SLAPP訴訟?
訴訟の提起自体が不法行為となる場合について、最判昭和63年1月26日民集第42巻第1号1頁は、次のように判示しています。
民事訴訟を提起した者が敗訴の確定判決を受けた場合において、右訴えの提起が相手方に対する違法な行為といえるのは、当該訴訟において提訴者の主張した権利又は法律関係(以下「権利等」という。)が事実的、法律的根拠を欠くものであるうえ、提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起したなど、訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるときに限られるものと解するのが相当である。けだし、訴えを提起する際に、提訴者において、自己の主張しようとする権利等の事実的、法律的根拠につき、高度の調査、検討が要請されるものと解するならば、裁判制度の自由な利用が著しく阻害される結果となり妥当でないからである。
一部のジャーナリストたちが、自分たちに対する名誉毀損訴訟を「SLAPP訴訟」とレッテル貼りして、これを規制しようと試みているようです。しかし、裁判制度の自由な利用が著しく阻害される結果となることを回避するために訴訟の提起が不法行為となる場合を最高裁が限定した趣旨からすれば、ジャーナリストやメディアに対する名誉毀損訴訟が上記不当訴訟の要件を具備しない場合には、かかる訴訟の提起を「SLAPP訴訟」とレッテル貼りしてこれを抑制することは許されないと言うべきです。なぜなら、市民が報道被害対策として裁判制度を自由に利用することが阻害されることは回避すべきだからです。
一部のジャーナリストは、表現の自由は重要であるから、これを抑制するために訴訟を提起するのは許されないと考えているようです。しかし、表現の自由と負けず劣らず、個人の人格的利益、とりわけ名誉は重要です。そして、刑法に「名誉毀損罪」を置き、「公共の利害に関する事実について、専ら公益目的をもって行った名誉毀損行為についてのみ、摘示事実が真実であることを立証できた場合に限り、違法性を阻却する」制度を採用している日本法は、むしろ、表現の自由よりも名誉の保護に軸足を置いていると言うことができるでしょう。そうであるならば、現在行われている名誉毀損行為を中止させ、また、さらなる名誉毀損行為を予め抑止するために名誉毀損訴訟を提起することは、何ら非難されるべきことではありません。中には、そのような訴訟において原告の代理人を務めた弁護士を懲戒するように弁護士会に申し入れ、これが拒絶されるや、弁護士自治を剥奪せよと放言するジャーナリストもいるようですが、現在行われている名誉毀損行為をやめさせ、報道される側の利益を守ろうと活動することを懲戒事由としてしまえば、我々弁護士は、報道機関やジャーナリストにより如何に陰湿なデマ攻撃がなされても、自らの法曹資格を捨てる覚悟をせずには、被害者救済のために立ち上がれないことになります。ジャーナリストにとっては夢のような社会ですが、攻撃される側にとっては救いのない社会が実現することとなります。
一部のジャーナリストやそれに与する法律家の中には、名誉毀損訴訟を起こす側に、その名誉を毀損した摘示事実が虚偽であることの立証責任を負わせよと主張しているようです。しかし、これは二重の意味でバランスを欠きます。
まず、報道等により突然その名誉を毀損された者に、「なかったことの証明」すなわち悪魔の証明を強いることになるという意味でバランスを欠きます。しかも、ジャーナリストは、自分が気にくわない人や団体を貶めるためであれば、いくらでも荒唐無稽なストーリーを設定してその名誉を毀損することができます。しかし、その摘示事実が現実と乖離していればしているほど、名誉を毀損された側は、そのような事実がなかったことを立証することは困難となります。例えば、マスメディアに3億円事件の真犯人と決めつけられた人物が社会の偏見に苦しみついには自殺してしまったということが過去にありましたが、その人はたまたま3億円事件の犯行時刻にアリバイがあったので真犯人ではないことがわかっていますが、逆に言うと、アリバイ立証ができない場合に、そのころその地域に住んでいて年格好が似ていた人が3億円事件の真犯人でないことを立証することは困難です。
また、ジャーナリストや報道機関は、当該事実摘示により、経済的な利益を得る機会を与えられており、多くの場合、実際に経済的利益を得ています。これに対し、名誉を毀損される側は、自己に関する事実が報道機関により摘示されることによって何らの利益をも受けないのが通常です。であるのに、摘示事実が真実であるか否かの立証責任を、名誉を毀損される側が負わなければならないというのは不合理です。
また、ジャーナリストや報道機関は、報道される側に関する特定の事実のみを意図的に切り取ってこれを摘示するわけですから、その立証責任を負わされたとしても、その事実に関連する裏付け資料を収集しておけば足ります。これに対し、報道される側は、報道する側が自己に関するどの事実を取り上げるのかをコントロールすることはできないし、予測することも困難なので、報道する側からいかなる事実摘示を受けてもその事実がなかったことを立証できるようにしようと思ったら、自己の行動・言動の全てを記録に留め、保管しておく必要が生じますが、それは非現実的です。
また、報道された側に摘示事実が真実でないことの立証責任を負わせた場合、報道された側は、その事実が真実でないことを立証するために、プライバシー情報や営業秘密、あるいは第三者との間で秘密保持義務を負っている情報を開示する必要が生ずる場合があります。秘密情報を開示するか、名誉を毀損されて泣き寝入りするかの選択を報道側に迫る正当性が、ジャーナリストや報道機関にあるとは思えません。
名誉毀損訴訟においては被告の側に摘示事実の真実性の立証責任を負わせている現行制度においても、ジャーナリスト側がちゃんと裏付け取材をしていれば、報道された側の請求は棄却されているわけで、真実性の立証責任を転換するメリットは、裏付け取材なんて面倒なことをしたくない怠惰なジャーナリストや報道機関を利する意味しかないように思います。
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