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avril 2009

30/04/2009

「小宇宙化」するブログ

 矢部教授が,そのブログのコメント欄で次のように述べています

 感想くらいは聞いてみたいので質問しますが、ブログ主の方針に反するコメント(事実上ほとんどのコメント)を掲載しないブログとあなたのようなコメントも事前承認なしで掲載しているブログと、どっちが「小宇宙」だと思いますか、加藤さん?

 一般に,コメント欄を全く解放していないブログより,自分への賛同意見のみを掲載するブログの方が「小宇宙化」するし,それよりは多少ましであるにせよ,異論が投稿されたときに常連コメンテーターが一斉に異論を排除しにかかるブログはやはり「小宇宙化」します。世間の常識から乖離した思想ないし見解って,賛同者が集まって見えるようになったときに,より強固に固まっていく傾向があります。そして,ある一線を越えると,「自分たちは,世間一般で行われているのよりも高度な議論を行っているのであり,世間一般は自分たちよりも何周も遅れているのだ」などという妙な選民思想を抱くようになります。こうなってくると,だんだん「カルト」的な性質を帯びてくることになります。

 他人のブログのコメント欄に「常駐」して,特定の仮想敵を作ってその仮想敵を攻撃し,その関係でブログ主等を持ち上げることで,そのブログの「小宇宙化」を推し進めようという人も稀に現れたりするので,コメント欄付きのブログを開設する人は注意が必要です。

29/04/2009

socialism for the rich and neo-liberalism for the poor

 一時期,OECDの見解を盾にとって日本に雇用規制の緩和を迫った経済評論家がいたようですが,France24に掲載されたOECDの見解は重視していただけないようです。

When people see a trillion dollars being spent to try to bail out the banking system, and then when people are losing their jobs and the government says, well, they can't intervene -- that's socialism for the rich and neo-liberalism for the poor -- and we must not go down that road.

 我が国でも,貧しい人のための救済に公的資金を用いることを提言する人については社会主義だの極左だのと罵る割に,銀行の国有化についてはあっさり賛同してしまう方もわずかながらいるようですが,そんなところまで落ちぶれてはいけない,というのがむしろ「国際的なコンセンサス」なのでしょう。


【追記】

 濱口桂一郎先生からご指摘いただきましたとおり,上記引用文の話者は「Evans」さんですね。引用文の前の段落に「said Evans」とあるのを見落としていたため,引用文直前の「He added」の「He」を「The OECD」と勘違いしていました(そういえば,英語の場合,The OECDの人称代名詞はitですね。)。




「学者」と「評論家」の線引きをどこに置くのかについては議論があるようです。本人が「学者」と名乗れば「学者」なのだという考え方もあるのかもしれませんが,それでは身の程知らずな方がこぞって「学者」になってしまいそうで,具体的妥当性を欠くように思われます。大学に籍を置いていれば「学者」かというと,最近は,客寄せパンダよろしく,少し名が通った人を「客員教授」等に迎える運用が広くなされているようですので,それもどうかなあという感じがします。大学や大学院等で客員教授等のポストを与えられていても,一般向けの解説や提言を行うのが活動のメインであって,研究者向けに高度な内容の論文を書いたりすることが少ない方は,学者というより評論家といった方が実態に合っているように思います。

28/04/2009

学者として恥ずかしいレッテル貼りがどっち?

 池田信夫さんが次のように述べています。

山口氏は一応、政治学者だろう。小泉元首相が「私は新自由主義者です」といったことは一度もないのに、こういうレッテルを一方的に貼って「小泉・竹中の新自由主義が格差を生んだ」などと何の根拠もなく攻撃するのは、学者として恥ずかしくないか。

 一般に,本人が「私は○○主義者です」と一度は言ったことがなければ,その人を「○○主義者」にカテゴライズしてはいけないというルールはないので,それは学者としても恥ずかしいことではないように思われます。といいますか,「○○主義」という思想のカテゴライズは,多くの場合,本人が行うものではなく,第三者が行うものです。

 もちろん,一般に「○○主義」とカテゴライズされる考え方の範疇に属しない考え方を「○○主義」とカテゴライズしてしまうのは,学者としては致命的です。ただ,このようなミスカテゴライズは,むしろ,単に極端な新自由主義からは賛同できない経済政策を提唱しまたは賛同しただけで,ののしりないし侮蔑の意味を込めて,「社会主義」「共産主義」などとカテゴライズされる形で行われることが多いようです。なお,英語版wikipediaのneoliberalismの例として小泉政権があげられていますので,小泉元首相を「新自由主義」者にカテゴライズするのは,むしろ問題がなさそうです。

26/04/2009

モラルハザード

 池田信夫さんが,また独自の世界を突き進んでいます。

いいかえると、社会主義は一種のモラルハザードなのです。モラルハザードとは「行動のコストを負担しないで自己の利益を追求すること」です。たとえば派遣村に集まった浮浪者に役所が無差別に生活保護を与えることはマスコミに賞賛されるが、そのコストは税金だから広く分散されて見えない。このように個別の(事後的な)利益が見えやすく、全体の不利益が見えにくい構造は公共的意思決定にはありがちです。個別には大きくない無駄づかいが集積すると、経済全体が非効率になり、社会が崩壊してしまうのです。

アゴラの方で述べていますが,wikipediaの英語版を見ても,コストの話ではなく,リスクの話をしています。学生の皆様は,池田流のモラルハザードの定義はまねしない方がよいと思います。

 むしろ,モラルハザードというのは,例えば,妻の実家から莫大な遺産を受け継いだために仮に失業しても経済的に困らない人が,そのような遺産等の支えがない人であれば自らが長期的に失業することになった場合のことを考えて現在の失業者に対して失業給付や生活保護等の名目で給付することに賛成するであろう公的資金についても,その給付に反対するような場合をいうというべきでしょう。そういう意味では,「財産所有」という既得権益に守られている人々が,生活保護等のリスク分散プログラムの発動を否定してかかることこそモラルハザード的と言うべきであり,むしろ新自由主義者たちこそモラルハザードの固まりということができます。

25/04/2009

わいせつな意図はなくても全裸は危険

 小沢一郎氏の秘書については政治資金をアドホック的に拡張的に解釈して逮捕することは当然に許されるとする矢部善朗・創価大学法科大学院教授(元検事)が,深夜酒によって公園で全裸になって騒いでいた若者を警察が逮捕したことについて疑問だとしているようです。

 近隣住民の通報により駆けつけた警官において,「裸で何が悪い」と居直る若者を前にして,「悪くありません。どうぞ,全裸で解放された状態を,このままお楽しみ下さい。」と引き下がって交番に帰ると言うことは考えがたいです。また,六本木(住居表示上は「赤坂」かもしれませんが,あのあたりは文化的には「六本木」です。)において,深夜若者が奇声を発しているとなれば,警察としては,麻薬・覚醒剤等の使用を疑いますから,現行犯逮捕して身柄を確保した上で,尿検査等を行うというのも,手続法的には素直でないとは思いますが,まあ,やっておかねばという範疇のことでしょう。

 なお,特に女性に何かを見せつけるというのでなく全裸になった人がとりあえず現行犯逮捕されるというのは別に珍しいことではありません(前科・前歴がなければ通常起訴猶予なのでので,特に判例という形では残りませんが。)。

 報道されているだけでも,

  1.  「服がなかった」のでコンビニへ全裸で買い物
  2.  「彼女とけんかして」全裸でバイクを運転
  3.  「トイレに行くために」全裸で車から路上へ
  4.  「『蘇民祭』を思うあまりの郷土愛によって」商店街を全裸でテレサ・テンの名曲『つぐない』を歌いながら練り歩く
  5.  「ジョギングをしていたら気持ちいいので」全裸でジョギング

などの事例があり,そのような逮捕は不当だとの声は上がっていないようです。

【追記】

矢部教授は,こちらのエントリーで,本文で

草なぎ君のほうに恥ずかしい思いをさせようという気持ちがなければ、公然わいせつ罪の犯情としてはかなり軽くなるのかな、と思います。(追記 公然わいせつ罪の成立そのものを争う余地もあると思います。)
警察の恣意的な逮捕によって、一人の人気タレントのタレント生命を奪ったかも知れない可能性もでてきます。

と述べた後,そのコメント欄で,

 本文で判例にいう「わいせつ」の意義を書いていますが、今回裸になった行為が「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、」という性格を持つものであったかどうかかなり問題だと思っています。
 彼の今後の供述にもよりますが、仮に彼が公然わいせつ罪で起訴された場合において私が弁護を依頼されたら、引き受けて無罪を主張することになるだろうと予想しています。

と述べておられるようです。

【追記】

 最近は、強制わいせつ罪だけではなく、公然わいせつ罪まで傾向犯にしてしまうのが流行なのでしょうか?(最近、刑法各論の本を読んでいないので、今の流行を存じ上げないのですが。)。また、公園において全裸でいる青年が、警察に対して「裸で何が悪い」と開き直って見せたときに、公然わいせつ罪で現行犯逮捕する必要性が認められないと一般に解されているほど、現行犯逮捕の必要性が厳格に解釈されるようになったのでしょうか。尤も、某小宇宙で語られることをまともに相手にしても仕方ないのですが。

現代の日本社会に対する事実無根の中傷

 池田信夫さんは,現代の日本社会に対する事実無根の中傷をいつまで続ける気なのでしょうか。

 池田さんは,そのエントリーにおいて,

この意味で今の日本が不幸なのは、富が失われていることより希望が失われていることだろう。終戦直後の日本では、若者は焼け跡に設計図を描いて新しい事業を興すことができたが、今では都市はコンクリートの建物で固められ、職場はノンワーキング・リッチに占拠されている。仕事がいやになっても、転職すると生涯収入は5000万円以上減る。起業してもうかると、東京地検特捜部がやってくる。政府はバラマキと企業救済で、社会主義に舵を切った。それが偽りの希望だったことは、歴史が証明しているにもかかわらず。

と述べています。

 しかし,都市がコンクリートの建物で固められていることは,若者が新しい事業を興す上で何らの障害とはなりません。物理的な意味で「焼け跡」が残っている必要は何もないのです。

 また,職場が「ノンワーキング・リッチに占拠されている」との事実もありません。実働部隊を排除していたら,企業は倒産します。実際,高卒,大卒とも,近年は就職内定率は悪くありません。すなわち,職場は,若者をそれなりに迎え入れているということです。また,過労死における中高年者の割合は依然高く,多くの中高年が「ノン・ワーキング」どころか「オーバー・ワーキング」であるというべきでしょう。

 「転職すると生涯収入は5000万円以上減る」かどうかは,転職の仕方次第です。まあ,NHKをやめればその程度は減るかもしれませんが,それはNHKの給与水準が特別に高かったからです(でも,NHK時代に培った実力や知名度を生かして,そのときの職種を維持したままフリーになったり,民放に転職したりすれば,却って生涯収入が増加する可能性だって十分にあります。)。なお,一部上場企業でも,最近は,正社員を中途採用しているところも珍しくなく,生涯収入を大きく引き下げない転職は十分に存在します。

 また,起業して成功した経営者の大部分は,東京地検特捜部の訪問を受けることがありません。

 また,社会主義とは,一般に,「生産手段の社会的所有を土台とする社会体制,およびその実現を目指す思想」(広辞苑)をいいますが,「バラマキ」も「企業救済」も,「生産手段の社会的所有」とは直接の関係がありません。なお,冷戦,干渉戦争又は内戦並びにその脅威がなく,過大な軍事費負担と猜疑心から解放された社会主義体制がどのような結末をもたらすのかについては,歴史が証明しているというほどの実践例がありません。

 なお,労働者は常に失業者との価格競争を強いられるため生存に必要な最小限度の賃金しか得られない(だから,いつまでたっても起業のための資金が貯まらない),金貸しから高利のお金を借りたらその収入のほとんどを利払いにあてるだけの生活が一生継続する,そんな社会って,そんなに希望があふれていますか?

23/04/2009

王道を歩めない人にかける言葉

 ある人が、自分の特性を見誤っているが故に、その人が優位性をもたない分野に固執し、ダウングレードする一方の人生を歩んでいるとします。そのときに、「○○なんて特性がなくったって良いではないか」みたいな綺麗事をいうことは簡単なのですが、一方でそれって非常に残酷なのではないかという気がします。いくら気休めを言ってみたところで、その分野でやっていこうとしている限り、そこで成功する資質に乏しい以上は、そこで成功する確率は決して高まらないのですから。

 特に、資質の不足を自ら薄々感じてか、抜け道ないし楽な道をたどって特定の地位に就こうとしている人に対しては、「王道を歩んでそこに到達できないのならば、あなたはそれに向いていないのだから、別の分野での成功を目指しなさい」ということをはっきりと誰かが言ってあげるべきなのではないかと思ってしまいます。

 法科大学院制度の見直し論が最近盛んになりつつあります。法科大学院制度自体が、むしろ実務法曹に至る道を「邪道」一本に絞ってしまった感が私にはあるのですが、それはともかく、新司法試験の合格者数を増やせと言ってきた法科大学院の先生方は、現在の合格者数ですら3回受けても合格できないほど事務処理能力に乏しい人たちが、それでも実務法曹としての資質を有していると、それでも実務法曹として成功する可能性が低くはないと本気でお考えなのか、私は常々疑問に思っていたりします。

20/04/2009

若者は結構前向きに生きている。

 若者に対する感覚は、日頃若者に接しているか、接しているとしてどのような若者に接しているかによって、かなり違ってくるような気はします。

 私のゼミ生などを見ていると、むしろ、非常に前向きで、未来に希望を持ち、その希望に向かって進んでいるなあという感慨を受けます。もちろん、私がゼミをもっている中央大学法学部は、企業等からも高い評価を受けていますので、戦略と活動を間違えなければ、それなり以上の規模と将来性を有する企業から正社員として内定をもらえるわけで(その種の企業では、高齢の正社員が多すぎて新卒を正社員として雇えないということはありませんし、永続的に存続することを予定している企業においては。中高年正社員と新卒正社員とは相互排除的なものと捉えられていませんし。)、将来を悲観する必要がないといってしまえばそれまでなのですが。

 とはいえ、資本家や特権階層の子供に生まれなくとも、本人にそれなりの才覚があってそれなりに努力すれば、安定的に雇用される職に就くことができ、それなりに物質的な豊かさをもった家庭生活を築くことが期待できるということのもたらすモチベーションというのは無視できないのであって、ある種の「手の見えない神真理教」信者たちが理想とするような、資本家や特権階層の子供に生まれなければ、本人にそれなりの才覚があってそれなりに努力しようとも、いつでも自由に解雇され、常に現在の失業者との価格競争を強いられる社会にこの社会を変えてしまえば、むしろ若い世代のモチベーションを損なうことは必定といえましょう。

 なお、彼ら自身がそのプロフィールを正しく表示しないので想像でしか言えないのですが、2ちゃんねる等の匿名掲示板や、「小宇宙」系のブログのコメント欄で、「似たもの同士で集まり、異質なものを「村八分」で排除することに快楽を見出」している人たちは、概ねさして若くないのではないかと思うのですが、如何でしょう。

18/04/2009

池田さんにとっての「中傷」の判断基準は?

 池田信夫さんは,既存の用語を定義抜きで従前と異なる意味で用いることがしばしばあるので(例:transfer in kind等),「事実無根」とか「中傷」という言葉の意味も,きっと私たちのそれとは異なるのだろうという感じはします。そこで,過去の池田さんの発言から,池田さんにとってどのようなものが中傷で,どのようなものが中傷ではないのかを見ていくことにしましょう。

 このエントリーのコメント欄で,池田さんは,

リチャード・クーは、博士号も取れなかった落第生という究極の低学歴。それこそG7などで笑いものになるでしょう。

と述べています。

 Wikipediaでリチャード・クーさんの経歴を見てみると,「ジョンズ・ホプキンス大学大学院にて経済学博士課程修了」とあります。博士課程を修了しているようですから「落第生」ではないように思えるのですが,池田さんは特別な情報をお持ちなのでしょうか。博士号をとっていない,との点について言えば,博士課程を修了しても博士号を取りに行かない人は(少なくとも法学系には)たくさんいますので,「博士論文を書き上げて博士号を取りに行ったが,審査をパスしなかった」という意味での落第生であったかどうかは公開情報ではわかりません。そんなクーさんに客員教授の話を持ちかけたのは早稲田大学。私は法学系なので,経済系では早稲田大学と上武大学の序列がどうなっているのか,定かにはわからないのですが。

 いずれにせよ,そんなクーさんを「究極の低学歴。それこそG7などで笑いものになるでしょう。」と表現することは,池田さんの基準では「中傷」にあたらないのでしょう。

 こちらのエントリーではクーさんのことをさらに次のように表現しています。

カエルの面に小便という言葉があるが、あらゆる経済学者から小便や大便をかけられても、同じようなバラマキ政策を主張するリチャード・クー氏の脳は、両生類以下なのだろうか。

 さらにそのコメント欄で,池田さんは,

10年以上すべての経済学者に批判されているのに、マクロ経済学の教科書も読まないで「IS-LM教」とか罵倒し、無論理な「実感論」ばかり繰り返しているのは、脳に欠陥があるとしか考えられない。

大学で落第した恨みでもあるんですかね。

 2008年8月25日の段階で「今のようなインフレ状態で」との認識を表明されている池田さんがクーさんを評価していないのはわからなくはないのですが,世の中には池田さんやその同調者以外にも経済学者はいるので「10年以上すべての経済学者に批判されている」というのはおよそ言いすぎではないかという気がしますし,「ジョンズ・ホプキンス大学大学院にて経済学博士課程修了」したクーさんが「マクロ経済学の教科書も読まな」かったとは信じがたいところです。また,クーさんの「脳は、両生類以下」であるとか「脳に欠陥がある」との点については,これを信じるに足りる根拠は提示されていないように思われてなりません。

 いずれにしても,この程度の表現にとどまるのであれば,池田さんの基準では「中傷」にあたらないということなのでしょう。

 また,池田さんはこちらのエントリーで,

以前の記事で話題になったhamachanこと濱口桂一郎氏が、いろんな人に「天下り学者」「低学歴」などとバカにされたのを根にもって、ブログで私に繰り返し当り散らしているようだ。
と述べています。

 ところが,私は寡聞にして,池田さん以外の方が濱口先生のことを「天下り学者」「低学歴」などとバカにしているのを目にしたり耳にしたことがありません(池田ブログのコメント欄ではあったかもしれませんが)。

 我が国の一般的な基準では東大法学部卒というのは「低学歴」と馬鹿にされるような学歴ではありませんから,濱口先生をそのような理由で馬鹿にされる方はほとんどおられないように思います。

 さらに池田さんはコメント欄で,

ただ私の友人に、通産省の面接に遅刻して労働省に行ったのがいました。法学部から労働省に行くというのは、民間から内定の取れなかった学生ぐらいでしょう。まぁ彼の文章を読むと、さもありなんですね。

と述べているのですが,これって東大法学部から労働省に進んだ方全体を攻撃しているわけですね。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科での学術博士(政策・メディア)の学位を持つに過ぎない人を「経済学については学士しか学位がない」ということが慶應義塾大学全体を貶めるものと認識される蓋然性よりは,この事実摘示が東大法学部から労働省に進んだ方全体を貶めるものと認識される蓋然性の方が高いように,名誉毀損訴訟の実務経験が豊富な私には感じられるのですが,池田さんの基準は異なるのでしょう。

 さらに,このエントリーのコメント欄で,池田さんは,

だから最近は、官僚もけっこう高学歴化してきて、このhamachanなんか、自分でもいってるように「低学歴」だけど「裏口入学」でもぐりこんだ口でしょう。

と述べています。

 しかし,政策研究大学院大学は,現役の官僚,地方公務員を多く学生に抱える特殊な教育機関であり,その性質上,官僚OBを大量に抱え込んでいるわけで,濱口先生のようなキャリアの人を教員として採用するのは,まさにその経営戦略に合致しているのであり,そこに「裏口」という言葉で示されるやましさというのはいささかも感じられないのですが,池田さんは何か裏事情を具体的にご存じなのでしょうか。

 いずれにしても,この程度の表現にとどまるのであれば,池田さんの基準では「中傷」にあたらないということなのでしょう。

 また,池田さんは,わざわざ「クルーグマンの素人談義」というタイトルのエントリーをアップロードされています。

 ここでは,

ミルトン・フリードマンと一緒に記念碑的な大著『アメリカの金融史1887-1960』を書いたアンナ・シュワルツが、ポール・クルーグマンのフリードマン批判に、長文の怒りの反論を書いている。

との記載があり,その反論を「おばあちゃん風の口調で訳」したものとして,池田さんは,

ポールの話は、こういう論理的な矛盾と初歩的な誤解だらけで、訳がわかんないわ。彼は金融の専門家じゃないんだから、素人はよけいな口出しするんじゃないの。
と記載しています。

 上記エントリー中の「怒りの反論」という部分からこのページにリンクが貼られており,そこからは,Edward NelsonさんとAnna J. Schwartzさんによる「The Impact of Milton Friedman on Modern Monetary Economics: Setting the Record Straight on Paul Krugman’s 'Who Was Milton Friedman?」という論文の原文をダウンロードすることができます。

 上記の池田さん訳の最後の文章に相当する原文は,

Paul Krugman is a respected trade theorist. But he does not speak authoritatively on subjects on which he has no expertise. Monetary economics is not his field of expertise.
Krugman’s research background does not qualify him as an authority on Milton Friedman’s work. Krugman’s scholarly publications rarely mentioned Friedman and, when they did, they acknowledged the contributions of Friedman and monetarism in a way that contradicts his (2007a) essay on Friedman. Friedman’s reputation is intact despite Krugman’s deplorable efforts to denigrate him and his contributions.

ではないかと思うのですが,この文章を上記のように「超訳」されていることを知ったら,アンナ・シュワルツさんは悲しむのではないかと思ってしまいます。

 クルーグマンさんに対しては,こちらのエントリーで,

今となってはナンセンスなことが明らかな理論で、その昔ロボトミーに授賞されたようなものだろう。

要するに、その時その時で理屈を変えて世の中に媚びてきたわけで、昨年のHurwiczとは逆の、経済学者の卑しい部分を代表する人物だ。

と述べています。

 これこれをみると,クルーグマンさんが一貫性を欠くという池田さんの見立てはマイナーなのではないかという気はしますが,それはそれとして,「経済学者の卑しい部分を代表する」という言い方は,池田さんの基準では「中傷」ではないのでしょう。

 結論としては,このように何をもって「中傷」とするかについてのハードルが極めて高い池田信夫さんにとって,慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科において取得した学術博士(政策・メディア)という学位を「メディア学」と表現されることは,その発言者ついて懲戒申立を行うことを辞さないほどの許せないものと受け取られているということです。そのこと自体,慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科のなかで,「政策」の面に着目して研究をしている人たちは,「メディア」の面に着目して研究している人たちをそこまでひどい目で見ているのかと,驚きを新たにさせるものです(そんな内部のつばぜり合いなんて,外部の者が知るものですかって気はしますが。)。

17/04/2009

Stephen MASON弁護士来日

 町村先生のブログにもあるとおり、今日は、東京工業大学の大岡山キャンパスでのStephen MASON弁護士の講演を聞きに行きました。私にとって、東工大の「お初」ということになります。

 全編英語で同時通訳なしとはいえ、ロサンゼルスでの先日のシンポジウムとは異なり、あくまで日本人を相手とする前提でいたためか、日本人にもわかりやすく話して下さったので、助かりました。

 もっとも、電子証拠法の話になると、日本では、民事訴訟に関していうと、証拠能力が非常に緩やかだし、機械式コピーが普及してからは「原本が提出されない」ことによる証明力の低下は特段の事情がない限り無視できるほどだし、ディスカバリー制度はないし、ということであまり争点化する要素がないのだなあとは思いました。一度、ウェブページを印刷したものとして提出された相手方の書証において、フッタとしてプリントされているURL表示が「file:///」以下で始まっていたとき(知財訴訟だったのですが)は、元のサイトのURLを特定するように要求したことはありますが、日本の民事訴訟の現状って未だその程度ということなのでしょう。

事実摘示により他人の社会的評価を低下させるとは

 このブログエントリーによると、このブログ主は、

クルーグマンさんという人は、経済学者の池田信夫さんのブログによると支離滅裂な発言でも有名な人らしい。だから日本のメディアが過剰反応すべきではないと。朝日新聞はクルーグマンさんを信奉しているようです(笑)

と認識されているようです。

 普通に考えれば、「支離滅裂な発言でも有名な人」がノーベル経済学賞を取るわけもないのですが、とにかく池田さんのせいで、クルーグマンさんは、「支離滅裂な発言でも有名な人」というありがたくない評価を獲得してしまっているようです。

「事実無根」だってさ!

 博士論文が経済に関する話題を含むものであり,かつ,主査,副査が経済学者であったとしても,博士号のタイトルが「学術博士(政策・メディア)」である場合に,これを「経済学に関する学位」にあたらないとするのは,「何をもって『経済学に関する学位』とするのか」という解釈の問題ではあっても,「事実無根」ではありません。また,上記のような学位をもっているに過ぎない人を「経済学に関しては修士以上の学位を有しない人」と表現することは,一般的な基準では,「中傷」にはあたりません。同じ慶應義塾大学でも,経済学研究科の博士課程を出て「経済学博士」の学位を得た人を「経済学に関しては修士以上の学位を有しない」と表現すれば,それは「事実無根」になるのですが。

 その意味では,件のブログのタイトル自体が私に対する名誉毀損だなあと思ったりします。もともと既存の言葉を独自の定義で使うことがしばしばある方ですから,私たちとは異なる意味で,「事実無根」とか「中傷」とかという言葉を使っているのかもしれませんが。

 件の博士論文が「経済学に関する論文」とみた場合にどのような水準にあるのかについても,私は特段言及していません。そもそも読んでいませんから。この種の論文の水準については,その論文が,或いはその執筆者が,同領域の研究者からどのように扱われてきたのかを見るのがとりあえず簡便です。経済学の分野では,「優れた論文を書いても,学会の「ボス」に嫌われると,ろくなアカデミックポストに就けない」という悪弊が未だ残っているのならば別ですが。もちろん,基本的な用語についての理解が特殊な方を学部に配置するのは勇気がいるかなあと一般論としては思ったりしますが(それも,実学思考の法学系出身者の感覚である可能性は排除しません。)。

16/04/2009

「学術博士(政策・メディア)」という学位が経済学に関する学位でないと摘示されても、誰の名誉も毀損されていない

 池田信夫さんって、ブレーキがきかないのですね。弁護士にまずご相談されたら如何ですか、と申し上げたのですが。

これらの記述は事実誤認である。第一に、私の学位は「メディア学」ではない。慶應義塾大学大学院の政策・メディア研究科から授与された学位は、学術博士(政策・メディア)である。この研究科には「総合政策」と「メディア」の二つの専攻があり、私の所属していたのは総合政策学(経済学・政治学など)である。

とのことですが、慶應義塾大学大学院の政策・メディア研究科のウェブサイトを見る限り、そのような説明はなされていません。

 次に、

第二に、私が「経済学に関して学士しか取得していない」というのも事実誤認である。私の博士論文は、総合政策学部の岡部光明教授(経済学)を主査とし、スタンフォード大学経済学部の青木昌彦名誉教授らを副査として審査され、その内容も経済学に関する研究である。一部は学会誌に掲載され、論文全体は『情報技術と組織のアーキテクチャ』としてNTT出版から公刊された。

との点ですが、博士論文の内容が経済学にも関するものであって、かつ主査及び副査が経済学者であったとしても、学術博士(政策・メディア)という学位が経済学に関するものとはなりません。なお、慶應義塾大学大学院の政策・メディア研究科の「後期博士学位取得のプロセス」に関するpdf文書は、こちらからダウンロードできます。)。

 さらに、

研究者にとって学位はもっとも重要な資格であり、それを取得するために5年近い歳月をかけるものである。それを「素人」呼ばわりすることは、私だけでなく博士論文を審査した経済学者および慶應義塾大学の名誉を毀損し、私の業務を妨害する行為である。

との点ですが、問題とされているエントリーのどこを見ても、池田さんが取得した「学術博士(政策・メディア)」という学位の価値をいささかも貶めた記述はしていません。池田さんに学術博士(政策・メディア)という学位を付与した慶應義塾大学も、その博士論文を査定した青木教授、岡部教授も、池田さんの学位が経済学に関するものではないという事実の摘示によって、いささかもその社会的評価の低下を来たしません。さらにいえば、池田さんの学位が、「学術博士(政策・メディア)」であることは客観的な事実ですから、これを摘示しても池田さんの業務を妨害することにはなりようがありません(大学の教員ポストに就く際に大学側に提出する履歴書には、『学術博士(政策・メディア)』と記載するより他なく、『博士(経済学)』と記載するわけにはいかないのですから。)。

 なお、「中傷」というのは、東大法学部卒の元キャリア官僚である濱口先生を「低学歴」と罵ったり、野村総合研究所研究創発センター主席研究員であるリチャード・クー氏を「地底人」呼ばわりするようなことをいうのではないかと思ったりします。

 最後に、池田さんは、私のブログの記事の一部を、

池田さんの場合,修士,博士等の学位を取られたメディア学ではなく,経済学の分野で生きていこうとしているような気がして,少々心配になります。[・・・]経済学に関して学士しか取得していない段階では,経済学の研究者としては「学位が十分ではない」といわれても,きっと怒らないことでしょう。

と引用されているのですが、「池田さんの場合」で始まり、「きっと怒らないことでしょう。」で終わる一連のブロックは、正しくは、

ただ,池田さんの場合,修士,博士等の学位を取られたメディア学ではなく,経済学の分野で生きていこうとしているような気がして,少々心配になります。経済学の分野では,東大経済学部を卒業されたというだけで,修士号すら得ていないわけですし,修士号取得に相当する実務経験もないわけですから,プリンストン大学教授であり,ノーベル経済学受賞者であるクルーグマン教授と互していくには,学位が不足しています(東大法学部卒で労働省OBの濱口圭一郎さんを「低学歴」といって憚らない池田さんのことですから,経済学に関して学士しか取得していない段階では,経済学の研究者としては「学位が十分ではない」といわれても,きっと怒らないことでしょう。)。

というものだったりします。池田さんが省略した部分があると否とでは、全然印象が異なるのではないかという気がしてなりません。

いわゆる北野誠問題について

 いわゆる北野誠問題についていえば、少なくとも当日の発言内容のうち誰に関する発言が不適切であったのかをリスナー向けに説明するというのは、リスナーに対する最低限の責任なのではないかという気がします。

 それすら怠ることによって、却って様々な憶測を呼ぶことになっており、(本当は圧力をかけていないのに)圧力をかけた旨憶測されている企業や団体等に迷惑をかける事態にもなっていますし。

 それにしても、何でもかんでもネットにアップロードされる時代に、問題となった日の放送で誰に関するどのようなテーマが北野さんによって語られたのかについての確かなことが未だによく分からないというのも不思議な感じがします。当日の放送内容がそのままYouTube等にアップロードされても不思議ではないのに(というか、アップロードされていないのが不思議なくらいなのに。)。

メディア学も立派な学問

 池田信夫さんがまたクルーグマン教授を批判されているようです。

 Blogのよさは,このような素人談義が許されるところにあるわけで,それはそれでほほえましい光景です(私のブログも,こちらはあくまで「causette」という位置づけです。)。

 ただ,池田さんの場合,修士,博士等の学位を取られたメディア学ではなく,経済学の分野で生きていこうとしているような気がして,少々心配になります。経済学の分野では,東大経済学部を卒業されたというだけで,修士号すら得ていないわけですし,修士号取得に相当する実務経験もないわけですから,プリンストン大学教授であり,ノーベル経済学受賞者であるクルーグマン教授と互していくには,学位が不足しています(東大法学部卒で労働省OBの濱口圭一郎さんを「低学歴」といって憚らない池田さんのことですから,経済学に関して学士しか取得していない段階では,経済学の研究者としては「学位が十分ではない」といわれても,きっと怒らないことでしょう。)。大学などの研究機関だって,経済学で修士,博士の学位を取得し,さらに海外の一流大学で学位を取った若手研究者がたくさんいる以上,経済学の分野なら,それらの方々の中から新規教員を採用しようと思うのが自然なわけですし。もちろん,これから経済学系の大学院に入り直して修士号をとるという選択も可能なのですが,元NHK職員というキャリアを考えると,その強みを生かせる「メディア学」を捨てて経済学で生きていくというのももったいないことです。

 池田さんも,B-CAS論議とか,メディア学の分野では傾聴するに値することを仰っているのですから,もう少しメディア学の方に重点の置き方を戻していただきたいものです。地上波アナログの放送停止予定日を目前に控えて,メディア学者がやるべきことはまだまだたくさん残っているのですから。

14/04/2009

独自の小宇宙を作り,その中心に君臨することで,満足する人々

 こちらのブログのコメント欄は,現実社会におけるどこの誰であるのかを私が確認できる人物からのコメントしか掲載しないこととしています(確認できる人物からのコメントでも,単に嘲笑する意味しかないものは載せないことがありますが,それってほぼ特定の人からのものに限られますので,体制に影響はありません。)。それは,匿名のくせに自分のハンドルを冒用するコメントを消せ,どれが冒用コメントかはお前の方で特定せよと言う,半ば私に時間だけを使わせようとする方がいて,うんざりしたからです。

 そんなことで掲載できるコメントの数は激減したわけですが,その副次的な効果としては,お追随コメントに囲まれて独自の小宇宙を形成してしまうことを回避できているようです。現在,私に対する人格攻撃を行っている,ブログ主の実名が知られているブログが2つほどあるのですが,そのいずれも,お追随コメントに囲まれて独自の小宇宙を作り上げてしまっているようです。

 独自の小宇宙を作り上げているブログの特徴としては,その世界の価値観と相容れない投稿がなされると常連コメンテーターらにより一斉攻撃を受けたり,一般社会ではそれなりに受け入れられている考え方を開陳する人についてブログ主や常連コメンテーターにより不可解なほどの人格攻撃が行われるというものがあります。

 独自の小宇宙の中心に君臨する生き方というのもありかもしれませんが,私は,そこまではしたくないなあ,と考えてしまいます。

「予算」という要因により「トレードオフ」が生ずる場合に関していえば,単純な「二者択一」問題となることは稀

池田信夫さんは,ご自身のブログのコメント欄で,次のようなことを述べています。

某弁護士は、こう書いています:

<普通に考えれば,日本を含む全ての国において,国家予算が地球温暖化対策と貧困対策にのみ割かれているということはないのですから,他の用途に割かれている予算を削減することによって,地球温暖化対策と貧困対策の双方により多くの予算を割くことは可能です。また,必要とあらば,法人税や相続税等を増税することにより国家予算の枠自体を拡大した上で,地球温暖化対策と貧困対策の双方により多くの予算を割くことも可能です。>

こういう論理って、どこかで見たことありません?

そう、共産党がよくいう「軍事費を削減して無駄づかいを減らせば、福祉予算は倍増できる」という類の話です。自分たちが必要だと思う予算以外は、すべて定義によって「無駄」なので、いくらでも削減でき、国家予算は無限にあるわけです。これがトレードオフを知らない思考様式の典型です。

 池田式「トレードオフ」を知っている方の思考様式ではどのように考えるのかわかりませんが,一般には,優先的に対処すべき政策課題が現れた場合,これに対処するために必要な予算を確保するためには,増税等の方法により予算の枠を増やすか,より優先度が低いと考えられる政策課題に割り当てる予算を削減するのが通常です。特定の政策課題(例えば「温暖化対策」)に必要な予算の捻出は,それと一対一で対応すると池田信夫さんが指定する特定の政策課題(例えば,「貧困化対策」)に割り当てる予算を削減することにより行わなければならないというふうに硬直的に考えるべき理由などどこにもありません。「トレードオフ」という関係はいろいろな要因により発生するのですが,こと「予算」という要因により「トレードオフ」が生ずる場合に関していえば,単純な「二者択一」問題となることは稀です。

 このような思考は,他の政策課題に国家予算を用いることを「無駄」と考えなくとも可能です。優先度の高い政策課題「甲」が現れたことにより(或いは特定の政策課題「甲」の優先度が高まったために)他の政策課題「乙」の優先度が相対的に低下したが故に,全体の予算における「乙」処理のために割り当てる予算の比率を低下させるということは,政策課題「乙」を国家予算を用いて処理することを「無駄」と定義せずとも可能だからです。

 なお,池田さんには「トレードオフを知らない思考様式の典型だ」として批判されるかもしれませんが,私は,北朝鮮を含む少なくない国に関して,軍事費を削減して無駄遣いを減らして,国民福祉のために予算を増やした方がいいと思ったりします。

 また,

政府でも会社でも予算を扱ってみれば、いかに多くのトレードオフの中でぎりぎりの妥協が行なわれているかがわかるでしょう。自由に切れる「無駄」なんかないのです。

とのことですが,現在の国家予算には一切の「無駄」がないと池田さんがお考えとは思っても見ませんでした。まさか,地球温暖化対策と貧困対策の二つが嫌いすぎて,そんなものに国家予算が用いられるくらいなら,無駄な道路を造ったり,空港を作ったり,情報大航海プロジェクトに代表される政府主導の産業振興プロジェクトに国家予算を割いた方がましだと言っているわけではないと思いたいのですが。

13/04/2009

「先生と呼ぶな」というほど野暮でなし

 池田信夫さんの「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」とのエントリーには、沢山のはてなブックマークコメントがついています。

 その中では、高木浩光さんの

私も先生づけされるけどどうでもいいと思ってる。やめてと言い出す方が権力志向に見えてしまう。

というのが、私の実感にも近いです。

 どのような立場・属性の人間にどのような敬称を付するのかは、特段の事情がない限り慣習に従うのが普通であって、敬称を付けて呼ばれる側としては、慣習の範囲内で敬称が付けられている限りにおいては、そこに特段の意味を見出さないからです。皆さんだって、手紙の宛名や銀行で呼び出されるときに「様」という敬称が付けられたからって、そこに特段の意味を見出さないでしょう?慣行として「先生」という敬称が付くポジションにいる人が「先生」と呼ばれるときの感覚もにたようなものです。

 これに対し、慣行上「先生」という敬称が付くポジションにいる人があえて「先生」という敬称を使用しないように周囲に要求するのは、「そのポジションを有する者としてではなく、より私的な存在として自分と付き合って欲しい」という特別な意味合いを有している場合を除けば、その敬称が有する本来の意味を持つものとして「先生」という敬称を相手が自分に対して用いているのだと受け取っているという意味で、むしろ野暮ったく感じます。

 なお、日本語では、必ずしも自分との関係性ではなく、第三者との関係性を表す名詞で相手を呼びまたは相手の敬称とすることは一般的なので(例えば、子供が生まれると、その母親は、その子供からだけではなく、第三者からもしばしば「お母さん」と呼ばれるようになりますし、弟子をとっても不思議ではない程度にキャリアを積んだ芸人は、その弟子以外の者からも「師匠」と呼ばれ、また、「師匠」という敬称で呼ばれます。)、池田さんが東大で実践されていると主張する「根岸ルール」(東大関係者には知り合いが多いのですが、そのルールを実践されている方を見たことがありません。)は、日本語の慣習からは外れているように思います。

「高校生の……」

 某所で「高校生の」云々というタグ付けがなされる場合、せいぜい高校生レベルの知識・思考力の人にしか通用しない論理が展開されているような気がしてなりません。

 「究極の選択」っていうのはお遊びとしては面白いのかも知れないですが、択一を迫る「二者」の選定が恣意的にすぎると、単なる詭弁の様相を帯びてくることを、まっとうな大人は知っていて、その種の論理を振りかざして「大切なもの」を諦めさせようとする輩に誤魔化されない程度の知能は持ち合わせているものではないかなあ、って思ったりします。

地球温暖化対策と貧困対策と両方とも非常に大事だと答えて落第になる学校は滅多にない。

 池田信夫さんが次のように述べています。

あきれるのは「両方とも非常に大事」という答だ。彼らは、地球温暖化対策と貧困対策にトレードオフがないと主張している。つまり前者に1兆円かけても100兆円かけても、後者に配分できる費用は同じだというのだ。「遊興費を切り詰めて水と食料に当てる」というトレードオフにも気づいていない。こんな答案を書いたら、高校生でも落第だが、著者は東北大学・ハーバード大学などのれっきとした研究者である。もちろん彼らは経済学の専門家ではないが、地球温暖化対策は経済問題である。かりに彼らの科学的知見がすべて正しいとしても、地球温暖化対策の社会的便益が貧困対策より低ければ、後者より多くの予算を割り当てることは正当化できないのだ。

 普通に考えれば,日本を含む全ての国において,国家予算が地球温暖化対策と貧困対策にのみ割かれているということはないのですから,他の用途に割かれている予算を削減することによって,地球温暖化対策と貧困対策の双方により多くの予算を割くことは可能です。また,必要とあらば,法人税や相続税等を増税することにより国家予算の枠自体を拡大した上で,地球温暖化対策と貧困対策の双方により多くの予算を割くことも可能です。その意味では,理論上は,地球温暖化対策に100兆円をかけても,地球温暖化対策に1兆円しかかけなかったときと同じだけ,貧困対策に予算をかけることができます。

 実際には,地球温暖化対策が喫緊の課題でありその解決のために政府はより多くの予算をそこにつぎ込むべきだとする論者においても,そのために単年度で100兆円つぎ込めとは言っていないようです。従って,地球温暖化のために政府が今なすべきであると彼らが言うことをなすのに必要な予算を捻出することと,貧困対策こそが喫緊のその解決のために政府はより多くの予算をそこにつぎ込むべきだとする論者がそのために政府が今なすべきであると言うことをなすのに必要な予算を捻出することとは,同時に達成することが十分に可能です。従って,地球温暖化対策を政府が行ったら貧困対策はないがしろになってしまわざるを得ないという強い意味で両者がトレードオフの関係に立っているとはいえないというのが,大学生以上の知識レベルの人を対象とした場合には正解となるのではないかと思います。

 ということで,地球温暖化対策と貧困対策の「両方とも非常に大事」という答えにあきれてしまうという考えこそ,あきれられるに値するといえそうな気がします。

12/04/2009

The road paved with bad intentions leads to Hell

 池田信夫さんが次のように述べています。

消費者金融に限れば、このリスクは貸金業法が改正されれば減るでしょう。しかしこれによって日本の司法は事後的に温情的な判決を出して実質的に法を改正する(そして立法が後追いする)という評判ができると、他の問題にも影響が出ます(企業買収でもその兆候がある)。特に海外からの日本への投資は減るでしょう。世界の投資家に影響の大きいEconomist誌は、sarakinをめぐる混乱について冷笑的な記事を書き、上のような図を掲げました。その元編集長ビル・エモット氏は、この改正で喜ぶのは闇金融(gangsters)だろうと書いています:

 実際には,この改正で悲しむのは,大手消費者金融に投資して,大手消費者金融がかき集めてきた制限超過利息から巨額の配当を得てきた外資系金融機関であったのであり,むしろ「消費者金融に毎月の元利金を支払うために,闇金融に手を出す」という需要サイクルがこの改正により相当程度消滅した闇金融はむしろ悲しんだのではないかと思います。

 実際,「過払い金請求訴訟が一般化するようになってから,消費者金融からの融資を受けられなくなった一般市民がいきなり遊興や生活費のために闇金融から高利の融資を受けるようになったという事例が頻発するようになった」という報告は,いまのところ私のところには届いていません。むしろ,「表の」消費者金融から遊興費や生活費に用いるために融資を受けた消費者が,元利金を返済する必要に迫られて闇金融に手を出す前に,弁護士や司法書士に相談し,利息制限法に沿った再計算の上での債務整理やその延長としての過払金請求,あるいは自己破産や特定調停の申立等を行うようになったこともあって,闇金融に手を出す債務者は減少しているともいわれています。もちろん,司法部門も闇金融に関して手をこまねいているわけではなく,警察による取締まりを強化して闇金融を次々と検挙していくほか,闇金融による貸付けは不法原因給付にあたるので元本すら返還義務を負わないと最高裁が判示するなどして,民事的にも「採算が取れない」ものにしていこうとしています。

 もちろん,日本政府が高利貸し優遇政策に転じ,高利貸しに出資すると,高利貸しを経由して一般市民から搾り取ったお金を原資とした高配当が得られるということになれば,海外投資家は日本の高利貸しに投資を行おうとするかもしれません。しかし,それは,本来国内市場で消費されるべきお金が「利息」として高利貸しに集められて,その一部が「配当」として国外に流出するという結果をもたらすので,日本市場における「需要不足」に拍車をかけることになりそうです。

日本のサラ金規制は,アドホックでも,不透明でもない

 池田信夫さんが,いわゆる過払金返還請求訴訟について,次のように述べています。

日本のサラ金規制は、きわめてアドホックで不透明なかたちで行なわれてきました。その最たるものが「グレーゾーン金利」です。これについて2006年に最高裁が「みなし弁済」を認めない判決を出して実質的に上限金利を下げ、今年1月にその時効を大幅に延長する判決を出したため、過払い金の返還を求める訴訟が激増しています。

 いわゆるサラ金規制について普通に文献を読んでいればとてもではないけれども到達しない認識であるように私には思えてなりません。

 金銭消費貸借契約における利息の上限は,昭和29年に現行利息制限法制定以来基本的に変更されていません(元本が十万円未満の場合 年二割,元本が十万円以上百万円未満の場合 年一割八分元本が百万円以上の場合 年一割五分)。なお,それ以前の,明治10年制定の太政官布告としての利息制限法(いわゆる旧利息制限法)では,利息の上限は現行法よりも低かったりします。

 利息制限法においては,「金銭を目的とする消費貸借上の利息の契約は、その利息が左の利率により計算した金額をこえるときは、その超過部分につき無効とする」という規定になっています。したがって,上限利率を超える利息分については,借主は貸主に対して法律上の支払い義務を負いません。ここまでは,昭和29年制定の利息制限法の条文より疑問の余地なく導き出される結論です。

 もっとも,利息制限法があっても現実社会の高利貸しは利息制限法の上限を超える金利で融資を行いますし,多くの借主は,利息制限法の存在を知らなかったり,知っていたとしても高利貸しによる取り立ては厳しいので,利息制限法の上限を超える金利まで支払ってしまいます。この上限利率を超えた分というのは,利息制限法により無効とされた条項に基づいて支払われたものであり,法律上の原因なくして借主から貸主に金銭が移転したということになります。従って,この制限超過部分については,借主から貸主への不当利得返還請求権が発生します。ここもまた,昭和29年制定の利息制限法からほぼ一義的に導き出される結論です。

 制限超過部分について,これを残元本に充当することができるのか否かについては昭和30年代後半に判例の変遷はありましたが,昭和39年の最高裁判決で,制限超過部分を残元本に充当できる旨判示されて以来,この問題は実務上解決しています(そして,この結論は,相殺の効力が相殺適状時に遡って効力を生ずる現行民法下においては,素直なものであるということができます。)。制限超過部分が元本に充当されるということになると,当然,分割弁済期間の途中で元本が消滅し,それ以降は元本の支払い義務すらなくなってしまうことになります。しかし,現実には,借主はそのことを知らなかったり言い出せなかったりということで,しばしば元利金を支払い続けるということになりがちです。この,計算上元本が消滅した後に元利金として支払われた金銭については,法律上の原因なくして借主から貸主に移転したということになりますので,借主から貸主への不当利得返還請求権が発生します。これは,昭和30年代に制限超過部分を残元本に充当できるとする判例が確定した以上,当然の帰結であり,これが是とされることは,昭和40年代前半で判例として確立します。

 これに対し,昭和50年代後半にはいると,貸金業者によるロビー活動の結果,貸金業等規制法が制定され,所定の金利までであれば,借主が本当に任意にそれを支払った場合には,制限超過部分についても,これを有効な利息の支払いと見なし,不当利得返還請求権を発生させないこととすることに成功しました。ただし,制限超過部分は本来支払う法的義務がないのに借主が任意に超過部分まで支払おうとするというのは通常あることではないので,制限超過部分を借主が任意に支払ったものとして取り扱うためには,所定の方法での情報開示を含めた厳格な手続が履践されることが要求されました。

 池田さんが敵視する平成18年の最高裁判決は,どのような環境で制限超過部分を支払ったら任意の弁済と認めるのかに関するものであり,「債務者が利息制限法所定の制限を超える約定利息の支払を遅滞したときには当然に期限の利益を喪失する旨の特約」が契約書上に記載されているときは,借主は,約定利息をそのまま支払わなければ期限の利益を喪失する,すなわち,残元本を一括して返還しなければならないものと考え,そうならないように制限超過部分を含む約定元利金を支払い続けることを心理的に強制されることになるから,そのような場合における制限超過分の支払いは任意になされたものにはあたらないとするものです。これもまた昭和58年制定の貸金業等規制法上の「利息として任意に支払った」との文言の解釈としては理にかなっているのであり,「かわいそうな債務者を救済するために」アドホックにアクロバティックな解釈を最高裁が創出したものと見ることは難しそうです。まして,この最高裁判例をもって「2006年に最高裁が「みなし弁済」を認めない判決を出して実質的に上限金利を下げ」たというがごときは,全くの的外れということができます。法律上強制力のある上限金利は,利息制限法施行以降は,貸金業等規制法の施行の前後を問わず,一貫して一定(元本が十万円未満の場合 年二割,元本が十万円以上百万円未満の場合 年一割八分元本が百万円以上の場合 年一割五分)だったのです。

 同じく池田さんに批判されている今年の1月の最高裁判例ですが,これは,継続的に借入れと返済を繰り返す金銭消費貸借取引が行われている場合に,制限超過部分についての不当利得返還請求権の消滅時効の起算点を,各過払金の発生時ではなく,当該継続的な金銭消費貸借取引の終了時であるとするものであり,時効期間を大幅に延長するものではありません。これによって返還額に大きな変更が発生するのは,既に元本が消滅しているにもかかわらず,10年以上もの間当該高利貸しからお金を借りては返すということを繰り返してきたような例にほぼ限定されるのであり,量的な意味でのインパクトはそれほど大きくはありません。したがって,この最高裁判決を機に,「過払い金の返還を求める訴訟が激増」したとの事実はありません。

 過払い金返還請求訴訟の激増は,上記の2つの近時の最高裁判例の出現に先行して生じています。一つは,司法改革の一環としての弁護士広告の解禁に伴い,電車等の広告によりそのような手法が取り得ることが多重債務者に知られるようになったという点に起因しているということができます。もう一つは,パソコンの法律事務所における普及により,算術が不得手な弁護士でも,利息制限法の上限での金利の再計算を容易にできるようになったということがその要因としてあげられます。そのような再計算を電卓片手にやっていた時代と,取引履歴をスプレッドシートや専用ソフトに入力すれば再計算結果が自動的に算出される時代とでは,過払い金返還請求を行うのにかかる時間コストが圧倒的に違います。更に一つあげると,金融監督庁の指導等により,弁護士が代理人として取引履歴の開示を請求すれば,貸金業者は基本的にこれに応じざるを得なくなったということもまた,過払い金返還請求訴訟の激増に貢献していると思います。

 上述の最高裁判決は,いずれも最高裁のウェブサイト等で公開されており,かつ,日本語で書かれていますので,これを批判する前にまず読んでみればいいのに,と思わなくはありません。

【追記】

 このエントリーをアップロードした際に,アゴラの該当エントリーにトラックバックを送り,実際トラックバックされているのを確認したのですが,さっきアゴラを覗いたら,トラックバックは削除されていたようです。池田さん個人のブログについて池田さんに都合の悪いトラックバックを削除するのは自由だと思うのですが,アゴラで同じ事をやるというのはいかがなものかなあという気がしないではありません。まあ,livedoorの営業方針の範囲内だといえばそうだと思いますが。

11/04/2009

刑務所から手紙を出して証拠を消す蓋然性と不適正な取り調べで虚偽自白が引き出される蓋然性

 産経新聞の報道によれば,舞鶴女子高生殺害事件に関して,弁護人が京都府警に取り調べの可視化(全過程の録画・録音)を求める申入書を提出したのに対して,

府警は「適正な捜査をしており、可視化の必要はない」と主張。京都地検も「準抗告が出るのは想定の範囲内。今まで通り、自白した場合の録音・録画は行うが、全過程は考えていない」とし、「可視化の申し入れははやっているので、そういう戦略の一つだろう」と弁護人の動きを牽制するとともに、「刑務所から手紙を出して(証拠を)消すこともできるし、勾留請求でその辺りは盛り込んでいる」と反論した

 今後も「適正な捜査」をするかどうか疑わしいので可視化が求められているのに「適正な捜査をしており、可視化の必要はない」という反論は的を外しているとしかいいようがありません。そのような弁解が認められるのであれば,「これまでこの件に関してありのままの事実を語ってきましたので,これ以上の取り調べは必要ありません」という被疑者側の弁解も認めて,即刻取り調べを中止すべきではないかと思います。そうではなくて,あとでその状況が裁判官に知れたら任意性が飛ぶような取り調べを予定しているからこそ,可視化せよという要求は受け入れられないということなのでしょう。

 京都地検のコメントも,ばかばかしいの一言に尽きます。自白の任意性が争われるときにもっとも焦点となるのは,当初犯行を否認していた被疑者が自白に転ずる過程でどのようなことが行われたのかという点にあるのですから,自白に転じた後のみ録音・録画を行ってみてもたいした意味はありません。まあ,地検自身,警察による捜査が,とりわけ否認している被疑者を自白に追い込む過程では,適正に行われているとは信じていないので,このような回答になるのでしょう。

 「刑務所から手紙を出して(証拠を)消すこともできる」たって,あれだけ家宅捜索を行って,なおも刑務所からの手紙を受け取った人が隠滅できるようなところに証拠が残っている蓋然性がそんなにあるようには思われません。誰がどう見たってそんなことを気にして勾留請求をしているわけではなくて,府警が裁判官にはお見せできないような方法で取り調べを行って被疑者を自白に追い込んでくれることに期待していることが見え見えではないかと思われてなりません。

10/04/2009

「『企業活動の自由』は何よりも尊い」というレトリック

 池田信夫さんが,いわば壊れたレコードのようにまた同じようなお話をされているようです。

趣味の悪い邦題がついているが、原題は"Trade-offs: An Introduction To Economic Reasoning And Social Issues"。経済学は複数の目的のトレードオフの中から何を選択するかを考える学問だが、世の中にはそういう相対化を否定し、特定の目的がすべてに優先すると主張する人が多い。
特に多いのが、本書も指摘する「命は何よりも尊い」というレトリックだ。建築基準法が過剰規制だというと、「人命のために企業活動が制約されるということが池田先生には許せないのだと思います」などとからんでくる弁護士がいる。彼らはこのように人命と企業活動のトレードオフを考えること自体を許さず、人命が絶対だと主張する。それなら自動車の生産はすべて禁止しなければならない。

 法律家がトレードオフを理解できず池田信夫さんとそのお仲間がトレードオフを理解できているということではなく,法律家は,「企業活動の自由」よりも人命等に優越的な価値を置きそれを選択する傾向が高いのに対し,池田さんは,「企業活動の自由」に人命等の価値よりも優越的な価値を見出し,そちらを選択する傾向が高いというだけの話でしょう。

 そして,「企業活動の自由」と「人命」とを天秤にかけたときに「人命」に優越的な価値を置くのは法律家に限定された発想ではなく,また日本において顕著な思想でもありません。だからこそ,例えばほとんどの国では道路交通法にあたる法律を作って人命に危険を与える運転を事前に禁止し,また交通事故により他人を死傷させた場合に,損害賠償義務を課す他,刑事罰をも課す法制度を採用しており,かつそれは法律家以外の一般市民にも支持されています。危険運転致死罪が創設される段階で,「現在の物流は,トラック運転手による加重労働により支えられているのだから,トラック運転手など業務の一環として自動車を運転しているものによる死傷事故については,むしろ一切の法的責任を課さないこととするのが経済学的には正しい。」という意見は,法律家のみならず,一般市民からも出てこなかったように記憶しています。

 また,自動車については, 国土交通省で定める保安上又は公害防止上の技術基準に適合するものでなければ、 運行の用に供してはならない とする事前規制を様々な形で行っており,そのために企業に様々な経済的負担を課しています。この点においても,現行法は,企業活動の自由よりも人命等に高い価値を見出した選択をしており,それは法律家以外の市民からも広く支持されています。一部の経済学者は環境規制がとてもお嫌いなようですが,排ガス規制や騒音規制などを自動車について課すことも,企業負担の上昇に繋がるものではありますが,法律家のみならず,一般市民に支持されており,自分たちが健康的な生活をしたいがために企業に負担を強いる幹線道路沿線住民を「反経済学的だ」となじる人はあまりお目にかかることはできません。

 そういう意味では,単純な「企業活動の自由礼賛型経済学者」を除くと,自動車の運行による経済活動というものを認めつつも,その人命等に与える負の影響を最小化するために,様々な事前規制及び事後規制を組み合わせるというバランスの取れた議論が一般にはなされているように思われます。

 といいますか,個別的正義を守ろうとする法律家をやたら攻撃する類の経済学者(何学者とお呼びするかをその学位により判断するとすると,必ずしも経済学者とお呼びするのが妥当な方々ばかりではないようですが)こそが,「特定の目的がすべてに優先すると主張する人」にまさにあたるように思えてなりません。

08/04/2009

法科大学院では「自供獲得に起訴の成否をかけたギャンブル捜査」を肯定するのか。

 矢部善朗創価大学法科大学院教授とは、捜査の在り方について、根本的な考え方が異なるようです。すでに被疑者の供述を得ることなく収集可能な状況証拠はすでに集めつくしていて、自供なしでも起訴が可能な程度に至っていないときに、自供獲得に起訴の成否をかけたギャンブル捜査を行うということは、前例があるという意味では「異例」ではありませんが、いきおい無理にでも自白を引き出そうという取調べ手法に陥りがちであり、回避すべきことのように私には思えます。

 法科大学院では、旧司法試験制度下における前期修習終了時のレベルにまで学生を引き上げていただくことになっているのに、そこで「自供獲得に起訴の成否をかけたギャンブル捜査」は問題がないかのような教育が行われていたのでは、そのような教育を受けた新人検事にギャンブル的取調べを受ける被疑者はお気の毒です。

 山形マット死事件の教訓は活かされていないようです。

近接所持の理論を殺人の犯人性立証に援用する!だってさ

 矢部善朗創価大学法科大学院教授が次のように述べています。

 状況証拠による犯行認定の考え方の一つに「近接所持」という考え方があります。

 窃盗の被害日時に近接する日時場所において盗品を所持している者は窃盗犯人である蓋然性が高い→有罪認定が可能、という考え方です。
 これを本件に適用しますと、

(1)殺害被害の日時場所において被疑者が被害者に接触している。(2)被害者の死因は他殺である。(3)殺害被害の日時場所において被害者に接触していたのは被疑者だけであり、他の人物が接触していた蓋然性は極めて低い。

ということになりますと、被疑者が殺害犯人だという認定が可能になります。(可能というだけで認定が慎重であるべきなのは当然です)

 窃盗における近接所持の理論は,盗品を盗難事故と近接する日時・場所において所持する者が,その物の入手経路について合理的な弁解ができなかったときは,その者を窃盗の犯人と認定して構わないとするものです。この理論自体立証責任を被告人側に転換するもので許されないのではないか,黙秘権の保障をないがしろにするのではないかという批判もあるのですが,実務の世界では定着しています。この近接所持の理論は,(a)窃盗犯が盗品を犯行直後に全くの第三者に売りさばくことは困難であるという経験則と,(b)盗品を所持しているということは,自らが窃盗犯であるか,または窃盗犯から(直接に又は第三者を経由して)盗品の譲渡を受けたかの2通りしかなく,後者であれば盗品の所持者はその間の事情を把握しているということに支えられています。

 しかし,「被疑者が被害者と殺害行為に近接した日時場所で接触した」という事実からは上記(a)に相当する経験則を見出すことはできません。また,「被疑者が被害者と接触した」ということからは,そのときに被疑者が被害者を殺害したか,その後に第三者が被害者を殺害したのかの2通りしかないと一応いいうるのですが,仮に後者だった場合に,「被害者と殺害行為に近接した日時場所で接触した」被疑者は,その後被害者がいつどこで誰にあったかを把握しておらず,この点について合理的な弁解を行うことはできません。したがって,(b)に相当する,合理的な弁解がないことを犯人性の補強資料とする事項がこの場合には存在していません。

 「殺害被害の日時場所において被害者に接触していたのは被疑者だけ」だということが証明されれば被疑者以外の人間が殺害したことはあり得ない→被疑者が殺害したと認定できるではないかという意見もあるかもしれませんが,被疑者が被害者の元を去る場面が目撃され,まさにその秒単位という意味での「直後に」被害者が殺害されていたという特殊なケースならともかく,被害者が被疑者と接触していたことが明らかにわかっている日時と殺害行為との間に分単位での間隔がある場合に,「殺害被害の日時場所において被害者に接触していたのは被疑者だけ」という立証が出来ることというのは通常考えがたいです。「被疑者が被害者と接触した後に被害者と接触した第三者を捜査機関が把握できない」ということは十分あり得るとは思いますが,誰もが立ち入ることができる場所に被害者が居続けたのであれば「他の人物が接触していた蓋然性は極めて低い」ということは通常あり得ないというべきでしょう。

 したがって,(1)殺害被害の日時場所において被疑者が被害者に接触している。(2)被害者の死因は他殺である。(3)殺害被害の日時場所において被害者に接触していたのが被疑者以外には把握されていない,との点から,被疑者を殺害犯人と認定するのは無茶苦茶であるといえるように思います。

【追記】

 私を含む数人からの批判を受けてぐだぐだと弁解に走っているようです。

 ただ、矢部教授は、 例えば、出入り口が一つしかいない部屋に被害者一人だけがいて、その部屋に被疑者が入っていくのが目撃されて、数分後に被疑者が出てくるのが目撃されて、その後にその部屋に誰も出入りしていないことが確認できる状況において、その部屋から自殺ではあり得ない死因の被害者の死体が発見された場合には、被疑者を殺人犯人と認めることができる、というような場合ではない「本件」(舞鶴市女子高生殺害事件)に近接所持の理論を適用して見せたわけですし、それは、 しかし、防犯カメラの映像が本人であったとしても、それは「2人が一緒にいた」ことを示すに過ぎず、その後の殺害に至る経緯や動機は明らかになっていないとの産経新聞の報道に対して、すでに被疑者の供述を得ることなく収集可能な状況証拠はすでに集めつくしていると見るべきですとの立場から反駁するという文脈でなされているわけですから、元のエントリーをアップロードした当時、矢部教授は上記のような極端事例以外でも、具体的にいえば、「本件」のような場合であっても、近接所持の理論を適用して、主観的立証責任を被疑者側に転換できると考えていたのではないかと合理的に推測できます(まあ、批判を受けると「誤読」とか「印象操作」とかというレッテル貼りで対抗するのが好きな方ですから、まあ似たような「反論」がくるのかもしれませんが。)。

07/04/2009

Yahoo!動画とGyaOの統合

 読売オンラインの記事によると、

ヤフーとUSENは4月7日、ヤフーがUSENの100%子会社であるGyaOの株式の51%を譲り受けるとともに、2009年秋からYahoo!動画とGyaOの両サービスを統合させることに合意した。

とのことです。

 それで、GyaOのコンテンツがiPhoneで見れるようになるなら、歓迎です。iPhoneで見ることができるYahoo!動画って、現状、お笑いとグラビアとperfumeくらいしかないので、どうにかして欲しいところでしたし。

広辞苑をインストール

 iPhoneに広辞苑をインストールしました。

 広辞苑の第6版を紙バージョンでも購入していませんでしたし、常用の電子辞書も広辞苑が入っていないので、「高い!」とは思いつつも、インストールすることにしました。お仕事的には言葉の説明が刺激的な辞書よりも、定評のある辞書の説明を引用する方が望ましいといった側面もあるので、何らかの形で広辞苑をもっていることはとても意味がありますので。

 こういう大きなアプリを入れると、聞く頻度の低い楽曲を「泣いて馬謖を斬る」思いでiPhoneから削除していかないといけないので、Apple社は早々に36GB程度のiPhoneをリリースして、既存ユーザーが安価に「バージョンアップ」できるようにすべきだと思う春の日の夕暮れです。

検察による恣意的・政治的な権力の行使を肯定する人の教員適正

 法科大学院において,罪刑法定主義を軽視したり,党派的に偏らず公平・公正に司法が運用されるということに特段の価値を見出さないという人が刑事系の教科を教えるというのは,私は適切ではないと思っていたりします。そういう考え方を植え付けられた法科大学院生が法曹資格を取得し,検察官や裁判官になったときに,社会に与える害悪はとても大きいからです。

 「検察官等の捜査機関はアドホック的に刑罰法規を拡張解釈して市民を逮捕・起訴してよく,しかも,その捜査権は政治的に中立的に行使する必要はない」ということを認めてしまうと,捜査機関にその構成員を相当数送り込んだ組織は,その組織にとって都合の悪い者を警察・検察権力を用いて社会的に葬り去ることが合法的にできるようになってしまいます。捜査機関が如何にアドホック的に刑罰法規を拡張しても自分には逮捕される要素は一切ないというほど綺麗に生きている人間などほとんど存在しませんから。多くの実務法曹は,司法がそのような政治的な手段として活用されることをとても嫌います。それ故,多くの実務法曹は,今回の小沢一郎秘書逮捕事件については批判的です。

 さらに,検察が,野党第一党の党首を追い詰めるために,被疑事実と直接関係のないことを含めてマスメディアに情報を「リーク」するということは,多くの実務法曹はこれを許されないことだと考えます。捜査機関が公的資金と公的権力の元で収集した情報は,誰を起訴しまたは起訴しないかを適切に判断し,起訴した場合に適切な広範活動を行うためにのみ活用されるべきであって,政権与党の援護射撃等,その他の政治的な目的に活用されるべきではないと考えるのが,実務法曹の間では一般的だと思います。捜査機関はそれが虚偽でない限りマスメディアに捜査情報をリークすることは何ら問題はなく,これを取り上げて報道するマスメディアのみを批判すれば足りるとか,どこまでが捜査機関のリークによる報道かについて正確な情報を有しない一般市民どもは捜査機関によるリーク云々を批判する資格はない等と嘯く人々が,法科大学院の刑事法分野の教員として後進の指導をしているということは,彼らの指導を受けた人間がその教えに従って検察権限を政治的な目的で濫用する危険が高まるという意味で,私たちをぞっとさせるものです。

 検察権力が,アドホック的に刑罰法規を拡張解釈して,自分たちに都合の悪い法改正を指向する政党を追い詰めるために,総選挙に近い時期を見計らって,野党第一党の党首の側近のみを逮捕・起訴し,被疑事実と直接関係のないことを含めてマスメディアに情報を「リーク」するということの問題点を指摘し,この点について検察の首脳がどのような認識でいるのかを問いただし,検察がそのように政治的な権限の濫用を行えないような仕組みを講ずることというのは,まさに立法機関でありかつ政府の行動についての監視機関でもある国会がまさになすべきことです。現実に検察権力の恣意的な行使を受けた野党第一党がそのような行動をとろうとしたことを逆手にとって,当該政党が政権を取ったら大変なことになると煽り立て,検察権力が如何に恣意的に濫用されようとも何人も(国会であっても)これを制御すべきではなく,検察にはその権力を恣意的に濫用するフリーハンドを未来永劫与え続けるべきと主張される方というのは,実務法曹の中では極めて特殊だと思われます。そういう方に,それが正しいこととして教え込まれる法科大学院の学生というのは,彼らが検察官や裁判官になった暁には,末恐ろしい存在になるなあと危惧してやみません。

06/04/2009

教員資格の適正さについて論ずること

 一部に誤解されている方々がいるようですが、特定の大学教授を名指しして、研究者としての業績又は実務家としての実績が乏しい故に大学教授としては不適格であると評するのは、正当な批判です。仮に、文科省が様々な思惑の元審査した結果その者を教授とすることを認可したとしてもです。教授たる要件は学校教育法に規定されており、当該教授の所属大学および文科相の判断が間違っていたというだけの話だからです。

 とりわけ、法科大学院については、その卒業生のみ司法試験を受けることができるという特権が付与されていること、それでいながら、いわゆる「下位校」が我も我もとその設置を望み、文科省も、司法試験予備校との縁を絶ちきったところについてはかなり緩やかにこれを認めたが故に、分不相応な教員資格を取得するに至ったものが少なからずいるからです。

 実務家教員には著書・論文等の業績は不要であるという見解の方もおられるかも知れませんが、「理論」からは導き出されない実務特有の事項を教えることを担当するのならばともかく、具体的な実定法の担当として教鞭に立つのであれば、著書・論文等を見て、その人が当該実定法につきどの程度理論的に把握しているのかを見た上で教員資格を付与すべきだったのではないかと思ったりはします。もちろん、そのように教員資格のハードルをあげると、必要とされる教員数を集められないところは出てくるとは思うのですが、そういうところは潔く法科大学院の設置を諦めるべきだったのではないかと思うのです。

【追記】

私は、学校教育法の規定ぶりからいっても、大学教授って原則誰を指名しても良く例外的に指名してはならないものがいるという類いのものではなく、業績や実績が顕著なもののみのみが指名される資格を有していると考えています。だからこそ、そのような顕著な業績や実績が明らかでないということ自体が批判の根拠となりうるのであって、その批判は妥当ではないと考える者がその教員の業績や実績が顕著であることを示していく必要があると考えています。

あなたとは違うんです。

 矢部善朗・創価大学法科大学院教授がご自身のブログのコメント欄で次のように述べています。

 あの日の小倉弁護士はかなり暇だった可能性が高いですよ。
 誰でもわかると思いますが。

 何を根拠に私が「かなり暇だった可能性が高い」と仰っているのでしょうか。

 私が事務所に到着する前に2回も矢部教授から電話があり、そのうち1回は私の事務所にいる、私よりもキャリアが上のM弁護士宛だった(と、矢部教授からの電話を受けた事務員から聞いています)とのことなので、多忙だからといって放置しておくわけにも行かず、折り返しの電話をさせていただきました。暇だったわけではありません。

 矢部教授からは、エントリーの削除を求められたおり、削除に応ずるかどうか検討するにしても昼間はその時間がないからとそれを拒みましたが、矢部教授からは何度もすぐに削除せよと求められました。電話を切った後もまた電話を架けていて、今日の0時までが期限だと伝えるようにと事務員にわざわざ伝えてくるほどの執着ぶりでした。昼休みに取り急ぎエントリーを修正したのは、これ以上、事務局に不安を与えてはいけないと考えたからです。暇だったからではありません。

 といいますか、年度末の3月30日に暇なわけないではないですか。実際、今月中に書き上げなければならない書面をいくつも抱えていて忙しかったのですから。

04/04/2009

取調べの全面可視化を推進する政党と反対する政党

 平成20年6月3日の参議院法務委員会で公明党の木庭健太郎議員は次のように述べていました。

今回、民主党から全面可視化を目指す、目指すというか全面可視化の刑事訴訟法の一部改正案が今回出されたわけでございます。私どもも将来的な全面可視化の方向性ということについては共通するものがあると思っております、あると思っております。ただ現段階で、先ほども御指摘がありましたが、日本の捜査方法の問題、そして今の捜査の現状を考えたときに、直ちに全面可視化ということが果たして本当に我が国の司法の中で正しい判断であろうかどうかということについては、いささか疑問を持っているというのが今の我が党のスタンスでございまして、まず検察、警察もそれぞれ可視化の方向で取組を始めたばかりであり、我々は、これらの施策、可視化だけでなく、その他の適正化で警察、検察が今歩み始めたその施策の十分な検証を行う必要もあると、こういうふうに認識もしておる次第でございまして、まず法務省、警察庁にそれぞれ、様々な問題を抱えた上でどう取調べの適正化を図っていこうとしているのか。概要を簡潔にそれぞれまずお聞きしておきたいと思います。

その一方で、やはり全面可視化については、先ほど自民党の先生からも意見があり、また警察庁も意見を申し述べておりましたが、やはり全面的可視化、すべてを可視化ということになってしまうと、取調べの最中に言及したような被害者のプライバシーという問題について、それが後に公になってプライバシー侵害という問題が起きるのではないかという指摘はいつもなされます。このプライバシー侵害という問題についてどうお考えになっていらっしゃるのかというのがまず一点、確認をしておきたいことであり、もう一つは、やはり可視化という問題、もう映るという問題、これも先ほどから大臣もおっしゃっていましたが、そうなると、やっぱり被疑者が供述をためらってみたり、かえってそのことが、犯罪動機を含めた事実の詳細の解明が不可能になってしまって、可視化によって真実から遠のくというおそれがないのか。事件の真相をきちんとするというのがまさに捜査の基本であり、ある意味では被害者やその遺族に対してこたえられない結果になってしまうのではないかという指摘があるのも事実であって、この二点、プライバシーの侵害という問題、そして全面可視化が真実から遠ざける、この二点について、それぞれ民主党として、法案提出者としてどう考えているか、申し述べていただきたいと思います。

 取調べの全面可視化を義務づける刑事訴訟法改正案を提出し参議院で可決させてしまう民主党と,否認する被疑者を「自白」に転じさせる過程を依然として秘匿させることに協力的な公明党とを比べたときに,検察庁として次の総選挙でどちらに勝利して欲しいかということは見えやすい話です。特に,公明党≒創価学会は,虚偽自白により無実の人が有罪となる危険を甘受してまで「取調べの最中に言及したような被害者のプライバシーという問題」を重視して取り調べの全面可視化には反対するのに,取調べの最中に被疑者等が語ったことが捜査機関により公式又は非公式に公開されて被害者等のプライバシーが侵害されるという問題はさほど重視しないときているわけです。

 今回の小沢一郎氏の秘書の政治資金規正法違反被疑事件のように,自白をとるために無理な取り調べが行われる危険が高いものについては,取調べ状況をテレビカメラで撮影して,インターネット回線を経由して,各単位弁護士会に設けられた然るべき部屋で,弁護人がリアルタイムで取調べ状況をチェックできるようにすべきなのではないかとすら私は思ってしまいます(画質が素晴らしい必要はないので,技術的には,そんなに困難ではないでしょう。)。もちろん,国策捜査を受けたくなければ刑罰法規をアドホック的に拡張適用されて逮捕されないようにせいぜい身ぎれいに生きていくことだなと嘯く人たちからすれば,表には出せないような方法をつかってでもあいつから「自白」をもぎ取ってやろうと思われた時点で自業自得ということになるのかもしれませんが,それはそれでいかがなものかなあという気がします。でも,今回の件で民主党が総選挙で敗北した場合,捜査機関が虚実交えてリークを行うことを可能とする取調べの密室化を公明党は維持し続けるような気がします。

お花見 in 2009

 昨日は,午後6時30分から事務所の花見でした。事務所を出発して,最高裁の脇を通り,お堀端を歩いて千鳥ヶ淵を通り,九段下に着いたら,靖国神社を通り抜けるというのが,恒例のお花見コースです。桜自体は,昨日と今日がおそらくピークなので,今年は花見の開催日の設定が見事に当たったということになりそうです。

02/04/2009

むしろ、読者に斟酌される属性をコントロールしたいのでしょう。

 属性が加味されることに賛同できない人は、論者に関する属性に言及されている部分を無視すればよいのではないかという気もするのですが、どうもそれは彼ら自身望んでいないのではないかという気もします。そうではなくて、どのような属性を読者が斟酌するかは俺にコントロールさせろといいたいだけなのではないかという気がするのです。

 矢部善朗氏についていえば、わざわざ「モトケン」というハンドルネームを名乗ってまで、「検察OB」であるという属性を強調しているのであって、論者の属性を捨象して純粋な「論理」のみで勝負しようとはしていないわけです。あのブログの常連コメンテーターの多くもまた、その氏名等は明らかにしないもの、医師だの弁護士だの公務員だの法務業だのというご自分に都合のよい属性は、立派に強調しているわけです。

 「検察OB」という、「刑事法や刑事手続に熟知している」との推定、「そのような者が刑事法や刑事手続に関して述べていることだから概ね信頼できるのであろう」という推定が読者に働くであろう属性がをその論者自身により読者に提示されている場合に、その推定を障害する属性(彼が過去に担当した事件は捜査過程に重大な問題があったと多くの法律家によって考えられていること、彼の所属する組織は当該被疑者ないしその関係者の評価が批評対象の刑事手続により下落することにつき利益を有していること等)を指摘することは、むしろ議論の健全性に資するのではないかとも考えられるのですが、「属人論法は怪しからん」といっている人々は、それを「怪しからん」といっているようです。

 まあ、ネット上では些末的なところで「勝ち負け」を判断したがる人がいるのですが、ある犯罪類型を「形式犯」ではなく「実質犯」と解することによって処罰範囲を拡張することができると考えている法律専門家が彼以外にどの程度いるのかを見てみれば明らかではないかという気がします。実質犯における「故意」にしても、当該刑罰法規により保護しようとしている法益が侵害され又はその危険は発生することの故意があればそれだけでよいというのではなく、その認識・認容している事実関係自体で当該犯罪の客観的要素を全て構成できることを要すると考えるのが法律専門家の間では一般的でしょう。

「実質犯だ」と解釈すればどんどん拡張解釈が許されるってものではない

 犯罪を実質犯と形式犯に分けた上で,実質犯については,それが守ろうとする法益を実質的に侵害する行為については,刑罰法規の文言を無視して,これを適用として処罰しても良いとする奇妙な解釈をする方がおられるようです。しかも,この方の見解によると,実質犯か形式犯か,すなわち,刑罰法規の文言を無視してこれを適用して良いかどうかは司法・準司法部門が解釈によって自由に決めることができるとのことのようです。

 一般には,実質犯というのは,犯罪が成立するためには法益の侵害または侵害の危険の発生が必要である犯罪をいうのであって,刑罰法規により明確に禁止された行為が行われなくとも,法益の侵害または侵害の危険の発生させる行為に拡張的に適用させることが許される犯罪をいうのではありません。私が刑法を学んでいたころは,「実質犯においては,犯罪が成立するためには法益の侵害または侵害の危険の発生が必要である」という命題から,「実質犯については,その法益の侵害または侵害の危険の発生させる行為に対しては,その刑罰法規による明確に禁止された行為以外の行為に対しても拡張的に適用して良い」とする見解はほぼ存在していなかったのですが,最近は,某法科大学院の一部では違う教え方をしているのかもしれません。

 この考え方にたった場合,例えば,著作権侵害罪のような保護法益がはっきりしている犯罪については,著作物等の新たな利活用について著作権者等の許諾なくしてこれを行うことを禁止する新規立法を国会が行わなくとも,捜査機関が法律を拡張的に解釈して(明文の規定では禁止されていない)新たな方法での著作物の利活用を行うものを逮捕起訴し,裁判所が有罪認定することが許されるということになります。普通に考えれば,そんな馬鹿な話があっていいものか!ということになるのですが,その方の見解を批判すると,事務所にまで電話をかけられ,高圧的に削除せよと迫られますので(「その考えは間違っている」という指摘を「お前は嘘をついている」という攻撃と同視されてしまうくらいですし),まあ難儀なことだなあと思います。

01/04/2009

iPhoneアプリとしての電子辞書の未来

 iPhone用のアプリで注目すべきものの一つは,辞書アプリです。

 辞書なら従前の電子辞書でいいではないかと言えそうな気がしますが,従前の電子辞書と,一つ大きな違いがあります。従前の電子辞書だと,各プラットフォームと組んだ特定の辞書しか利用できないのに対し,iPhoneの場合,おびただしい種類の辞書の一つまた複数をユーザーが自由に選択することができます。そして,それ故に,かなりニッチな辞書を流通させることができます(先ほど見た限りでは,ラテン語や,ポルトガル語の辞書などもありました。)。

 また,従来の電子辞書ではユーザーインターフェースはプラットフォームごとにほぼ統一されているのですが,iPhone用の辞書の場合は,辞書開発会社の方で相当自由にユーザーインターフェースを組み立てることができます。これは,競争の激しい,国語系と英語系では,相当の切磋琢磨が期待できるところです。

 とりあえず気に入っているのは,i英辞郎で,英熟語をそのまま検索できる機能です。すなわち,従前の電子辞書では,例えば,「get off」という英熟語の意味を調べるには,「get」を引いて,その上でその「成語」を検索するという手順を踏む必要があったのですが,i英辞郎では,検索窓に直接「get off」と入力すれば足りるのです。

 また,イギリス英語で書かれた文献を読む機会が多い場合,電子辞書で折角目的の単語を引き当てても,これに対応するアメリカ英語の単語が表示されているだけで,改めて当該米単語を検索窓に入力しなければならなかったのですが,i英辞郎等では表示されている米単語をプッシュするとその米単語の説明部分に飛んでくれるので,大分無駄な時間を省ける感じがします。

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