度重なる「読み間違い」の何が問題か。
麻生太郎首相が、長崎市で行われた長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典において、「傷跡」を「きずあと」ではなく、「しょうせき」と読んだことが話題となっています。
私は、麻生首相による「読み間違い」騒動のうち、非難される度合いの高いものと低いものとがあり、この読み間違いは前者にあたると考えています。長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典における首相の挨拶は、国会における施政方針演説と同様、日本国の行政府の長として行うべきものですので、本番の前に、スタッフ等を前にして、全体を声を出して読んでみるべきものなのに(単に、漢字を間違いなく読めるかというだけでなく、読み終えるまでの時間が長すぎずかつ短すぎないか、同音異義語が多い日本語において聞き手から誤解されることはないか等々、声に出すことによってチェックすべき事項はたくさんあります。)、それを怠っていたが故の事故だからです。
党首討論のように、アドリブで発言しなければいけない場面で漢字を読み間違いを行ったということであれば、単に無知を晒したというだけの話ですが、重要な式典での挨拶のように、予定調和で終わらせなければいけないものについて、事前に読み合わせをしておかないというのは、一種の職務放棄に他ならないのです。首相であり続けたいが、首相としての職務を全うすることに全力を注ぐことができないことが、度重なる「公式のスピーチ」での読み間違いには見て取れる──そのことこそが最大の問題なのです。
« 取調担当官のやり口を隠蔽する「ダシ」としてしか尊重されない被疑者のプライバシー | Accueil | Economist誌の常識というのは世界の政治・経済の指導者の常識? »
L'utilisation des commentaires est désactivée pour cette note.
« 取調担当官のやり口を隠蔽する「ダシ」としてしか尊重されない被疑者のプライバシー | Accueil | Economist誌の常識というのは世界の政治・経済の指導者の常識? »
Commentaires