

 小渕優子議員が第2子を懐妊したとのニュースがありましたが,思えば,小渕優子議員って「格差社会」の象徴のような人物です。

 いわゆる「ロスト・ジェネレーション」に属しながら,成城大学経営学部からTBSに入社したわけで,このころの「就職氷河期」というのが「下々」にのみ及んでいたお話であることを見事に反映しています。で,「はなまるマーケット」のアシスタントディレクター等をつとめただけで2年でさっさと退社して父・小渕恵三氏の私設秘書に収まり,その2年後,父・小渕恵三の逝去に伴い,その地盤を継承する形で衆議院選挙に出馬し,見事当選。当選前の活動実績も当選後の活動実績もほぼ存在しないのに,3年後には「新人議員が務める本会議での議事進行係に抜擢され」,これといった活動実績がないのに初当選から6年目に政務官に就任し,初当選から8年目で大臣に就任したというわけです。

 結局,小泉=竹中ラインが,中産階級を破壊すべく様々な改革を繰り広げる間,この種の人たちはぬくぬくと特権を味わいつづけてきたわけで,「世代間闘争」を訴える新自由主義者たちは,「中高年正社員」にわずかながらの富をはき出させる情熱のごくわずかでもこの種の特権階級に相応の富をはき出させるためには使わないわけです。要するに,目くらましをしているだけなのです。

16/02/2009

いくら,「行政による事前規制から司法による事後規制へ」といっても……

 新自由主義からの政策提言って一本調子でよいので,とても簡単そうです。

 池田先生が次のように述べています。

具体的には、資本市場の改革(特に対外開放)で企業買収・売却による事業再構築を容易にすることと、労働市場を改革して衰退部門から成長部門への労働移動を促進することだ。いま政府のやっている外資による対内直接投資の規制や派遣労働の規制強化などは、逆に生産要素の移動をさまたげて、潜在成長率を低下させる。医療への参入を促進するために必要なのは政府の指導ではなく、医師会の圧力で医師の供給を絞ってきた医療政策の転換であり、介護への新規参入を阻害しているのは過剰な規制だ。

 しかし,介護への新規参入を阻害しているのは,低すぎる介護報酬であって,それは政府の福祉予算の拡充なくしてはあり得ません。また,「医療への参入」云々については,労働市場を改革したところで,衰退部門からおいそれとやってこれるようなものでもありません。それに,今から医学部の定員を大幅に増員したところで,その効果が「医師の増大」という形で現れるまでには,10年弱はかかりますので,今回の恐慌の対策になどなりはしません。もちろん,医師を届出制にして,これまで建設業や製造業に従事していた労働者が即医師として働くことを合法化するということならば,建設業・製造業から医療部門への労働移動を果たすことが理論的には可能となりますが,そういうドラスティックすぎる規制改革は,様々な弊害を生みそうな気がします(「行政による事前規制から司法による事後規制へ」といっても,医学教育を受けていない人による診療行為で死屍累々となった場合に,仮に賠償金を遺族がもらい受けることができたとしても,死んだ人は帰ってこないから,医療分野とかは,事前規制が不要ってわけにはいかないようには思います。)。

判決言渡し期日には出頭しないのがデフォルト

 今月27日に判決言渡し予定の某事件について,司法記者クラブ幹事社としてH新聞の記者さんから,「当日の判決が出た後に被告側のコメントを頂きた」いとしてお願いのファックスをいただきました。

 ただ,私は,判決言渡期日には法廷に出頭しないのがデフォルトなので(全部勝訴できなかった場合に,控訴期限の関係で意味があります。っていいますか,その後すぐに記者会見をするつもりがないのであれば,わざわざ言渡し期日に出頭する意味はありません。),結構こういう要請って困りものだったりします。記者クラブに配布される「判決の要旨」をいただけるのであれば,また話は変わってくるわけですが。

アルゼンチンも新自由主義を廃して経済が回復した。

 もともと,「失われた10年」という言い方は,中南米諸国において,新自由主義的経済政策を採用したことにより生じた経済後退のことをいいます。チリの例は既に述べましたが,お隣のアルゼンチンも,新自由主義的な経済政策を取り入れたばかりに,経済,社会がぼろぼろになってしまったのです。

 2001年12月のアルゼンチン暴動でデ・ラ・ルア大統領が退陣に追い込まれるまでに,失業率は20%になり,極貧層は500万人に,貧困層は1400万人になり,1970年代初等には2%だった非識字率は12%に上昇してしまいました。この間,銀行の90%と産業の40%は外国資本の手中に落ち,政治家、組合幹部、企業経営者が国外に移した資産は1200億ドルにのぼりました。

 アルゼンチンも,新自由主義的政策をやめて政策転換を行うと,たちまち事態は改善されていきました。特に,最低賃金の引き上げの効果はてきめんで,1度に20%を超える最低賃金の引き上げを断続的に行っていった結果,アルゼンチンの失業率は,2002年には17.8%、12.1%2004年には12.1%,2005年には10.1%,2006年には8.7%と徐々に下がっていきました。

15/02/2009

世界の趨勢?

 この動画なんですけど,このタイトルを「司法の聖域を解体せよ」というのはセンスが悪いのではないかという気がします。前半というか,半分以上は,司法とは関係のない話ですし,「司法の聖域」云々という時の具体的なエピソードとしては,裁判所を一等地から追い出して合同庁舎の一番上に移転させようと提案したら三権分立を盾に反論されたということしかないですし。

 野村先生はそれが「世界の趨勢」だって仰っているけど,果たしてそうなのでしょうか。私たちの仲間内では,海外旅行等をすると現地の裁判所に行って記念撮影をしてくるのが流行っていますが,行政機関の合同庁舎の一番上に裁判所があるっていうところは正直見たことがないし,ましてそれが「世界の趨勢」とまでは言い難いように思うのです。裁判所って,法廷やら待合室やらを用意しておかないといけないので,意外と場所をとりますから,「合同庁舎の一部を間借りする」くらいでは間に合わないという事情もあるのでしょうが(まあ,あまり法廷に行かない商法学者には理解できないことかもしれません。)。

 それと,刑事裁判はもちろん,行政訴訟や国賠訴訟とかだと,国等の公的機関が相手方ですから,それを行政機関が入っている合同庁舎で執り行う(さらにいれば,裁判官は,ひごろ合同調査で,検事さんや行政機関の偉いさんと同じ屋根の下で執務している)っていうのは,あまり気持ちがいいものではないように思ったりはします。裁判所って,中立性に対する信頼が結構重要ですから,そういう感覚的な部分って否定しがたいと思うのです。

原文を確認しないと危ない

 「こういう経済政策をとるとこういう結果が生ずるはずだ」というのは理論ですが,「こういう経済政策をとるべきだ」というのはその経済政策をとった場合に生ずることが予想される結果についての価値判断です。そして,その価値判断については,経済学者にプライオリティはありません。従って,池田先生がリストアップした14の項目のうち,5,6,7,8,11,13,14にはさしたる意味はありません。

 なお,10に関しては,原文はCash payments increase the welfare of recipients to a greater degree than do transfers-in-kind of equal cash valueとなっており,池田先生は所得の間接的な再分配より現金支給のほうが福祉を高めるという訳を与えていますが,「transfers-in-kind」とは現物社会給付(現物社会移転)のことであって「所得の間接的な再分配」のことではないように思います。10番でいっていることは,「お金を渡した方が,政府が調達した商品・サービスをそれと同額分渡すより,受け取った側の役に立ちますよ」という程度の話です。

 12も,原文はA minimum wage increases unemployment among young and unskilled workers.となっており,「最低賃金制度は若年者と未熟練労働者の失業率を増大させる」といっているのであって,最低賃金を引き上げると、未熟練労働者の失業が増えるという池田先生の訳は原文とは合致していないように思います。この点に関していえば,経済学者がいくら声を揃えようとも,最低賃金制度が廃止されたピノチェト政権下のチリで失業率はむしろ増大したこと(そして,最低賃金制度の復活以降失業率は低下したこと)は事実として存在するし,また,最低賃金が廃止された結果,若年者と未熟練労働者の賃金水準が,フルタイム労働しても健康的で文化的な生活をできない水準で固定した場合にそれは好ましいことなのか(むしろ,賃金水準を高めに維持した上で,就業者たちが「税金→失業給付・生活保護」等の形で,やむなく失業した人の負担を分かち合う方が好ましいのではないか)ということを考える必要がありそうです。新自由主義的にいえば,生存に必要な食料等を確保するに足りる賃金に見合うだけの市場価値のない人間は淘汰される(死ぬ)べきだということになるのだと思いますが,それは政治的にかつ人道的に間違っているのです。


【追記】

 このエントリーについて池田先生のブログにトラックバックを送ったところ,そのコメント欄に,

くだらないTBが来たので削除しましたが、10の"transfers-in-kind"というのは、政府が公共事業や価格支持政策などによって所得を移転すること。それよりも所得の直接補償のほうが望ましいということです。

と記載されていました。しかし,「in kind」という言葉は,例えばオックスフォード現代英英辞典によれば,「(of a payment) consisting of goods or services, not money」という意味を有しており,「transfers in kind」という言葉には「現物給付」「現物移転」等の訳語が与えられるのが通常です。そして,これに「Social」との語が附加されると,「現物社会給付」「現物社会移転」等の訳語が与えられることになります(そういう意味では,原文の10は「transfers-in-kind 」とだけあり,「social transfers-in-kind」とはなっていないので「現物社会給付」と「社会」という言葉をつけたのは妥当ではなかったかもしれませんが,まあ,文脈的にはそういうことなのでしょう。)。実際,こちらのページ(総務省統計修所編「日本統計年鑑」)でも,「Social transfers in kind」には「現物社会移転」との語があてられ,「一般政府ないし対家計民間非営利団体が家計に対し現物の形で支給する財・サービス。」との説明が加えられています。

 「政府が公共事業や価格支持政策などによって所得を移転すること」のどこに「in kind」に相当する部分が含まれると思われたのか,理解しがたかったりはします。

もっとも典型的な実施例の暗澹たる結果に触れないというのはいかがものか。

 池田先生が何か怒っておられるようです。私は池田先生に私の主張をずいぶんと枉げて紹介されたにもかかわらず「〜しろ」みたいな乱暴な言い方はしなかったわけですが,その辺は,学問分野の違いから来る流儀の差でしょうか。

 池田先生の理論が正しいのであれば,ピノチェト政権前期の新自由主義的経済政策によって,チリの実質平均賃金は大幅に下がったわけですから,失業率も大幅に下がらないとおかしいわけです。でも,実際には,失業率は大きく上がったわけです。特に,雇用者に「to modify individual labor contracts and to dismiss workers without "cause"」する権限を与えた1979年の法改正(池田先生のご主張はこれに近いですね!)以降の経済の落ち込みというのはひどいものでした。民主的に選ばれたアジェンテ政権を倒すために米国が行った経済制裁等はピノチェトがクーデターで政権を握ってから解除されていますから,アジェンテ政権時代よりも経済的な環境はむしろ良好だったはずなのにです。そして,ピノチェト政権末期の1991年に,"restricted the causes for firing employees, increased the compensation that firms had to pay to lay off employees, and restricted employers' recourse to lockouts"な労働法制の改正がなされるや,3年で,「貧困層の収入は3割増加.貧困層の割合はピノチェト時代の45%から30%にまで低下」したわけです。

 労働者保護制度を解体して賃金水準を引き下げたのに,チリでは,失業率が上昇し,国全体の経済成長も果たせなかったわけです。雇用の流動化による賃金水準の引き下げにより失業率が下がるというのであれば,なぜチリではうまくいかず,日本ではうまくいくと言えるのかを理論的に説明する必要があります。

 なお,「雇用の流動化」により,「ワーキングプア」と表現される非正規雇用労働者のレベルに一般の労働者の雇用条件を引き下げる方向で「世代間格差」なり「正社員と非正規労働者との格差」を是正するという経済政策を,池田先生は,議会制民主主義のもとでどのようにして長期的に実現しようというのでしょうか。国営企業の民営化程度の新自由主義的政策ならば議会制民主主義国でも採用できますが,大多数の国民に貧困を押しつける経済政策は,それが「失業率の低下」というさほど意味のない成果を仮にもたらすとしても,議会制民主主義のもとでは相当困難でしょう。

14/02/2009

池田先生や木村剛さんが望むような経済政策を実行するとどうなるか

 池田先生や木村剛さんが唱えるような新自由主義的な経済運営を行うと実際どうなるのかの実証例は,フリードマンの弟子たちに経済政策を委ねそして彼らを追い出すまでのピノチェト政権前期(1973-が典型的です。国有企業の民営化,外資導入の自由化はもちろん,年金や銀行の民営化,最低賃金制度の廃止,労働組合の禁止など,この期間,新自由主義者がやりたいことの多くが,反対者をがんがん虐殺することで,実現できていたわけです。

 Iain MacSaorsa氏のこのページに依れば,その結果,チリの実質平均賃金は,1976年の段階で,1970年よりも35%低くなったとのことです。Iain MacSaorsa氏もafter nearly 15 years of free market capitalism, real wages had still not exceeded their 1970 levels.としています。「賃金水準が下がると失業率も下がる」という池田先生の理論でいくとさぞや失業率は下がったのだろうと思いきや,失業率は,1973年に4.3%だったのが10年後には22%にまで上昇しています。

 では,せめてGDPくらいは大幅に改善したのかと思いきや, 1974年から82までの間のGDPの平均成長率は1.5% であり,1960年代の4.5%よりも低く,同時代のラテンアメリカの平均成長率4.3%よりも低かったようです。1970年から80年にかけてのチリの人口あたりのGDPは8%しか成長せず,ラテンアメリカ全体の人口あたりのGDPの成長率40%よりもかなり低かったようです。1986年になっても,人口あたりの消費が1970年よりも11%も低く,1972年から87年にかけて23%も低下している(そりゃ,平均賃金が低く,失業率も高いのだから当然ですね)のでは,経済成長は難しいでしょう。もっとも,上位20%の富裕層の消費は15%上昇しているようですが。

 で,基本的な食料と住居の確保に最低限度の収入を得られない貧困層は1970年から1987年にかけて20%から44%に増えたとのことです。簿価よりも40%も安く払い下げた銀行にしても,1982年には破産してしまうのですから(→ここ参照。),まさに新自由主義は死屍累々です。

 その後,チリ経済は,フリードマンの弟子たちを追い出し,最低賃金制度と労働組合の団体交渉権を復活させ,銀行等の再国有化を果たすことで,回復していきました。池田先生からは私が「新自由主義=悪」と決めつけているとの非難を受けますが,新自由主義を実際の経済政策に実装した結果がこの体たらくなのですから,庶民が経済的に苦しむこと自体に価値を見出すサディストでもない限りは,新自由主義に机上の空論以上の意味を見出さないのは当然のことなのではないかと思います。

グーグルで“かんぽの宿”を検索してみた

 エイベックス取締役で,竹中平蔵大臣の元秘書官であった岸博幸さんが次のように述べています。

 皆さんもグーグルやヤフーで“かんぽの宿”を検索してみてください。検索結果の最初の数ページを開いてみると、驚くまでに同じような内容、具体的にはオリックス政商論、小泉—竹中—宮内陰謀論、日本郵政不正論のオンパレードです。それも、評論家と称する一部の人たちの意見の引用と礼賛ばかりが目につきます。もちろん、丹念に探せばそれと反対の意見もネット上に出ているのでしょう。しかし、検索の上位に来なければ埋もれるだけです。

 さっそく,グーグルで“かんぽの宿”を検索してみました。

 「かんぽの宿のニュース検索結果」として,「かんぽの宿 一括譲渡の白紙撤回は当然だ(2月14日付・読売社説)」が一番上位に表示されていました。これは,仕方がないですね。日本で一番発行部数が多い新聞の社説ですから。

 次に表示されたのは「かんぽの宿 | HOME」です。まあ,「かんぽの宿」は今でも営業しているわけですから,そのウェブサイトが上位に表示されるのも当然です。その次の「かんぽの宿 | 宿をさがす」も同類です。

 その次に表示されているのは,「かんぽの宿 - Wikipedia」です。Wikipediaはすっかり百科事典代わりとして定着してしまいましたから,これも仕方のないところです。

 その次が「全国のかんぽの宿/公共の宿 [旅行と宿のクリップ]」です。これも,「かんぽの宿」は今でも営業しているわけですから,上位に表示されないと困ってしまいますね。

 その次が,産経-msnネットの記事で,「【かんぽの宿譲渡問題】鳩山総務相が「竹中論文」に猛反論 (1/2ページ ...」と「【竹中平蔵 ポリシー・ウオッチ】かんぽの宿は“不良債権” - MSN産経 ...」とがセットになっています。その次が朝日新聞社のサイトで,「asahi.com(朝日新聞社):かんぽの宿買うてもええ 有馬温泉観光協が ...」と「asahi.com(朝日新聞社):かんぽの宿、売却白紙 日本郵政、オリックス ...」がセットになっています。

 その次が「かんぽの宿をまた~り利用してみませんか?かんぽ宿情報」というかんぽの宿に泊まりたい人向けの情報です。その次が,「かんぽの宿譲渡問題 - Yahoo!ニュース」,その次が,「簡保の宿関係リンク」というかんぽの宿に泊まりたい人向けの情報です。その次の「石和温泉 かんぽの宿石和」もそうです。

 次の「「ラフレさいたま」は「かんぽの宿」ではなかった(視察速報) - 保坂展 ...」でようやく,日本郵政不正論を唱える個人ブログに到達します。とはいえ,このブログのブログ主は,現職の国会議員です。

 さらに「【楽天トラベル】かんぽの宿 柳川 詳細情報」(これも,かんぽの宿に泊まりたい人向けの情報です。)が掲載され,つづけて「J-CASTニュース : 「かんぽの宿」オリックス売却問題 竹中平蔵氏と鳩山 ...」というニュースサイトの記事が表示されます。つづけて,「週刊!木村剛 powered by ココログ: [ゴーログ]かんぽの宿は鳩山大臣 ...」が表示されていますが,木村さんはむしろ,「反対の意見」を述べているように思われます。この後の「ネットゲリラ: 「かんぽの宿」が赤字という大嘘」でようやく,岸さんが述べるようなエントリーに近くなってきますが,でも,「オリックス政商論、小泉—竹中—宮内陰謀論、日本郵政不正論のオンパレード」とまではいえなさそうです。その後,TBSの動画ニュース ,読売新聞社のニュースサイトとつなぎ,やっと「かんぽの宿・4 - codemaniaxの脱・公務員宣言」ではてな住民のエントリーにぶつかります。ただ,これも岸さんがいう「反対の意見」サイドのものです。

 さらに,「鳥取「かんぽの宿」で嫌儲はやめてくれ - 不動産屋のラノベ読み」が表示されていますが,これも「反対の意見」サイドのものです。さらに,毎日新聞社のニュース記事が掲載され,その次に「「かんぽの宿」への政治対応はモラルハザードの塊|岸博幸の ...」という岸さん自身の記事が掲載されています。

 このようにみると,検索上位についてみれば,「オリックス政商論、小泉—竹中—宮内陰謀論、日本郵政不正論のオンパレード」なんてことは全然ないということができます。にもかかわらず,「オリックス政商論、小泉—竹中—宮内陰謀論、日本郵政不正論のオンパレード」であることを前提に,

私は個人的に、“かんぽの宿”騒ぎを通じてその答えが明確になったと思っています。日本のネットはゴミの山であり、ジャーナリズムの担い手になり得ないことはもちろん、民主主義の強化に何の貢献もしていないと確信しています。

といってしまっている岸さんは思いこみが激しすぎるように思います。

13/02/2009

限界生産力説の帰結

 それにしても,池田先生が「ほぼすべての経済学者がそう思ってい」るとされる労働の限界生産力説に基づくと,「ノンワーキング・リッチ」がいようがいまいが,そんなことは,企業が労働の投入を1単位追加したときの生産の増加分(労働の限界生産力)には影響を与えないので,労働市場の需要曲線は変わらないという結論に到達してしまうように思えてなりません。そうだとすると,企業による新規雇用を増やすという政策目的を実現するための手段としては,解雇規制を撤廃して「ノンワーキング・リッチ」を排除するということは,何の役にも立たないように思われます。

 解雇規制が撤廃されたとしても,NHKや大学のように経営の効率性がさほど重視されていない組織においては,経営陣や,監督官庁の上層部との人的な関係密度の高い「ノンワーキング・リッチ」が解雇され又はその処遇を引き下げられる可能性はそれほど高くないように思えてなりません。また,これらの組織において人件費の引き下げが求められるようになったとしても,若年〜中堅層にかけての正社員を解雇して非正規社員に格下げしたり,解雇をちらつかせて処遇の引き下げを迫ることによって,これを実現するのではないかという気がします。

中高年正社員の給与水準に関する認識の違い

 池田先生が次のように述べています。

ソニー、全日空、東芝、パイオニアなどで、賃下げの動きが広がってきた。「ワークシェアリング」などという曖昧な話ではなく、賃下げこそ雇用維持の切り札である。年収1500万円の中高年正社員の賃金を2割下げれば、非正規労働者の雇用が1人守れる。

 NHK→REITI→GLOCOM→上武大学と,しかもREITI以降は主任研究員,教授等の地位で渡り歩いてきた池田先生の目に映る「中高年正社員」って,そういうごく一部の恵まれた人たちだけなのだなあ,と感心しました。私の父は,「非正規労働者」であったことはありませんが,終生,年収がその3分の1を超えることはなかった(4分の1を超えたことすらあったかわからない)ので,ずっと別世界を見ていたのだなあ,と思ってしまいました。

 池田先生のような方が25年前に猛威をふるって25年前に「中高年正社員の賃金を2割下げ」る政策が実現していたら,さすがに,屋根の下で,飢えずに生きていくために,私は大学進学を諦めざるを得なかったのだろうなあとしみじみ思います(父自身,昭和11年生まれで都立上野高校卒ですから,子供の教育を受ける機会が親の所得水準に大きく依存している社会でなかったら,それなりの大学に進学できて,それなりの処遇を与えられる職に就けていたとは思いますし。)。そういう意味では,私はまだ,高卒で中小企業に勤めた一般従業員の子供でも,大学に進学し,司法試験にチャレンジすることが許された時代に,十代後半から20代前半を迎えることができて,非常にラッキーだったのだなあとしみじみ思います。

 新自由主義者たちが主導して行った司法改革により,もはや私のような出身階層の人間が司法試験にチャレンジするという道は事実上封じられましたし,池田先生の政策提言が万一取り入れられて,解雇規制が撤廃されて,一般の労働者は絶えず20代前半の独身者との価格競争を強いられるということになれば,この階層に生まれた人間は,私の父がそうであったように,成績が良くても大学進学なんかできなくなるのだろうなあと思ったりはします。

 もちろん,新自由主義者から見ると,そういうのって,政策提言の中からは排除しないといけない「感情論」ってことになるのでしょう。実質的な機会の平等なんて新自由主義から見たら何の意味もない話でしょう(奴隷制度も肯定されるようですし。)。でも,民主主義社会では,そういう「感情論」を無視しては物事って進まないし,だから新自由主義って,宗教勢力と結びつくなどして国民を騙すか,独裁政権と結びつくか,っていう形でしかなかなか実現しないのです。そういう意味では,日本人特有のサディズムと結びついてこれまでやってきた日本型新自由主義っていうのは,政治学的にはある種画期的なことなのかもしれません。

12/02/2009

労働生産性と労働の限界生産力は別概念ではないでしょうか?

池田先生が,そのブログのコメント欄で,

<労働生産性に等しい所得を得ることが公正だと思う人はいないのではないかという気がします>




残念ながら、経済学の教科書にはそう書いてあるのですよ。これは限界生産力説といって、ほぼすべての経済学者がそう思っています。

と仰っています。しかし,一般には限界生産力説というのは,

企業が労働の投入を1単位追加したときの生産の増加分(労働の限界生産力)が労働1単位にしはらう費用としての賃金水準より大きいかぎり、企業は労働を需要し生産を増加させたほうが有利である。なぜなら、このときには利潤を増加させることができるからである。したがって、企業が利潤極大化行動をとるのであれば、企業にとっての均衡は労働の限界生産力と賃金がひとしくなるときに成立する

(MSNエンカルタより)という考え方であって,

、これはあたえられた賃金水準のもとでの労働需要量決定の理論であり、賃金水準そのものの決定には労働供給サイドの要因を考慮しなければならない
(MSNエンカルタより)

とのことなので,労働生産性に等しい所得を得ることが公正だという考え方ではないように思われます。

 また,労働生産性についてはこちらで触れているのですが,「労働の限界生産力」とは異なる概念であるように思われてなりません。

 池田先生は,経済学用語の使い方が一般のそれと異なるので,普通の経済学の教科書を買って読んでも,話がかみ合わないような気はします。

新自由主義以外はマルクス主義だと思っている人たち

 非常に単純化されたモデルを信奉し,それを現実に当てはめれば全てがうまくいくと思っている一部の新自由主義者たちは,その考え方に批判的な人々に安易に「マルクス主義者」のレッテルを貼ることがお好きなようです。

 しかし,生産手段の国公有化をすら主張しない人々を「マルクス主義者」と呼ぶのはそもそも間違いなのではないかという気がします。近代経済学の理論的枠組みのもとで,「市場」がもたらす不都合な結果を回避するために政府が「市場」に介入することを提言するというのは,よくある話です(少し前までは,「政府の失敗」ばかりを強調するのが流行っているようですが,「市場の失敗」を認識し,これを回避するために一定程度の介入を政府に果たさせるというのが,近代経済学の基本的な役割ですし,それによりマルクスが唱える「共産革命前夜」みたいな状況を回避してきたからこそ,民主主義国においても,市場経済をベースに置く経済体制が維持できたのです。)。そして,「新自由主義」という,実際の政策に実装すると死屍累々で程なくして崩壊してしまう極端な経済思想に反対するのが「マルクス主義」しかないと考えるのは,近代経済学に対するある種の侮辱でしょう。

11/02/2009

結局、内需の原資はどこからでてくるのでしょう。

 雇用流動化により社会全体の雇用コストが軽減された場合、消費の原資が減少するので、当該社会に属する消費者は商品やサービスを購入しなくなる──このような常識的な見方に対して、「賃金」という形での企業から家計への財貨の移転が減少しても国内消費が減少せずむしろ増大するとするのだということの経済学的なご説明を池田先生から頂くことは、ついぞできませんでした。

 この教科書を読んだら、あるいはこの論文を読んだら、企業が労働者に支払う賃金の総量を減少させても、需要が減少しないということがわかるというのであれば、端的にそれをお示しいただければよいのに、と思ってしまいます。(サマーズさんはそう仰っていないようですが)「長期的には雇用コストが下がると……自然失業率は間違いなく下がる」としても、失業率が下がっただけでは内需は増大しないだろうということは、経済学の学位を取っていない私にも見当がつく話です(例えば、解雇規制を撤廃し最低賃金制度を廃止することにより労働者の平均賃金が半減する代わりに失業率が10%から1パーセントに下がったという場合、「賃金」として家計に移転する財貨は45%減少します。「賃金」として家計に移転する財貨が減少しても、「失業率」さえ低下すれば、国内需要は減少せず、むしろ増加するのだということを、説得的に説明できる理論があればいいのですが、そういう話は未だ伺えていないようです。)。

 なお、池田先生は、

経済学部の学生なら1年生の夏学期に教わるように、所与の資源存在量のもとで効率的な資源配分は、異なる所得分配に対応して無限に存在し、そのうちどれが公平かは理論的には決まらないが、所与の所得分配のもとでどういう資源配分が効率的かは一意的に決まる。たとえば土建業で50万人が失業し、介護で50万人が足りないとき、前者から後者に労働力を移動することでGDPは明らかに増え、損する人はいない。これがパレート効率性の意味である。

仰っていますが、パレート効率性の一般的な意味とはずれているように思います。一般的に、パレート効率性とは「ある集団が、1つの社会状態(資源配分)を選択するとき、集団の内誰かの効用(満足度)を犠牲にしなければ他の誰かの効用を高めることができない状態」をいうのであって、動的な概念ではありません。なお、土建業にしても介護事業についても、公的資金による助成を需要側が必要としているサービスであり、需要自体が公的資金の配分決定に大きく依存するので、資源配分の効率性を云々するのに適切な例だとは思われなかったりします(ついでにいうと、土建業から介護業に労働力を移動させるためには、土建業従事者が介護業に従事できるような職業訓練プログラムを用意するとともに、土建業の補助に用いられていた公的資金を介護事業に振り向けることにより、労働者の増加により可能となる供給を支えるだけの需要を形成することが必要となります。)。

 池田先生が他人の見解をご自身でも批判できるように読み替えるのは珍しいことではないので、私が「「所得分配を平等にしたらGDPが増える」という話」を繰り返しているだの、「資本家も労働者も所得が同じになるのが公正だと思っている」だのという読み替えをされていることを今更とやかく言っても始まらないとは思うのですが(基本的に学問領域が違えば許容される流儀も違うのでしょうし。)、「労働生産性に等しい所得を得ることが公正だと思う人」はいないのではないかという気がします(「労働生産性」という概念の定義を独自に理解しない限りはですが。)。また、「現実にとられているのは、基本的には所得分配は市場にゆだね、最低所得を補償する政策である。」との点については、フリードマン等の経済学者が提示しているモデルを現実のものと混同されているだけなのではないかという気がします(多くの先進国では、最低賃金制度が採用されたり、所得税の累進課税制度が採用されたり、また、労働組合を保護して利益の配分についての会社の意思決定に関与させたり、いろいろなことをしていたりするわけです。)。

10/02/2009

雇用コストは、見方を変えれば、需要の原資である。

 池田先生はあくまで、昨今の労働者階級の困窮の責任を「中高年正社員」にのみ押しつけようとされているようです。

 

ある経営者が、正社員を雇うか派遣にするか迷っているとする。正社員を雇うと絶対に解雇できないとすると、生涯賃金は大卒男子平均で2億7000万円だ。社会保険や年金・退職金を入れると、4億円近い大きな固定費になる。他方、派遣の賃金が正社員と同じだとしても、業績が悪くなったら契約を破棄できる変動費だ。たとえ生産性が低くても派遣を雇うことによってリスクをヘッジできるので、経営者は派遣を選ぶだろう。しかし正社員の解雇が自由になったとすると、正社員と派遣のコストは同等になり、経営者は生産性の高い正社員を選ぶだろう。

 もちろん、現行の労働者派遣制度のもとでは、派遣労働者から賃上げ要求をしてくることはないので、正社員を雇うか派遣にするのかを経営者が自由に決定できるとしたら、(少なくとも経験不足がさほどマイナスにならない、マニュアル化の進んだ労働であれば)派遣を選択する方が、その企業単体で見れば合理的でしょう。そして、法改正がなされ、労働者派遣の期間制限が撤廃された場合、従業員は全て期間の定めのない派遣労働者で置き換えるのが、その企業単体で見れば合理的でしょう。何といっても、賃上げ要求を受けることがないのですから。そして、正社員の解雇が自由になったとすると、経営者としては、正社員についても賃上げをする必要がない(賃上げを要求してくる労働者は直ちに解雇して、より若くて賃金の要求水準の低い労働者に置き換えればいいわけですから、20歳前後の独身者に最低限必要な給与水準を全世代の労働者に押しつけることができることになります)のですから、その企業単体で見れば合理的です。

 しかし、それはごく少数の企業のみが行うのであればそれらの企業の利潤が増大するという効果が生じますが、それを社会全体で行った場合には、企業活動により生み出された商品やサービスを一体誰が購入するのだろうか、その原資はどこから出てくるのだろうかという疑問が当然生じます。池田先生は、一貫してこの点には言及されていないようです。法律家は非現実的な仮定を行うことで論理一貫性を整えるという作業が苦手なので、社会全体で見れば需要の原資となる雇用コストが大幅に減少すれば、需要、とりわけ内需はてきめんに減少すると考えてしまいます。つまり、解雇規制や最低賃金等の法制度は、一段階論理では、単に労働者を保護しその分資本家の利益を損なっているように見えますが、社会全体で雇用条件の引き下げ競争を始めた場合に内需が崩壊するという「合成の誤謬」を回避する機能を有しているという意味で、市場の持続的発展に寄与しているということができるように思われてなりません。

 また、池田先生は、長期的には雇用コストが下がると労働需要は増えるので、自然失業率は間違いなく下がるとしてサマーズさんの発言を引用(した池田先生の過去のエントリーにリンク)しているのですが、引用されている部分To fully understand unemployment, we must consider the causes of recorded long-term unemployment. Empirical evidence shows that two causes are welfare payments and unemployment insurance. [...] Another cause of long-term unemployment is unionization.についていえば、「原因を二つあげるとすれば福祉給付と失業保険だ」といっているのであり、「労働者保護」とりわけ解雇規制が強いことは自然失業率を高める要因とはしていないように読めます。少なくとも、サマーズさんは、「失業率が解雇規制の増加関数であること」が「実証的にも定型的事実である」とは仰っていないようです(引用元の文章以外で仰っていたらわかりませんが)。

 また、池田先生は

雇用を流動化するもっと重要な理由は、それによって労働生産性を高めることだ。流通業や建設業には大量の潜在失業者がいるが、医療や介護では人手が足りない。前者から後者に労働力を移転するには、解雇規制を緩和するとともに職業訓練を強化し、人々が新たなキャリアへの挑戦を容易にする必要がある。それによって福祉サービスが成長すれば、内需拡大によってGDPが高まる。厚労省の進めている雇用固定化政策はきわめて反生産的であるばかりでなく、労働者を会社に閉じ込めて不幸にする。
と仰っているわけですが、流通や建設業に従事する人々が医師になれるようなプログラムが現実に用意されていない状況で解雇規制を緩和したところで、そのような労働力の移転が行われないことは明らかです。むしろ、流通や建設業に従事する人々が(労働条件が飛躍的によい)医師になれるプログラムが用意されるのであれば、解雇規制を緩和しなくとも、自主的に当該プログラムを受けて、流通業や建設業から医療の分野に活躍の場を移す人が出てくる可能性が高いと言えるでしょう。そのためには、開業医等の富裕層の子供でなくても医学部に入学し卒業まで漕ぎ着けられるように公的資金を医学教育に投入することが求められます。すなわち、池田先生のご提言は、順序が逆だというべきです。

 小倉さんは政府のすべての政策は資本家が労働者から搾取するための陰謀だと思っているようだとのことですが、どのようにしたら私がそのように思っていると思えるのか不思議でなりません。

 なお、税の累進性が上がるとインセンティブが低下するというのは、著作権の保護期間が延長されないと創作のインセンティブが下がるのと同じくらい、現実味がないように思います。富裕層と言われる人たちは、もはや生きている間に使い尽くせないほどの富を集めても、なお、さらに富を自分のもとに集めたがる性質を持っているものです。

09/02/2009

「新しい産業を育てて投資機会を増やし、内需拡大する」ために必要なこと

 池田先生は,次のように述べています。

製造業を捨てる必要はないが、競争力のない製造業にこだわると日本経済全体が沈没する。新しい産業を育てて投資機会を増やし、内需拡大することが究極の経済対策だ——という点で、意外にも多くの論者の基本的認識は一致している(これは野口氏も同じ)。ようやく日本でも、まともな政策論争が可能になってきたようだ。

 そこまで分かっていて,消費性向の高い中低所得者層の給与水準を更に押し下げ,かつ,この階層にまで,ある日突然解雇されても次の再就職先が見つかるまでホームレスとならずに済むだけの相当の貯蓄を強いる「北風」政策を推進されるというのは不思議でなりません。そりゃ,「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約される「セイの法則」というのはあるわけですが,現実には,およそ全ての商品は原材料費等の要因故に価格に下方硬直性がある(だから,一般労働者の労賃をただ同然に引き下げたところで,商品価格はただ同然にはなりません。)ので,「供給が増え供給超過になっても、かならず価格が下がるので、結果として、需要が増え、需要と供給は一致する」という前提が成立しないため,需要者側の購買力を無視して供給量の拡大のみを図ったところで,「拡大された供給量に合わせて需要が拡大する」ということはないのです。

 従って,内需を図るためには,消費性向の低い企業や高額所得者から消費性向の高い中低所得者への財貨の移転を図ることが急務であり,それは所得税の累進性を引き上げたり,資産課税を強化したりして,公的部門が吸い上げた財貨を,失業者や低所得者向けの公営住宅への投資や中高等教育の無償化,失業給付の期間延長等の形で中低所得者へ配分したり,解雇規制や労働組合の保護等によって一般労働者の所得水準を維持し上昇させていくことが必要となります。そのようにすることで,国内向けに供給する商品・サービスが,製造原価に適切な利益を載せた価格で相当数購入される環境を作り出すことなしには内需は拡大されないし,内需を見込んだ投資がなされることも期待できないということができます。

「過去数年の好況時、得られた利益はすべて労組側にベアとしてもっていかれ」ただって!!

 城繁幸さんという方が不思議なことを書いています。

 

だが、これは社会にとって、きわめて不穏当な副産物をもたらしつつある。というのも、正社員側の既得権にはいっさいメスを入れぬまま、調整コストをすべて後者に負わせるため、両者の経済的格差は決定的となる。過去数年の好況時、得られた利益はすべて労組側にベアとしてもっていかれ、現在のような不況時には真っ先に首を切られるという具合だ。2007年に2兆円を超す営業利益を上げつつも人件費の拡大を抑制し、現在大量の期間工をリストラしつつあるトヨタは、新型日本的経営の模範例といえるだろう。

 「過去数年の好況:というと2002年2月から2007年10月の俗称「いざなみ景気」を指すのでしょうが、この間「得られた利益はすべて労組側にベアとしてもっていかれ」た等という話は聞いたことがありません。むしろ、2000年から2007年にかけて国内総生産は約12兆円増加したものの、配当金が約9兆円増加、内部留保が約9兆円増加、役員報酬は2000年の8000億円から2005年の1兆5000億円にほぼ倍増しています(その後会計基準が変わったとの理由で2007年度分の役員報酬額を公表していません。)。そして、この間ベア分の上昇が行われたのはごく一部の企業に限られ、それもそれほど大きな額ではありません。この間、正規雇用労働者は、労働時間の長時間化という負担を背負い込んでいるのに、です。

 城さんは、さらにこう続けます。

 2つ目の道は、正社員の既得権にメスを入れ、正規と非正規の同一労働同一賃金を実現、利益もリスクも両者で分かち合う道だ。人材市場の流動化をめざす労働ビッグバンがまさにこの道に当たる。この場合、年齢という軸は消えてなくなるため、フリーターも中高年も弾かれる理由はなくなり、真の再チャレンジが可能となる。
 イメージとしては、年俸制に基づいて柔軟に処遇可能なプロ野球選手が近い。大金を支払われるルーキーがいる一方で、戦力外とされたベテランにも機会が与えられ再生可能な仕組みだ。年功序列のままなら、高コストのベテランにチャンスが与えられることはない。

 「人材市場の流動化をめざす労働ビッグバン」を一般企業に導入したとして、ルーキーに大金が支払われる可能性があると城さんは本気で思っているのでしょうかね。プロ野球選手の場合、労働者の個々の能力の違いが業務に非常な影響を及ぼすのであって、労働者間の代替性が非常に低いため、「給料の高いベテランを解雇して給料の安い新人に置き換えるのがベスト」ということには必ずしもならないわけですが、組織の中で決められたことを着実にこなすことを求められる一般労働者の場合、労働者の個々の能力の違いはさほど注目されないので、人材の代替性は非常に高いということができます。すると、経営者としては、「人材市場の流動化をめざす労働ビッグバン」が実施された場合は、「コスト的に最安値のピチピチ」の新人時代から、せいぜい「パフォーマンスがコストを大幅に上回る30代前半」くらいの間だけその労働者を雇用し、その期間が過ぎたらあっさり「ポイ捨て」して、また新たな「コスト的に最安値のピチピチ」の新人を雇用するのが合理的だということになります。いずれにせよ、ロスジェネ世代のフリーターたちの出る幕はありません。その場合、「ピチピチ」の期間だけ雇えばよいということになると、経営者の趣味に沿って若い女性労働者が多く雇用されるということはあるかもしれませんが、「ピチピチ」の期間が経過したら「ポイ捨て」されて、若い子と交代させられてしまうというのでは、男女平等もなにもあったものではありません。

 雇用規制が撤廃されれば、「ワーキングプア、男女賃金格差等、現状の格差」等を解決できるなどといっているのは、「経営者たちは善意の固まりなのだが、正社員があるいは労働組合が、ロスジェネ世代を、女子労働者を、高齢労働者を、好条件で雇うことを妨害しているのだ」という「君側の奸」幻想に基づくわけですが、いい加減そういうまやかしはやめにしたらよいと思うのです。

08/02/2009

きちんとした手続を踏めばOKということです。

 池田先生が、そのブログエントリーのコメント覧で次のように述べています。

日本企業の利益剰余金が多く、それがROEを下げているのは周知の事実です。村上ファンドのねらった会社では、現預金の残高が時価総額を上回っていた。利益剰余金は、会社が資本家から借りている金なので、ほんらい配当しなければならない。そうすれば株主資本の分母が小さくなって、ROEも上がるのです。



共産党のいうように、利益剰余金を労働者に払う理由はない。そもそもどういう理由で払うのか?ボーナス?そんなことをしたら、株主から「資本家の金を勝手に流用するな」と訴訟を起こされるでしょう。労働者は雇用契約で定めた報酬を受け取り、資本家は損しても得してもresidualを取る「残余請求権者」だというのが、資本主義の原則です。法律家の小倉さんが、商法の原則も理解してないのは困ったものです。

 私の「ROEの低さ」というエントリーでは、利益剰余金を取り崩して労働者に支払え云々という話はとりあえずしていないので、私の見解に対する批判としては的を射ていないように思います。

 1億円の資本金に対し1年間の営業活動の結果利益が5000万円生じた場合に、これを全て配当に回せば(説明を簡略化するために、法定準備金の話はひとまず措きます)、ROEは50%となる代わりにBPSは変動しないのに対し、4000万円を準備金として内部留保すれば、ROEは10%にしかならないかわりに、BPSは1.4倍になります。それは、株主として、投下資本の回収手段として、配当金収入を重視するのか、将来の株式の譲渡を重視するのか、によってどちらを望ましいと考えるのか違ってくるものの、どちらも株主の利益を増大させていることには変わりはないわけで、単にROEが低いことをもって、後者についてはさも株主の利益が犠牲になっているかのように述べるのはおかしいのです。

 なお、これは池田先生のブログのコメント欄常駐者のレベルにあわせて簡略化させていっただけなのでしょうが、「利益剰余金」というのは純資産項目であって、労働者に支払われる原資は(流動)資産からなので、「利益剰余金を労働者に支払う」ということはありません。利益剰余金がたくさんあるということは、それだけ資産がたくさんあるということなのだから、「100年に1度」といわれる大不況の時に、すぐに首切りをしなくったって、賃金を支払う余裕はあるではないかというのが、共産党等のいっている趣旨なのではないかと思います。確かに、資本金10億円以上の企業だと、現金・預金だけでも、年間の従業員給与とほぼ同額あるようですから、それはそれでわからないでもない話です。

07/02/2009

スクテイクの不足が日本経済の内需の弱さの原因?

 また、池田先生は、このようにも述べています。

昨年の経済財政白書は、日本経済の内需の弱さの原因をリスクテイクの不足に求めている。この最大の原因は、非効率な金融システムだ。図のように、日本の個人金融資産に占める預金の比率はほぼ半分で、主要国で群を抜いて高い。資産の半分が元本保証で運用されているため、資産構成がローリスク・ローリターンに片寄り、ハイリスクの市場が欠落しているのだ。

 リンク先の経済財政白書をざっと読む分にはそこまでは言っていないように思います。預金を株式・投資信託に切り替えたからといって、中長期的にみて家計支出が増大するとする理由はさほどありません。もちろん、株式・投資信託等の配当金ないし売買差益が預金金利よりも恒常的に高ければその分は若干家計支出の増大に寄与するかもしれませんが、多くの投資信託の運用実績がマイナスである現在、預金を株式・投資信託に切り替えた家計がもっと多かったら内需はもっと落ち込んでいたのではないかという気がしなくもありません。といいますか、普通に考えると、リスクマネーの割合が高いと、むしろ、不況期の家計消費の落ち込みは激しくなるのではないかと思ったりします。

経団連等の経営者団体はなぜ「法人税減税、消費税増税」要求でまとまれるのか

 世の中で不思議なことの一つは、経団連等の経営者団体が「法人税減税、消費税増税」要求でまとまるということです。

 これって、実際上は、輸出産業の負担を軽減し、その分内需産業の負担を増加するという話なので、これら経営者団体に参加する企業のうち内需産業にとってはトータルでマイナスでしかないのに、そのようなものを支持してしまう内需産業の経営者の利他ぶりには頭が下がります。もちろん、消費税が増税になっても従業員の給料にそれを上乗せする義務はないのに対して消費税増税分は商品価格に上乗せできるから実質的に値上げができるという面はあるのですが、消費者は税込み価格で考えて購入の是非を決めるので、消費税増税分を価格に転嫁すれば消費数量自体が落ち込むことが予想される反面、結局消費者の総支出額が消費税値上げ前と同水準に落ち着いてしまう(収入が変わらないのであれば、通常そうなります。)と、消費税として国に収める金額が増加した分、内需産業の取り分は減少していくことになります。

 経済系の人たちって、消費者側の事情を織り込んで考察することが不得手なのかなあと思ってしまいます。まあ、コピーコントロールCDに規格を変更すれば正規商品の売り上げが伸びるとか本気で考えてしまう人たちなので今更何を、という気はしますけど。

ROEの低さ

 池田先生が次のように述べています。

さらにその原因は、資本効率の低さだ。アメリカに比べると、日本の上場企業の平均ROEは約5%と、アメリカの半分以下である。つまり小倉さんの思い込みとは逆に、日本では資本家へのリターンがあまりにも低いために投資が低迷し、それが内需を慢性的に不足させているのだ。したがって「需要不足」の最大の原因は、経済財政白書も指摘するように、日本型企業システムの非効率性という構造的な問題だ。

 ただ、この種のお話をする場合に気をつけなければならないのは、ROEの分母となるEquity(株主資本)は、「払込資本金と内部留保との和」であるということです。従って、内部留保が大きいと、必然的にROEは低くなります。また、ROEに関しては、「自己資本利益率(ROE) = 一株当たり当期純利益(EPS) ÷ 一株当たり純資産額(BPS)」という計算式が成り立つので、1株あたりの当期純利益が一定であれば、自己資本利益率(ROE)と1株あたり純資産額(BPS)は反比例することになります。そして、1株あたりの純資産額を高めることは、株式の客観的価値を高めることに繋がりますので、ROEが低い=資本家へのリターンが低いということを意味しないことになります。

(図1)
001





(図2)
002







ただし、時計回りで順に、資本金、資本準備金、その他資本剰余金、利益準備金、その他利益剰余金

 では、日本では、内部留保がどれくらいあるのかというと、日本企業全体についてみたのが図1、資本金10億円以上の大企業についてみたのが図2ということになります。すなわち、資本金10億円以上の大企業に限ってみても、払込資本額の約4倍の内部留保があるということになります。これでは、ROEが低くともやむを得ないということができそうです。

06/02/2009

「譬え話」という概念が理解できないライターって存在しうるの?

 以前アップロードした「『スルー力』を被害者に要求することの残酷さ」とのエントリーについて,成松哲さんという方から,こいつがやってることは、こいつ自身が言う「『日教組が悪い』と言い続ける方々」と同じくらい、妄執に則った寝言を吐く「怪訝」な行為。といわれてしまったので,コメントをしたところ,次のようなコメントを返されました。

あー、現在学校がどれだけイジメ対策に腐心し、情報モラル教育に熱心に取り組んでいるかを確認せずに、ありもしない未来予測で教育批判を繰り広げる俗流教育論者とお話しているヒマはないので、スルー力を発揮させていただきます。...

 しかし,あのエントリーを「教育批判」「教育論」として読む方がおられるとはまさに青天の霹靂です。まさかとは思うのですが,この方は,私が譬え話として述べた部分を,「教育の現状に対する私の認識ないし将来予測」を述べたものと勘違いされているのでしょうか。この人の手にかかってしまうと,「矛盾」の故事成語の語源となる譬え話を述べた韓非子についても,「武器商人の現状を確認もせず,ありもしない未来予測で商人批判を繰り広げる俗流商道徳論者」との謗りを受けてしまうかも知れません。

ヤメ検が期待されること

 落合先生が次のように述べています。

捜査の表裏を熟知し、という点は、私の場合も、敢えて否定はしませんが、捜査当局への影響力と言っても、できることとできないことがあるのは当然のことで、黒いものを白にする、といったことを期待する人がいれば、それは誤った期待でしょう。

 そうはいっても、ヤメ検さんに期待されているのは、「捜査の表裏を熟知し」ていることというよりは、検事時代のコネでうまいようにしてくれることだったりするので(実際に、そういうコネが聞いているのかというとそういうことはほとんどないようですが)、そこまでいってしまうのはどうかなあという気もします。私自身刑事弁護から足を洗っているので、友人の弁護士がその依頼者から聞いた話としてしか知らないのですが、「黒いものを白にする、といったことを期待する」のでなければとてもではないが払う気にならないような高額の着手金を要求する例は実在するようです。

必要とされる構造改革

 The Economistの2009年1月31日-2月9日号の「Asia's suffering」と題された社説は、次のように述べています。

Asian governments must introduce structual reforms(アジアの政府は、構造改革を導入しなければならない)

 これだけだと、新自由主義者から耳にタコができるほど聞かされているいつもの話のように思えてきます。が、The Economistは、このように続けます。

that encourage people to spend and reduce the need for them to save.(人々が支出することを促し、人々が貯蓄する必要を減ずるような)

 すなわち、日本を含めたアジア諸国において求められているのは、日本の新自由主義者たちが未だ声高に主張するような、庶民にさらなる北風を吹き付けるような構造改革ではなく、セーフティネットを張り巡らせて庶民の不安を安らげる構造改革だということです。労働者の賃金を抑えることで製産した低価格を輸出することに偏った経済体制は、内需を過度に抑制しているため、輸出先の経済状況の悪化に耐える余力を製造業者から奪っていくとともに、人件費を削減することで生じた内部留保は、直接又は間接に外国の株式や証券へと形を変え、投資先の経済状況の悪化により泡と消えていったわけですが、もはやそういう構造をこそ変革していく必要があるというべきです。

 勝間和代さんやブレア元英国首相は「教育、教育、また教育」というスローガンを唱えていますが、解雇規制がなされず、何歳になっても10代ないし20代前半の労働者と賃下げ競争を強いられる仕組みを作ってしまえば、一般の労働者家庭では、子供を大学に通わせるどころか、高校に進学させることすらできなくなります(木村剛さんが絶賛するbobby氏の構想に依れば、一般労働者の賃金水準は月額1万円にまで引き下げられることになります。これでは、子供の授業料を支払うどころか、子供に人間的な衣食住を確保してやることすらできません。)。そのような階層では、避妊に失敗し中絶も間に合わずに子供を産み育てざるをえなくなったとしても、法律上許される限り(あるいは法律を無視してでも)なるべく子供を早期に働かせることが必要となります。そして、そのような社会は、程なくして競争力を失っていくことが予想されます。すなわち、新自由主義者は、自分たちを中長期的視野を有している賢人だと思いこんでいるようですが、何のことはない、中産階級を崩壊させ格差を拡大させることがその社会の経済力すら中長期的に失わせることにすら気がつかない、非常に近視眼的な思考の持ち主だというべきです。非人道的で、近視眼的なのだから、誠に救いようがありません。

05/02/2009

社会主義より耐用年数が短い

 新自由主義的な改革って、ピノチェト政権下のチリを含め、複数の国で導入された事例はあるようです。しかし、強烈なインフレを沈静化する効果はあったものの、程なくして、失業率の急上昇や社会インフラの崩壊等、金融業の肥大化およびバブル崩壊による国府の壊滅的消滅などの副作用があからさまになってつぶれていく運命にあるようですね、その耐用期間たるや、社会主義以下というのがすごいところです(しかも、社会主義国家と異なり、新自由主義を採用する国家に干渉戦争を行う国はなかったというのに!)。

 他国で失敗していることを「こうすれば同じ過ちは繰り返さない」という見込みも無しに自国でも繰り返そうという人々が少なからずいるのは驚きです。新自由主義って、机上の空論としては、といいますか過度に単純化されたモデルで説明する上では綺麗っぽいのですが、しかし理論を美しく見せるために捨象した雑多な条件というのは、理論を現実に適用した場合には捨象できないので、それらの雑多な条件が足を引っ張って理論通りの結論をもたらさないことになってしまいます。

04/02/2009

所得格差とGDP

 所得格差が縮まると、労働意欲を失い、生産量が減少すると心配する人たちがいます。そこで、ジニ係数と国民一人あたりのGDPとの関係がどうなっているか見てみましょう。

 これ を見る限り、ジニ係数が高く所得格差が大きい国ほど、国民一人あたりのGDPが高いとはいえないようです。

Bunpu

03/02/2009

信念をもって、あっと驚くようなことをやってください、夏野さん。

 ドワンゴの夏野剛取締役が次のようなことを述べています。

 政治のリーダーの方、社長の方、役員の方、官僚の方、ともかく人の上に立つ方。信念をもって、あっと驚くようなことをやってください。国民が驚くような思い切った政策。社員がのけぞるような実質的な体制の変更。成功するかどうかはわからないけれど、いままでには考えられなかったような変化を引き起こす行動。



 そんなことはできない。そんなことは思いつかない。そんなことは効果がない。そんなこと自分の趣味じゃない。そんなことやったことない。とりあえず部下に検討させる。

 そういう答えが思い浮かんだリーダーの方、お願いです。この危機を乗り切るために、日本の将来のために、ひいては人類の進化のために、身を引いてください。

 夏野さん、どうか、御社の子会社の取締役が開設した匿名電子掲示板における誹謗中傷やプライバシー侵害がなくなるような、成功するかどうかはわからないけれど、いままでには考えられなかったような変化を引き起こす行動をやって下さい。匿名なら何を書いても責任をとらなくても済むから何を書いてもいいや、とか、財産の所在さえ把握されなければ実質的に責任をとらなくて済むから敗訴判決が確定しても放置しておけばいいやとか、そういうシニシズムからあなたのビジネスパートナーを救うために、信念をもって、あっと驚くようなことをやってください。

 そんなことはできない。そんなことは思いつかない。そんなことは効果がない。そんなこと自分の趣味じゃない。そんなことやったことない。という答えが思い浮かぶことはなかったですよね。

一段階論理の正義

 法律家の「正義」は、しばしば経済学者から「一段階論理の正義」と揶揄されます。

 例えば、一般的な法律家は、セクシャルハラスメントを「不正義」と考え、社内で女性従業員が男性上司から体を触られたり、肉体関係を許容されたりした場合には、当該男性上司に法的な責任をとらせるとともに、そのような上司を放置していた会社にも法的な責任をとらせるべきだと考えます。

 しかし、法律家の「正義」を「一段階論理の正義」と揶揄する経済学者の論理をこの問題に当てはめると、おそらくこうなります。「従来より、少なくない企業において、その性的な魅力ゆえに、その学歴や学力に不相当な企業に就職できた若年女性従業員が少なからずいた。企業としては、社内におけるセクシャルハラスメントが厳密に規制され、その性的魅力を社内で費消できないということになると、そのような若年女性を雇用するインセンティブを失うことになる。すなわち、社内におけるセクシャルハラスメントを糾弾することは、そのような若年女性から雇用機会を奪うことになるのだ。好きでもない男から体を触られたり肉体関係を強要されたりするのはかわいそうだという論理で社内セクハラを禁止するのは法律家特有の『一段階論理の正義』にすぎない。経済学的には、セクシャルハラスメント受けたくない女性はそのような企業を退社すればよいのであって、セクシャルハラスメントを受けてでも企業勤めをしたい女性もいるのだから、社内セクハラを法律で規制するのは間違っている」

 しかし、法律家としては、「若年女性労働者の採用枠が拡大する」というメリットがあるとしても、個々の若年女性に「セクハラを甘受するか、それとも無職になって放り出されるか」の選択を強いることは耐えられません。「基本的人権は尊重されなければならない」という考え方が染みついており、それが全体の利益に繋がるのだと言われても、一人の人に甘受させることができる不幸の量には限度があるべきだと考えるからです。そういう意味では、法律家は、経済学者とは永遠のわかり合えないような気がします。

02/02/2009

日本のジニ係数は、mid-2000でも上昇している。

 池田先生は、日本の所得格差(ジニ係数)は図のようにOECD諸国の平均よりやや高い程度で、最近は低下している。とおっしゃっているようですが、厚労省の所得再配分調査によれば、2005年調査分のジニ係数は再分配前で0.5263、再分配後で0.3873であって、いずれも2000年調査より上昇しています。

 非正規労働の範囲拡大で若年労働者を中心に給与水準が低下した反面、株式配当率が上昇した(中高年正規労働者の所得がその分上昇したわけではありません。)わけですから、所得再分配前の不平等が大幅に拡大するのは避けられないことです。そのあたりの事実から目を背けてみても仕方がないように思います。

 そのことを肯定的に捉えるか否かは人によって違いがあるとは思います。純粋に経済学的見地から見れば、生存に必要なだけの所得を得られない人が(餓死するなり自殺するなりして)市場において淘汰されることは資源の最適分配をもたらすということになるのでしょうし、貧困家庭において生き延びるために娘を売春宿に売り飛ばすことは「性的魅力」という比較優位性を市場に投入することであって経済学的には好ましく、実際19世紀以前の日本の伝統に沿っているということにもなるのでしょうし。私は、経済学的に正しければ、人道的な観点など捨象しても良いとは考えませんが。

労働生産性

 勘違いをされている方がおられるようですが、例えば財団法人社会経済生産性本部によれば、

 労働生産性は、労働を投入量として産出量との比率を算出したもので、労働者1人あたり、あるいは労働者1人1時間あたりの生産量や付加価値で測るのが一般的です。

 

 労働生産性は、国民経済全体でみた生産性と、特定の産業、業種、企業の生産性とに分けられます。また、労働投入量に対する産出量を重量や個数で示した場合を「物的労働生産性」といい、産出量をその時点での価格で示したものを「価値労働生産性」、さらに付加価値を労働投入量で除したものを「付加価値労働生産性(Value Added Productivity)」と呼んでいます。

とのことなので、サービス産業において、従業員の給与水準が引き下げられたとしても、労働生産性は向上しません。サービスの価格を引き上げられないデフレ経済化においては、人件費以外の生産コストを削減するか、一定の収益を上げるのに要する人員を削減するかが必要となります。ですから、プロサッカーで言えば、入場料収入等が一定で、1チームの出場人数を11人から10人に減らすことができれば労働生産性は向上しますが、人数はそのままでただ年俸の安い若手に選手を切り替えただけでは労働生産性は向上しません。

01/02/2009

民間でできることを敢えて行っている、公的資金頼みの団体

 それにしても、福井秀夫さんや八田達夫さんなどの新自由主義者が所属する政策研究大学院大学って、各省庁の事務次官の天下りの宝庫なんですね。役員は6人中2人、参議は7人中7人が元事務次官のようです。。

 政策研究大学院大学って、授業料及び入学金検定料収入等の自己収入って収入全体の約17分の1程度しかなくて、ほぼ公的資金頼みであるようです。文系学部のみしかない一橋大学においても自己収入が収入全体の約3分の1程度はありますから、政策研究大学院大学の場合、公的資金頼み過ぎる感じはします。

 民間セクターでもできる大学院教育やシンクタンク機能を、このような公的資金頼みの団体に行わせることは、福井秀夫さんや八田達夫さんの信念に反するのではないかという気がします。私は、福井秀夫さんや八田達夫さんがまず、公的資金抜きで、政策研究大学院大学を運営するように、その経営陣に働きかけを行うことを望む次第です(って、八田さんは政策研究大学院大学の学長ですから、今すぐにでも理事会にそのような提案を行うことができるのですね。)。

私も、雇用問題についてのまとめ

 池田先生が「雇用問題についてのまとめ」というエントリーをアップロードしているので、私も若干まとめてみることにします。


  1.  福祉政策が異なる社会において「失業率」の高低を比較することは意味がない。:経済的弱者に対する福祉政策が貧弱な社会では、自立的に生活できる程度の給与水準に至らない就業者が増加するため、失業率が低めに算定されがちである。そのような原因で失業率が低下しても、それは国民全体の幸福には繋がらない。

  2.  「解雇規制を強めることは失業率を高める」とはいえない。:解雇規制が緩やかな制度のもとでは、好況期には労働市場が加熱しやすい反面、不況期には労働者が大量に放出されるので、全体としてみれば、解雇規制の強弱と自立可能労働者比率との間に特段の関係はない。

  3.  労働者の過小保護は内需を低下させる:解雇規制が緩やかな制度のもとで労働者が常に他の労働者との価格競争に晒され、その結果、一般労働者の所得水準が、生物として生存を継続するのに最低限必要なラインに近づいていくと、生存に最低限度必要な商品・サービス以外の商品・サービスの国内需要は衰退の一途をたどることになる。また、解雇規制が緩やかな制度のもとでは、住宅、自動車等の通常長期ローンを必要とする商品等を購入が回避されるために、内需を牽引するこれらの産業が衰退の一途をたどることになる。

  4.  問題は「世代間格差」ではなく「階級闘争」だ:企業においては、Aという従業員集団がαという労働条件でも集まってくる以上、Bという従業員集団の労働条件がβからβ-に引き下げられたからといって、Aという従業員集団の労働条件をα+に引き上げるインセンティブを有しない。Bという従業員集団の労働条件がβからβ-に引き下げられたことによる余剰は、経営者と株主とで山分けされることになる。したがって、B=中高年正規労働者の労働条件が引き下げられれば、A=若年非正規労働者の労働条件が改善されるというのは、幻想に過ぎない。

  5.  長期雇用の利点は、法的に保護されて初めて発揮される:企業との間で長期雇用契約を結んでも企業の都合で一方的に易々と契約の解除が可能となったのでは、従業員は長期雇用を前提とした行動を取り得なくなり、長期雇用の利点は発揮されないこととなる。

  6.  労働者の所得水準を低下させつつサービス業の労働生産性を高めることはほぼ不可能である:労働生産性は「付加価値 ÷ 従業員数」で算出され、「付加価値」とは企業が事業活動を通じて新たに生み出した価値のことをいう。その計算式は統計主体によって異なるが、いずれにせよ、中産階級が崩壊し、労働者階級の経済状態が悪化すると、国内の労働者階級を主たる客層とするサービス業等は、サービスの価格を上昇させることが難しいことはもちろんであって、むしろ価格の下げ圧力が高まることになる。また、サービス業の多くは労働集約的であり、従業員一人あたりの時間あたりのサービス産出量には飛躍的な向上は期待できない。従って、経営者・資本家と労働者との間の所得格差を押し広げつつ、サービス業の労働生産性を高めよと言ってみても、それは無理を強いるものである。

  7.  需要不足故の不況で、労働者保護を撤廃・削減すれば、不況をさらに促進する:今回の不況は、生産の効率性に問題があるのではなく、以前より二極分化の進行により内需が衰退していたのに加えて、サブプライムローン問題等で国外の金融機関に問題が生じた結果外需も急激に落ち込んだことによるものであるから、生産の効率性を向上させることは不況の克服には繋がらない。むしろ、そのことにより労働者への配分が低下すれば、さらに内需が冷え込むため、不況はますます悪化することになる。


 総じて言えば、新自由主義を振りかざして、企業が生み出す富の労働者への分配を減らしていけば行くほど、「需要不足」ということで企業にしっぺ返しが行く構図になっているということです。

「品質保証」は危険で欺瞞的なのか。

 落合先生が次のように述べています。

「コミュニケーション」と呼ばれている、いわゆるコミュニティ系のサイトは、コミュニティへの参加者(利用者)によって、刻一刻と様々な情報が大量に書き込まれて行くもので、いくら24時間、365日パトロールを行っても、常に、必ず違法な情報、有害な情報が存在するものです。18歳未満の青少年を本当にそういった情報から完全に遮断したいのであれば、その種のサイトに接すること自体を禁止すべきであり、「健全」サイトならアクセスできる、といった構造は、健全サイトなら安心、安全といった、間違った幻想を人々に抱かせかねず、危険なことだと思います。

 落合先生の論理でいくと、「健全サイトなら安心、安全といった、間違った幻想を人々に抱かせ」ないためには、違法な情報や有害な情報を完全に事前排除できない限り、違法な情報や有害な情報を極力排除して利用者の安全性を高めたとしても、そのことを利用者に伝えるべきではなく、違法な情報や有害な情報を野放図に放置しているサービスと同じように取り扱われるべきだということになりそうです。そうなると、落合先生が仰るとおり「その種のサイトに接すること自体を禁止す」るか、または、いずこのサイトも違法な情報や有害な情報を野放図に放置するか、どちらかということになるのでしょう(折角コストをかけて極力違法な情報や有害な情報を排除したとしても、そのことを利用者に伝えることが許されないということになれば、それは費用倒れに終わりますから、結局、違法な情報や有害な情報は野放図に放置するのが合理的だということになります。)。

 落合先生の論理は、商品・サービスの安全性を適切に判断することが困難な需用者のために公的に又は私的に広く行われている「品質保証」というシステム自体を否定するものであって、需用者に過度の負担をかけることになるのではないかという気がします。実際、落合先生はこの問題で公権力や利権に群がる人々が主導権を握るべきではなく、親の指導監督機能が十分に発揮されることにより青少年保護が図られるべきであると仰るのですが、現実問題としていえば、コミュニティ系のサイトにおいて違法な情報や有害な情報は野放図に放置された上で、「子供が危険な目に遭わないようにしたければ親がきちんと指導監督しなさい」と言われたって、親としてはいかんともしがたいように思われてなりません。

 安全性に関する規制って、どうしたって蓋然性の程度の問題に帰着せざるを得ないのであって、そこに「100か0か」的な論理を持ち出されると、現実にはうまく機能しないように思われます。そして、ネット産業も、大分定着し成熟してきたのですから、そのサービスが引き起こす害悪をどのみち完全には除去できないのであるから全くそれを除去しないという子供じみた開き直りからそろそろ卒業する時期に来ているのではないかと思います。

 【追記】

 落合先生が下記のような追記をされています。

上記のようなスキームが、「健全」認定する認定者による、一種の「品質保証」であるならば、そういった保証を信じたが裏切られた、被害を受けたという人が出た場合、相応の「補償」も行います、というものでなければ、単なる気休めであり、それだけでなく、その欺瞞性は際立つと言っても過言ではないでしょう。

 落合先生は、ずいぶんとアバンギャルドですね。事実上、民間の企業や団体による安全性認証を否定する論理ですから。落合先生は、その姿勢を、CGMサービスにおける違法・有害情報関係以外の分野でも貫くのでしょうか。

 でも、それって、利用者を危険にさらすことで一儲けを企む悪質な事業者の利益にしかならないですね。違法・有害情報関係でも、これを野放しにすることで、「ここにいけば、本人・親共々リタラシーの低い女子小中学生をがんがん引っかけることができる」との評価を口コミで広めてそのような欲望をもった児童性愛嗜好の利用者からの多大なアクセス数で一儲けを企むサイトの経営者などは、違法・有害情報を野放しにしているサイトときちんと対策しているサイトとを、リタラシーの低い親でもチェックでき、リタラシーの低い親でもそういうサイトへの子供のアクセスを機械的に遮断できるシステムが、「そういった保証を信じたが裏切られた、被害を受けたという人が出た場合、相応の「補償」」を行わせるとすることにより実施され得なくなれば、密かにほくそ笑むことでしょう。

« janvier 2009 | Accueil | mars 2009 »

octobre 2017
dim. lun. mar. mer. jeu. ven. sam.
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31